48 / 55

第48話 落とし前

 息を深く吸い込み、喉の奥に力を込めて、  膝の上で手のひらを握りしめ、  ――それから、目を閉じた。  背後で座面がゆっくりと沈み、体温の熱が、ノアの背中に近づく。  身じろぎした人は、それからしばらく動かなかった。  息がつらくなって、喉の奥をひらく。  わずかに空気を通して、唾を飲み込んだ瞬間に――    それは、――来た。 「――――っ」  肩が揺れて、ローグの唇が一度離れた。  首すじから走る、びりびりとした痺れ。  腹の底が震えて、かすかに喉の奥が鳴った。  喉を閉じて、息を飲み込み、――もう一度飲み込んでから、息を吐き出す。  跳ね上がった肩を下ろし、すくめていた首を伸ばして、もう一度傾ける。 「……無理すんなよ」  背後から聞こえた声に、奥歯を噛み締めた。  小さく首を振る。 「――弱いんです。気に、……気にしないでください」  より首を傾けて、少しだけ後ろに肩をそらす。  早くやれ。  言葉なく、そう告げた。    うなじのあたりで、かすかにローグの呼吸を感じる。  前にこうして首をさらしたときには、少し笑い合ったはずだ。  それから、肩に重みを預けられて、崩れた体を支えられて――  ローグの唇が、またお守りの場所を食んで、ノアの視界が揺れた。  次はローグも唇を離さず、ほんの少しだけ、その場所に舌を這わせた。    ぞわぞわと背筋をこぼれ落ちる感覚と、びりびりと肌を駆け抜けるくすぐったさ。  耐えるために腹に力を込めると、胎内が震えて息が揺れた。  口元を手の甲で押さえる。  また、舌先がノアの首すじをなでた。 「――――っ」  息の震えを止められなくて、もう片方の手でも口元をふさぐ。  目を閉じて、眉をきつく寄せると、少しだけ瞼にこもった熱が散った。  軽く吸い上げられて、目の前がくらくらとする。  肌が震えて、びりびりとした刺激が広がっていった。 「――――」  息が跳ねて、どうしようもなくて、ゆるく首を振る。  そのままでは姿勢を保っていられなくて、ソファに少し乗り上げていた足を引き寄せた。  そのまま背もたれに体を預けて、大きく息を吐く。  あの日。  崩れそうなノアを支えていた腕。その熱。  寝床に転がる背中。  桶に張られた水。きれいに畳まれた着替え。  毛皮に差し込んだ指、伝わる柔らかさと、ぬくもりと、  ――ローグの、におい。    忘れたことなんて、なかった。    だけど――    手のひらの下、細切れに跳ねる息。  うまく吐き出せなくて、 「――――っぅん」    今は、触れているのに――  どうしようもなく、――孤独で。    目を、ぎゅっとつむっても。  もうごまかせなかった。  熱のこもった瞼が震えて、  口元を抑える手のひらの下、唇がわなないていた。  ――どれだけ息を殺しても、誤魔化しきれない。  そんなことはわかっていたけれど。  両手で押さえた口の下、呼吸の跳ねるのをなんとか押しとどめていたら、  ついと、指先で目の下をなでられた。 「――――っ」  思わず振り返ると、首すじから顔を離したローグの顔が、すぐ、そこにあった。 「……なに」 「そんな、泣いてまですることじゃない」  泣いてなんて――  口をひらこうとして、ひく、と鼻が鳴って、言葉を飲み込んだ。 「恋人との大切な場所なんじゃないのか。  あんた自分でそこが弱いって知ってる程度には、かわいがられてるとこのはずだ」  小さく、首を振った。  ――違う。 「そんなんじゃ――」  言いかけて、息を吐き出せなくて、  どうしようもなくて、顔を背けた。  手のひらで口を押さえて、しばし息を止めた。  泣きたくなんてない。  息を飲み込んで、手のひらの下で、大きく吸って、――吐いて。  人差し指と中指の間を、しずくが一粒落ちていって。  また、大きく吸い込んで、飲み込めない何かが喉の奥に詰まって、  ――ダメだった。 「と……、とっくに、――振られました」  両脚を体に寄せて、両手で顔を隠した。  このことで、泣いたことなんてなかったのに。 「それに。……恋人でも、なんでも――」  眉をきつく寄せる。  ただの、揉めごとよけ。  ――それでも、  じんと瞼が熱くなって、 「なんでもない」  涙声は隠せなくて――  頭の上、温かい重みが加わった。 「――あんたそれ、……恋人でもない奴に、そんなことにされてたのか?」  チリチリ――  頭のてっぺん、ローグの手のところから、首すじ、背中、頬まで、  くすぐったさが肌を走る。  ローグの指が動いて、少しだけノアの髪の毛をかき寄せた。 「……無責任だろ」  ――は。  音になりきらないままで、喉の奥がほどけて息が漏れた。 「はは――」  ――無責任。 「ふ、っふ――は……っ」  あんたのことだ。  おかしくて、 「――本当……ですね」  手の甲を額にこすりつけて、  ため息をついた。  でも。 「……でも、オルブライトさん――」  両脚を引き寄せて、抱え込む。  ――あんたは、気高いな。  そう言って笑ったローグに、  あれで、全部報われたと思ったのに。  とっくに弔ったと思っていた恋心はまだここにあって、  何か傷口みたいなものを抱えたまま、  今、ノアの目の前に、引きずり出されてきた。    「すごく、……好きだったんです」    そんなノアを、頭上の手がゆっくりとなでて、    ――離れた。  ゆっくりと、肺の奥から息をはく。  熱くこもっていた何かの塊が、ノアから出ていった。   「すみません。今日だけ、――今回だけです」  膝の間に頭をうずめて、深く息を吸った。  それから大きく息を吐いて、右の膝に頭を寄せる。  目を閉じたまま、体の力を抜いた。 「……次からは、もう泣きませんから。」 「……まだ、好きなんだろ」  薄く目を開く。  目線をやると、穏やかな色をしたローグの目と、目があった。 「……ふふ」  好きなもんか。  もしそうでも――  あんたに、言われたくはない。    深く、呼吸をして鼻先の熱を逃がしていると、背後でローグも背もたれに体重を預けた。 「……それは、大事にしてやらなくていいのか」  目を閉じて、考えてみる。  この恋心。  その向かう先がそこにいて、その人を守りたくて、自分がここにいる。  鼻先から、ふっと息が漏れた。  ――ああ、   「ふふ……、大事にしてます。――してたみたいです」  ずっと、ここにあったんだ。    それを、閉じ込めていたから、   「――じゃあ」 「続けましょう。それと、――これとは別なんで」    むき出しの想いが、こんなにも痛い。   「ああ、でも……」  大きく息を吐き出して、  脚を引き寄せていた腕の力を、少しだけ抜いた。 「気づけて良かったです。……ちゃんと、わかったので」  今度こそ、  きちんと終わらせよう。  終わるまで、見届けて。 「ちゃんと、大事にします。……大丈夫です」  そのあとで、弔ってあげよう。  ローグはその後しばらく黙っていたけれど、「そうか」と一言呟いて、また顔を寄せた。  もう肌がびりびり震えることはなくて、でも、吐息に熱がこもるのも、時々喉が鳴ってしまうのもどうしようもなかった。 「――あんた、寝てたらどうだ?」  時々休憩を挟みながら一時間ほど、うんざりするほど長い時間をかけて、一回目の「交渉」を終えたあと。  膝を抱えたまま動けなくなったノアの首すじを、浴室から持ってきた手拭いで拭いながらローグが言った。 「――え?」  こわばっていた体の力を緩めて、きしむ指先を曲げ伸ばしして、呼吸を整えたりしていたから、  ローグの言ったことをすぐには理解できなかった。 「心配なら管理官呼べばいい。……寝てる間に、済ませりゃ楽だろ」  言われた言葉を反芻して、むかっとした。  ウサギを前に、ずっと無視し続けた狼だ。  心配なんているわけもない。  首元を拭っていたローグの手を押し返して、ノアは首だけで振り返った。 「ご迷惑ですか」 「――あ?」  片足をソファから下ろして、体ごと向き直る。  ローグが、少しだけのけぞってノアから距離を取った。 「俺がこうなるのが、ご迷惑ですか」  じっとその目を見つめ返すと、ローグは少し黙ってから、首を振った。 「……いや、そうじゃない」 「なら、――このままでいいです」  口を開きかけたローグを、少しだけ手を上げて押しとどめた。 「自分の決めたことです。――その落とし前くらい、自分でつけます」  毎日、一時間。  見込みでは、おそらく十日程度。  それくらい、やりきってやる。 「あんた――」  ローグはそこで言葉を切って、それから、横に向けていた体を元に戻した。  背もたれに体を預けて、少し体を揺らす。   「あんた、プライド高いって、言われたことないか」  きゅっと喉元がしまった。  ――あんたは、気高いな。  あの日のローグの声が、耳の奥によみがえって――    ノアは、少しあごを上げた。 「――美徳です」 「ふはっ……」  とうとう声を上げて笑ったローグは、そのまま背もたれに頭も預けて、ぐるりと首を回して、目をつむった。  手の甲を額に当てて、大きく息をついて。 「――そうだな。……ただまあ、そういうのは」  ふっ、と鼻を鳴らして、ローグが言葉を続けた。 「――人の目を惹く。気をつけた方がいい」    それっきり、ローグはしばらく動かなくて、  部屋には、呼吸の音だけが聞こえていた。   「――あの、……オルブライトさん」  そっと声をかけると、ローグが、静かな声で応えた。 「……ローグでいい」  少しだけ、顔色が悪く見えて、  ノアはローグの顔を覗き込んだ。 「何か、――できること、ありますか」  あまり近寄ることはできなくて、でも、放っておくこともできなくて。  尋ねた声は、思ったよりも弱かった。 「――あ?」  背もたれに頭を預けたまま目をつむる人は、かすれた声で応じた。  この人は、命に関わるほどの危機にさらされている。  ついそのことを忘れてしまうほど、何もない顔をしてみせるけれども。 「――おつらいですか?」  ノアの言葉に、  ため息のような、笑い声のような。  乾いた音だけが聞こえた。 「ならあんた、我慢し過ぎるのはやめろ」 「――我慢?」  話の繋がりが見えなくて、問い返す。 「ああ……」  額から手を下ろして、ローグがこちらを眺めた。 「反応だの声だの、我慢しすぎるな」 「はんのう……」  少しだけ目を細めたローグが、あごを少しこちらに向けた。   「それ、多分明日筋肉痛だぞ」 「――――っ、はあ?!」    

ともだちにシェアしよう!