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第64話 安らぎ
「今か?」
ローグの声が低く響いて、部屋の空気を揺らした。
まだ十回には程遠いし、十回でもできるかどうか。という話だったはずだ。
できているわけもない。
ローグの疑問ももっともだった。
「もちろんまだ当初想定の十回には至っていませんが、本日が当初予定通り十 日 目 の確認日で、お二人が揃っている。
ウルラ殿は体調が優れないようですが、確認が無理というほどでもないでしょう」
手にした書面をめくりながら管理官が言葉を続けた。
「その条件で確認をしないということは、意図的に交渉を続けたい何かがあったのかと疑念を持たれる可能性もあります。
お二人の名誉のためにも、道ができていないことの確認はしておかれる方がよろしいかと」
ぼおっとする頭の中で、管理官の言葉が無意味にリフレインしていた。
名誉。
ぐうっと、喉の奥がせりあがって、息がしづらくなった。
思わず、お守りの場所――道の場所を手のひらで押さえる。
この自分の、どこにそんなものがあるというのか。
上掛けに隠れた方の手のひらを、ぎゅっと握りしめた。
今更、もう。
たった一人にさえ顔向けもできないのに。
そんなものどうでもいい。
けれど。
「わかりました。お願いします」
ローグの場合は、話が別だ。
「無理するな」
ローグの声に、ふっと力が抜けた。
自分のすることなんて何もない。
首から手を下ろして、ローグの顔を見上げた。
「道なんて、まだですよ。早く終わらせましょう」
管理官が、ローグに魔力の遠隔操作の最終確認をして、そのまま魔力の譲渡を試すことになった。
「本来は離れて行っていただくものですが。まあ、まだでしょうから、このままで」
管理官はそう言うと、ローグに魔力をノアに向かって飛ばすイメージをしてみるように言った。
「一分測ります。」
そう言った管理官の声に、思わず顔を上げる。
管理官がこちらを見ていて、ローグの目線もノアを捉えた。
きっちりと事務官の服を着た管理官と、騎士服のローグ。
その二人の前で、ノアは一人ガウンを着たまま寝台に体を起こしている。
その状況になぜか急な羞恥を覚えて、ノアは上掛けの中で足を引き寄せた。
顔を上げていられなくて、膝の上にうつ伏せる。
一度恥ずかしいと思ってしまうと、ダメだった。
心臓が怯えて肋の奥で縮こまり、指先が震えてくる。
見ないでほしい。
そう思って、目を、強く閉じた。
「オルブライトさん、一分です。とめてください」
管理官の声。
それから人が動く気配と、頭の上の重み。
「熱上がってきたか?」
くしゃくしゃと髪の毛をかき混ぜられて、胸の奥で心臓が息を吹き返す。
それに合わせるように、体の熱がきゅうんと胸の奥に集まった。
「だいじょうぶ、です」
なんとか言葉を絞り出して応える。
顔を上げると、寝台に腰掛けたローグがノアの顔を覗き込んでいた。
もう、本当に。やめてほしい。
思わず目を合わせてしまう自分を認めたくなくて唇を噛むと、管理官がいつもと変わらぬ声色で、言った。
「お二人とも、ありがとうございます。道の形成の確認ができました。」
ローグの目が、逸れて――
管理官を振り返った。
その頭の後ろ、束ねた黒髪を目にしながら、
全てが今、終わったことを知った。
ごく薄いが、ローグの状況ならば十分。
管理官はそう言い、ノア達に向かって告げた。
「お疲れ様でした。ウルラ殿の魔力の受容耐性にも問題はなさそうでしたので、
お二人の番い交渉は成立し、交渉期間は終了となります」
熱に浮かされた頭の奥、氷の刃を差し込まれたような。
何も、頭の中で考えることができなかった。
ただじんわりと、目の端が潤むのがわかって、少しの間息を止めた。
ガウンの袖で、そっと目の端を拭う。
まつ毛の先に残った水気が視界の端を汚して、もう一度指先で拭った。
「そうですか。よかった、……良かったです」
拭ったのに、また少し目尻がひりついて、指の背で拭き取る。
良かった。
本当に。
そのはずなのに。
拭いても、拭いても。
目の端の水気が取れなくて。
膝の上に顔を伏せる。
「おい、大丈夫か」
頭上から降る声に頷いて、そのまま脱力した。
何か、言わなければいけない。
喪失感とか、絶望とか。絶対にそんなものを感じているわけじゃないと、言わなければ。
「あ、安心したら……、気が抜けて……」
とっさに口をついた言葉に、自分で納得する。
そうだ。安心だ。
また、じわっと目の端が熱くなって、顔を伏せたまま目を閉じた。
「ウルラ殿は、おやすみになった方がよさそうですね。
あとは我々で引き取ります。オルブライトさんはこれにてご退室ください。
この部屋は本日をもってウルラ殿の専有物となり、オルブライトさんの側の扉は今後封印されます。ご了承を」
管理官の声は、ごく普通だった。
威圧的でも、冷たくもなくて。
どちらかと言えば、心配げな響きすら含む声で、それでも最後のよすがを、全部ちぎっていく。
それを感じながら、自分に残された「安心」に、全部寄りかかった。
「っ、おい?!」
誰かの温かい手が、崩れたノアを支えて、
それきり。
ふと気づくと、一人寝台で横になっていた。
部屋には、ほんのりと橙色の光が差し込み、すでに夕方に近い時間と知れた。
ずいぶんと眠っていたらしい。
咳が小さくこぼれ落ちる。
無性に喉が渇いて、部屋の中に視線を巡らせた。
「お気づきですか」
衝立の向こうから聞こえた声に、一瞬息を止めて、はきだす。
「はい。すみません、ご迷惑を」
口から出た声はかさかさで、声を出すと、また咳が追いかけてきた。
少し硬い音と、水音。
それから、トレイにグラスを乗せた管理官が衝立を回ってきた。
「ひとまず、お水をどうぞ。食べられそうなら食事もありますが、どうなさいますか」
体を起こす気になれなくて、首を振る。
「すみません。水、置いておいてください」
熱く火照る体を、どうにかしてしまいたかったけれど、
今は誰にも会いたくなかった。
「もう戻ります。食事は、結構です」
せめてあの、柔らかな毛皮を敷き詰めた寝床に、帰りたかった。
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