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第55話 やさしさ
――果たして。
室内、ローグはソファに掛けて本を読んでいた。
「――来たか」
扉の音に顔を上げたローグが、ノアの姿を見て言った。
「……遅くなりました。――すみません」
手に本を持ち、柔らかい上衣を羽織るローグの姿に、ノアはその場にしゃがみ込みたくなった。
この二日。
拠点にいた頃も。
ノアは、ローグの騎士服姿しか見たことがなかった。
ただ一度、どうしようもなくローグのことを好きだと思い知った、あの日をのぞいて。
「――なんの本ですか」
ローグから譲られた羽織は、まだノアの手元で大切にとってある。
それと同じような素材の、柔らかくゆとりのある上衣。
おそらく――
ノアが、ローグにしがみついて魔力を発散させるときに、やりやすいように。
「ああ、……教官として呼ばれたんだが、俺は型に則った剣術は苦手なんだ。
だが、そう言うのもわかった上で指導しないと、若いのは怪我するからな」
おさらいだ。
そう言って口元を歪めたローグは、テーブルの上にあった革紐を取り上げて、本に挟んだ。
見覚えのある、――端がちぎれかけの、少し太い革紐。
ノアが拠点でダメにしたものだった。
「教官、なんですね」
「柄じゃねえけどな」
そんなことない、と思う。
口にはできないけれど。
――誰が何を得意で、どんな助けがあれば成長できるのか、見る目を持った人だから。
でも、優しすぎるのは問題かもしれない。
危険から守って、見えないようにして、さりげない気遣いで傷つかないようにして、
それでいて、何気ないつながりをその手に持ち続けて。
――いつまでも卒業できない。
何も始まる前から飛び跳ねる心臓を押さえつけたくて、ローグの姿から目を外した。
顔を背けた先についたてがあって、息が止まる。
背後からため息が聞こえた。
「……やるか?」
テーブルに本を置く音がして、それから、ゆっくりと近づく気配を意識する。
動けないでいると、通り過ぎざまにローグが足を止めて、少しだけ振り返って言った。
「心配すんな、なんもしねえよ」
――そうじゃない。
腹の底から湧き上がった熱に、心臓をぎゅっと押しつぶされた。
それでも、何も言うことはできなくて、
足を踏み出した。
衝立の向こう側。
自室にあるものより広い寝台は、清潔なシーツと、ふかふかの枕、暖かそうな上掛けで整えられていた。
「贅沢ですね……」
毛皮なんて敷かなくても十分暖かそうな様子に、思わず言葉を漏らすと、ローグが鼻で笑った。
「もっと贅沢でいいだろ。ここは、この先のあんたの隠れ家で、俺の命を繋ぐことの、せめてもの対価みたいなもんだ」
――対価。
ウルラとして。
魔力を受ける側として番った者にはその後、交渉の部屋の使用権が生涯に渡って付与される。
なぜなら、魔力の譲渡を受けるたび、道ができた時の痛みや苦しみが繰り返されるから。
誰からも、その身を守れる場所として。
番いの打診をもう三度も受けたことのあるノアは、もう何度も聞いたことだったけれど、
はじめの時は、どれだけ苦しくたって、何を好き好んで、顔もわからない相手に犯された部屋を使いたいものかと思っていた。
二度目の時は、
もう二度と足を踏み入れたくない、
そう、思っていた。
今回は、どうなるだろうか。
ふと、ローグの顔を見上げる。
それから、首、肩、腕、――ふしくれだった手に、目を落とす。
「隠れ家なんてべつにいりません。この交渉は、――痛くも苦しくもないじゃないですか」
「――あんたは」
少し間があいて、ノアが顔を上げると、ローグがこちらを見つめていた。
「あんたは、いつも苦しそうだ」
「苦しくなんて――」
言いかけたのを、ローグが、首を振って止めた。
「体だけのことだとは限らん。道ができた時の苦しさが一生あんたに残るなら、俺はあんたに魔力を渡せない」
「そんな……っ」
あまりの言い草に、息が続かなくて言葉を止めると、ローグがノアに目を合わせてきた。
「我慢するな。――頼むから」
ずるい。
「声も、体も。我慢するな。俺は絶対に何もしない。……頼む」
――ずるい。
「何もしない人の前で、……一人で、どうにかなるのを、」
声が震えて、うまく言葉を繋げられない。
――でも、それが自分の決めたことだから。
「が、……我慢も、隠しもするなって」
でも、言葉を止めることはできなくて。
――決めたこと、だけど。
「そんな」
言っちゃダメだ。そう、わかっているのに。
「――すまん」
手が伸びてきて、ローグの体に、顔を押し付けられた。
吸い込んだローグの匂いと、頭を駆け降りるチリチリした痺れ、
少しだけ頬や鼻先にも伝わるくすぐったさ。
「すまん。……あんたの言う通りだ」
そっと手を離されて、ローグから顔を離して、
「――――っ」
ダメだった。
膝から力が抜けて、しゃがみ込んで、両手で顔を隠して、うめき声をあげる。
こんなの、――ずるい。
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