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第50話 理由

 解放された背中をふいと空気がなでて、ノアは一つ身震いをした。  まだ腹の底は震えていて、息を整えてから、口を開く。 「――あふれた魔力が、人肌を伝って発散される時」  少し息を飲み込んで、小さく吐き出す。  熱のこもった吐息は、口元にあてた両手の中で音を立てた。 「こうして、相手の肌に……感覚を引き起こします」 「あんた、それ、……知ってたのか」  小さく頷く。 「多分、ある程度発散されたら、いいみたいですけど」  昨日はそうだった。 「――それで、……あんた……」 「……わかっていたので。――大丈夫です」  少しの間、ノアの呼吸の音だけが聞こえていた。 「その、発散は、肌同士で起きるもんなのか?」  頭上から降ってきた言葉に、少し顔を上げる。 「どういうことですか?」  少し眉間にしわを寄せたローグがこちらを見下ろしていた。  視界の端にローグの手が映り、ノアの目元に近づいて、  ――離れた。 「――悪い。それ、拭いとけ。」  ローグがテーブルに手を伸ばし、置かれた手拭いを取る。  顔面にそれを突き出されて、思わず受け取る。  目の下に触れると、確かに濡れていた。  恥ずかしくて、手拭いを押し付けて拭おうとすると、その手を止められた。  瞬間、ノアの体が跳ねて、ローグの手がぱっと離れる。 「――っ、すまん」  珍しく申し訳なさそうな顔をしたローグに、  喉の奥がぎゅうっとひきつれた。  ――ずるい、……そんな顔。  ノアの手のひらから二人の間へ落ちた手拭いをとって、ローグがそっとそれをノアの頬に押し当てた。 「こすったら腫れる。  ……連日泣き腫らした顔で仕事したりすんな」 「――――っ」  ずるい。 「……なんでそれで泣くんだよ……」 「――し、りませんっ」  我慢できなくなって、目にぎゅっと力が入って、  もう、喉から声が出るのも止められなくて、  子供のように泣いてしまった。  ローグの前で。  ひとしきり泣いて、おそるおそる頭に乗せられた手のひらの暖かさにまた泣いて、  しゃくり上げる喉をなんとかなだめて、落ち着くまでには、相当の時間を使ってしまった。 「――顔、洗ってきます……」  体に引き寄せていた脚を下ろして立ちあがろうとして、ローグに止められた。 「座っとけ」  立ち上がったローグは、手拭いを持ってそこから立ち去った。 「顔あげろ」  背後からそう言われて顔を上げると、冷たく濡らされた手拭いが目の上に乗せられた。  熱くほてった目の端に、手拭いの冷たさが心地よかった。 「――ありがとうございます」   「なあ」  その後一度、手拭いの上下をかえされていて、ローグは再びノアの隣に座り直していた。 「……はい」  手拭いの下の暗闇の中で応える。 「その、魔力の発散は、――例えば布ごしでも大丈夫なのか?」  問われたことの意味を考えて、それから過去のことを思い返してみる。  ふと、ヘイデンの脈診のために手袋を外していたリオネルのことを思い出す。  それから、頭に触れられた時のチリチリと。 「――直接じゃないと、遮断されるか、弱まる気がします」 「そうか……」    静かに、ため息のように、ローグが息をはいた。 「首と、手なら、どっちがあんたはしんどい?その、感覚――は」  首元、耳の下から走り抜ける感覚を思い返す。  脳天に向かって駆け抜けるぞくぞく、腹の底へ滑り落ちるくすぐったさ、背中を這い回るしびれ。  圧倒的に、 「――首、……ですね」 「――そうか……」  ぬるくなった手拭いを外して、ローグを見やる。  ローグは、少し難しい顔をしながら、ノアの方を見ていた。 「――すまない。俺は何も知らなかった」  まっすぐに目を向けられて、ローグの言葉を受ける。 「何も気づいていなかった。あんたのその、……弱いというのを、そのまま鵜呑みにしていた」 「いえ、それは――」 「あんたのことを尊重できないとは言ったが、無理をさせたいわけでも、無駄な我慢をさせたいわけでもない」  はっきりと言い切られて、言葉を返せなかった。 「……俺は、もう、誰かと肌を合わせることに、……意味を持てていなかった」  そこで、ローグは大きく息をはいて、それから、口元を歪めて笑った。 「だが、意味があったんだな」  手拭いを、ぎゅっと握りしめる。  ――いやだ。  首を振った。 「ダメです、ローグさん」  切り捨てられようとしている気配に、思いの外硬い声がでて、静かな室内を広がった。 「――もう、この期に及んで無駄なあがきはしねえよ。  だが、俺がきちんと意味を理解していなかったから」  目元を緩めてノアを見て、少し鼻を鳴らしたローグが言った。   「――あんたを巻き込むことになったんだな」  違う。  あんたに選ばせなかったのは、自分だ。  それを言うことはできなくて、ただ首をふった。 「……あの時、女でも抱けと言われた時に、  ちゃんと聞いておけばよかった」  あんたがそれを選ばなくて、  嬉しかったのも、  ――自分だ。  思わず手を伸ばして、  ――それ以上聞いていたくなくて、  ローグの体にしがみついた。 「っおい」 「触ってもいいですか」  ローグの肌に触れてしまわないように、胸元に顔を寄せて尋ねる。 「――服の下、手を入れていいですか」 「……あ、ああ……?」  そろそろと手を下ろして、腰元から服を引き出し、背中に手のひらを沿わせる。 「――――っ、」  暖かい体温、腕を伝うびりびり、  呼吸に合わせて上下する胸板、ノアの呼吸の音に、少し反応して震える筋肉。 「――こうして、人肌に触れ合っても」  できるだけ背中にしっかりと腕をくっつけて、よりたくさん発散されるようにする。 「発散できるのは、……あ、あふれた分だけです」  だから、人肌で発散しても、また魔力圧は上がってきてしまう。  根本解決にはならない。  リオネルから聞いていた。 「騎士なら、毎日そばに恋人がついていられるわけでもないでしょう」  気づいたら、ローグの胸に、額をこすりつけていた。  お願いだから―― 「――俺に、任せてください」  後頭部、大きな手で覆われて、上から下へ撫でおろされる。 「……あんたは、子供みたいに泣いたり、急に頼もしいことを言ってみたり、  不思議なやつだな」  ローグの胸が少し跳ねる。 「――参った。……あんたに、全部任せる」    その言葉に、深呼吸した。    もう、涙は出なかった。  

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