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第5話 結婚しないか?――賛成。

 レーシュがラツィエルと初めて言葉を交わしたのは、学園の卒業も間近の十九歳のときだった。  その頃、レーシュは週に一度は見知らぬ男子生徒にプロポーズされるという不愉快極まりない学園生活を送っていた。  十五で入学した頃は男女問わず見てくるだけで誰も近づいてこなかったのに、卒業まで一年を切った途端、当たって砕けろ精神の男が続出したのである。  男爵家の三男というなんの旨みもない自分に婚姻を申し込んで、どうしたいのだろうか。  レーシュは自分が夫を支えるしっかりした妻になれるはずもないとわかっているし。頻繁に目の前で落とされるハンカチーフも拾ってあげるタイプではないので、献身的な性格ではないとこの四年間で知れているはずだ。  さらには相手が高位貴族であればあるほど、権力を笠に着て「結婚してやる」と上から目線で言ってきたり、無理やり言うことを聞かせようとしてきたりする。  意味がわからない。みんながレーシュのことを美人だとか言うけれど、見た目で結婚相手を選ぼうとすることが理解できなかったし、子も作りにくいというのに寄ってくるのは男ばかりだった。  本気で面倒なことになりかけたときはなんとか学園の教師に間に入ってもらっていたが、今度はその教師に言い寄られてレーシュは途方に暮れてしまった。  というか、まずい。気づけば閉館時間の過ぎた図書室で、その男性教師とレーシュは二人きりになっていた。教師は「一度だけ」とレーシュに懇願してくる。 「は? 一度だけ結婚しろと言うんですか?」 「いいや、結婚してくれなんて言わない。一度だけ抱かせてくれ!」 「……はああ!?」  ガシッと腕を掴まれ、引き寄せられると男の胸に飛び込む形になる。当時教師の間で流行っていた煙草の匂いと、男の汗の匂い。  匂いに敏感なレーシュは嫌悪で全身に鳥肌が立った。挙句の果てには腰から尻にかけてを両手で撫でられ、本格的な貞操の危機にあるとようやく気づく。  どう足掻いても相手の力のほうが強く、図書室は他の教室から離れているため助けを求める声も届かない。  学生同士のやり取りなんてまだ可愛いものだった。教師は人前ではレーシュの味方をしつつ、わざわざ場所と時間を考えて襲いかかってきたのだ。  思い切って殴ってみる? でも逆に訴えられたら、文官になりたいと思っている自分の夢も潰えてしまうかもしれない。 (でも……でも……!)  レーシュは体の震えが止まらなかった。自分も男だし、周りの話も聞こえてくるし、性的なことに興味を持ったことがないとは言わない。  でもこれは違う。ただの暴力だ。  暴力には暴力で返していいんだっけ? 捕まる? そもそも人なんて殴ったこともないし、体術の成績は底辺に近い。  まだ十九歳のレーシュの知識と経験値では、この場をどう乗り切ればいいのかなんて判断がつかなかった。ただ教師の手の感触が気持ち悪くて、怖くて。  喉が詰まって声も出ないと感じていたけれど、小さな悲鳴がやっと体の奥から飛び出した。 「……っ。ぃや……!」 「先生、そんなところで何をしているんですか?」  声変わりのさなかのような少し掠れた声が、静かな図書室に響いた。一瞬にして教師の手が離れ、レーシュはへなへなとその場に腰を抜かす。  書棚と書棚の間、わずかな光を背に立った彼は睨みつけるようにこちらを見ていた。  直射日光を避けるためにカーテンの引かれた図書室は薄暗い。けれど彼の持つアンティークゴールドの髪は輝き、体全体が正義の光に包まれている気がした。  教師はレーシュの気分が悪そうだったのを介抱していたとか適当な言い訳をして、その場を去ろうとしている。呆然とそれを見ていることしかできない。 「あ、そういえば先生。先日奥様との間に第二子が生まれたとか。おめでとうございます。奥様の家の方が格上の貴族と聞いていますから、遊び歩いて見捨てられないように気をつけてくださいね」 「っひ」  教師は顔を引きつらせ、走って図書室を出て行った。けれどレーシュは教師の顔さえもう見たくもなくて、ラツィエルの自信に満ち溢れた姿をずっと見ている。  すると彼がこちらを向き、近寄ってきた。深い森に迷い込んだような翠緑の目には憂慮だけが浮かんでいる。  レーシュは安堵で涙が浮かんでくるのを止められず、俯く。制服のスラックスにぽつりと染みができた。 「あの、レーシュ先輩ですよね? 大丈夫ですか」 「うん。君のおかげで助かったよ。……ありがとう」  声はやはり、少し掠れている。若木のような瑞々しさに一匙大人っぽさを加えた声だ。とっくに声変わりを終えたレーシュよりも、将来的にバリトンを響かせそうだとぼんやり思う。  だんだん、明らかに下級生と思われる生徒の前でいつまでも床に座り込んでいることが恥ずかしくなってきて、立ち上がろうとする。だがうまく脚に力が入らなかった。 「ん? あれ?」と声に困惑を滲ませていると、俯いていた視界に手のひらが入り込んでくる。 「どうぞ」  ライラックの香りが優しく鼻先をかすめて、彼からは嫌な匂いがしないことに安心する。握った手は大きさこそそれほど変わらなかったけれど、冷えた自分の手よりも力強く、熱かった。  レーシュは今度こそしっかりと自分の足で地面を踏みしめて、彼と向き合った。身長はレーシュのほうが少し高いかもしれず、思ったより顔の位置が近い。  彼はとっさにレーシュの顔から視線を外してくれたため、レーシュは涙の引っ込んだ目でじろじろとその端整な顔立ちを見つめた。  顔のパーツが整っていることはわかる。どこかで見たこともある気はするけれど、知らない人だ。もともと、他人にあまり興味が湧かないので。 「感謝するよ。えーっと……」 「ラツィエル・ゴットフリートです。先輩、迂闊に一人にならないほうがいいですよ」 「ゴットフリート君ね。はい、気をつけます。じゃあ……」  失礼だと自覚しつつも、レーシュはそそくさとその場を立ち去った。彼の立ち居振る舞いからして自分よりも絶対に高位の貴族だし、高価なお礼とか求められても困る。  それよりも何よりも、男なのに貞操の危機に陥って、下級生に助けられてしまったことが恥ずかしくてたまらなかったのだ。  しかも彼の言い分によると、あの教師には妻子があるらしい。レーシュは自分が遊び相手にされそうだったのだと気づき、地味にショックを受けていた。  もしかして、あちこちからプロポーズされるのも真剣な意味ではなく、愛人にしたいってこと?  レーシュだって真剣に考えることなくお断りしていたけれど、自分が見目のいい愛人程度の人間だと思われているとすれば、すごく品性を貶められたような屈辱を感じる。  もうゴットフリート君にも会わないだろうし。逃げて、なかったことにしよう。  と、思っていたのだが……。その後ここまで危機に陥る事件は起きなかったものの、何度もレーシュは彼に遭遇し、何度もしつこい生徒から救ってもらった。  レーシュだって、顔を覚えれば相手が少し遠くにいても見つけられる。  逆に校内で彼が女子生徒に囲まれているところを発見して「ふーん」と思うだけで通り過ぎたり、告白現場に遭遇してしまい素知らぬふりで逃げてみたり。すれ違う機会は意外に多かった。  その後会ったときになぜか不満げな顔をされたりして、いつの間にか気安く会話するようになっていた。ラツィエルと呼びレーシュと呼ばれ、被っていた猫はすぐどこかへ行ってしまった。  お互い方向性は違えど他人から言い寄られがちなのは理解していたから、同士のような仲間意識が芽生えていたのもある。  そうしてあっという間に卒業の時期が訪れ、レーシュはラツィエルに提案されたのだ。 「結婚しないか? 俺たち」  ラツィエルは女性にちやほやされること自体は嫌いではないようだった。あれだけ身だしなみにきちんと気を配って、学園の制服にもチーフで差し色を入れたりしてクールに着こなそうとする人が、注目を浴びたくないわけがない。  しかし騎士を目指している身で、まだ結婚はしたくないという。一年後ラツィエルも卒業が迫ってくれば、レーシュのように相手が強硬手段に出てくることもあり得ないと言い切れない。  女性相手だとなおさら、責任問題が発生してくるので面倒くさい。伯爵家の次男である彼は、間違っても兄より先に子を作らないようにしたいという。  レーシュも文官として王宮への就職が決まっていたものの、恋愛のいざこざで仕事に影響が出るのは真剣にご勘弁願いたい。学園なら卒業という逃げ道があった。しかし就職先から逃げるのはすなわち無職になるということだ。  考えた先の結論は一つだった。 「賛成。結婚しよう。――費用はそっち持ちで」 「はいはい」  こうして、レーシュは卒業と同時に伴侶持ちとなり、ラツィエルは学生結婚を決めて学園を揺るがしたのである。  一緒に住み始めてから、ラツィエルは何度かレーシュにキレた。口喧嘩もたくさんやったが、結果的にお互い譲歩し合って――ほぼラツィエルが我慢しているだけとも言える――心地好い距離感で十年も一緒にいることができた。  それを「離縁しても問題ない」と思いつきで判断したことは、もしかしたら……早まった考えだったのかもしれない。

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