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第9話 十年連れ添った夫婦なんだから

 ラツィエルには勘が鋭いところがある。何日も顔を合わせていないのに、レーシュの限界を感じ取って駆けつけたらしい。 「だーかーらぁっ。持ち上げなくていいって……ぐ、」 「聞かん」  屋敷に着いて馬車を降りた直後、ラツィエルはまたレーシュを抱え上げた。しかも今度は、麦束のように片方の肩に担ぎ上げられる。  さっきとどちらがマシなのか。恥ずかしさは若干薄れたけど屈辱的だし、腹がぐっと潰れて苦しい。  ラツィエルより小さいといっても、男である自分の体をこうも軽々抱えられると、悲しく思うべきかラツィエルの膂力に驚くべきかもわからない。  いつもより早い主人たちの帰宅に、使用人たちがバタバタと慌てて立てる足音が聞こえる。ハニエルの屋敷の使用人とは落ち着きようが全く違って可笑しい。こちらは年齢層も低いのだ。 「ラツィエル様、おかえりなさいませ……え! おっ、奥様!?」  出迎えに走ってきた家令のダアトが裏返った声を上げた。彼はゴットフリート家の家令の息子で、使用人のリーダー的立場である。とはいえまだ三十四らしい。  レーシュは視線で「助けて」と訴えてみたが、当然ダアトはラツィエルの指示に従った。彼は医療の心得があるため、自身の医療セットを取りに走っていく。  ちなみにレーシュは王宮に戻りたいと馬車の中で散々文句を言ったものの、それも聞き入れられなかった。ハニエルの指示だろうと言われてしまうと、言い返せなかったけれど。  ――単純に、レーシュはラツィエルと二人きりの空間が気まずかったのである。  あれ、方向がおかしいな? と思ったときには、自室ではなくラツィエルの部屋にある寝室へと運ばれていた。部屋からはラツィエルの爽やかで優しい匂いがする。春を象徴するライラックの香りだ。  抱える動作は雑だったけれど、存外優しくそっとベッドの上に寝かされ、そのまま着ていた服を脱がそうとしてくるからレーシュは目を剥いた。 「なに、なんなの!?」 「その服じゃ休めないだろう」 「わかった、着替えるからっ……。んもう、しかもなんでラツィエルの部屋なんだよ」  ラツィエルの目の前で着替えることに抵抗はない。しかし脱がされるとなんだか恥ずかしいし、じっと見てくるのも落ち着かない。  ぶつぶつ文句を言いながら、レーシュは渡された室内着に着替える。これ、大きいんだけど……ラツィエルの服じゃない? 「お前がちゃんと休んでるかここで見張ることにする。とことん避けて食事もろくに取らないなんて、そんなに俺のことが嫌いか?」 「嫌いってわけじゃ……」 「じゃあ、拗ねてただけか」 「はああ?」  拗ねて、なんてまるでレーシュが甘えているみたいじゃないか。頑固者で、アドバイスを聞かないラツィエルが悪いのに。  横になってまんま拗ねた顔をしていたレーシュはぎゅっと鼻を摘まれ、ラツィエルを睨んだ。睨みも意に介さず片眉を上げたラツィエルが、レーシュに問う。 「それだけじゃないだろ。何があった? 父からそんなに重い仕事を押し付けられたのか」 「押し付けられたんじゃない、国にとって重要な仕事を任せていただいたんだ」 「わかったわかった。それでここ数日必死になってたと。――で、実家から来た手紙は?」 「領地経営を手伝ってほしいってさ。お見合い相手まで用意してくれるらしい」  まるで尋問だが、リラックスした格好で横になっていると眠くなってきた。ベッドからはラツィエルの香りが深く漂ってきて、さらにレーシュは安心してしまう。  頭がぼうっとしてきたまま訊かれたことに包み隠さず伝えると、お見合いのくだりでラツィエルは目を丸くして叫んだ。 「はぁっ? お前、それ了承したのか!?」 「……まだだけど」  考える余裕もなくて、放置したままだ。  ラツィエルと離縁するのならちょうど良く用意された未来にも見えるが、今の仕事を辞める踏ん切りもつかず、勧められるまま再婚してしまってもいいのか、大いに疑問だ。  ゴットフリート家のためを思えば離縁は最善の手なのに、ラツィエルはなぜか納得してくれないし。  やりたいこととやるべきことが複雑に絡み合い、自分でもよく分からなくなっている。ハニエルの不調と急ぎの調査、兄の子が生まれるまでの時間もレーシュに追い打ちをかけてきて、焦りばかりが膨らんでいた。  悶々と考えていたことをぽつぽつ打ち明けると、顎に手を当てていたラツィエルは「なるほどな」とようやく納得したようだ。 「レーシュが悩んでいたことはわかった。まずな、俺の父はそう簡単に死なない。うちは長寿の家系なんだ」 「でも、急に倒れて、もしものことがあったら……!」 「それはわかってる。父親を亡くしているお前が心配になる気持ちもわかる。でも俺たちだって同じで、いつ死ぬかわからないだろう。だから考えても無駄だ。そのためにお前以外のやつと結婚して子供を作るなんて、絶対に嫌だからな。お前は俺の意思を考慮に入れろ」 「…………」  一瞬レーシュとなら子供を作りたいと言っているように聞こえたけど、違うか。ラツィエルは、わかりもしない不幸な未来を想像した上で後ろ向きに行動することが嫌だと主張しているのだ。  ラツィエルにその意思が無ければ、レーシュがどれだけ勧めたって彼は誰かと結婚したりはしないのだろう。レーシュはいつの間にか、自分にとっての最善を彼に押し付けようとしていたことに気づいた。 「次に、レーシュの家族のことだが……急いで考える必要はないんじゃないか? 遠くからわざわざ家族を呼び戻さなくてもなんとかなる状況だろ。信頼できる部下にもっと仕事を任せるとか、人を増やすとかさ。たぶんお前が好きでもない男と結婚して居づらい思いをしてるとか考えてるんだって」 「そう……かも」  確かに、兄たちは勝手に人件費を削っているだけなのだから人手は雇えばいいだけだ。レーシュが力になれないことはないだろうが、いきなり帰ってすぐ役立てるほどの人材かというと、領地経営なんてしたこともないので難しいだろう。  それにラツィエルとの平和な結婚生活について、あえて詳しく家族に語ったことはない。言われてみれば、兄が勘違いするのも致し方ない気がした。 「お前と一緒なんだよ。良かれと思って提案してきているだけで、切羽詰まった状況じゃない。大丈夫だ。だから、レーシュ。お前はお前の意思で行動すればいい。仕事を続けたければ続けたほうがいいし、実家に帰って他の男……女か? と結婚したいならそうしろ」 「……今は、任せられた仕事を全うしたい」 「じゃあそれでいいんじゃないか? ただし飯は食え。ちゃんと寝ろ。髪は俺に整えられてから仕事に行け」 「命令しないでよ……」  ラツィエルの一言一言で、レーシュの心は驚くほど軽くなっていく。知らない人とお見合い? 正直全く気が進まない。  命令口調は気に食わないが、不敵に笑いながらレーシュのやりたいことを肯定してくれる男が一等頼もしく見えた。この男は年下のくせに、いつもレーシュを助けてくれるのだ。 「ひとりで悩むなよ。一応……十年連れ添った夫婦なんだから。お前の背負ってるもん、俺にも背負わせろ」 (……え、ラツィエルってこんな優しかったっけ!?)  きゅんっと心臓が変な音を立てて、レーシュは混乱した。自分はラツィエルに対して何もしてあげられていないのに、どちらかというと世話をかけてばかりなのに、まだラツィエルは手を差し伸べようとしてくれている。  その理由が思い当たらずぽかんと開いたままだった口に、何かが放り込まれた。 「ぁむっ、?」 「少し寝てろ、あとで夕飯持ってくるから」  舌の上で甘さが広がり、芳醇な薔薇の香りが鼻に抜ける。貴族御用達、高級品の薔薇の砂糖漬け(コンフィ・ド・ローズ)だ。  熱冷まし効果や香りにも精神安定効果があるとかで、結婚してから風邪のときに何度ももらったことがある。  贅沢な甘さと香りにレーシュの体は弛緩した。もはや条件反射で、これを口にすると休んでいいよと言われている気がする。  久しぶりにとろりと忍び寄ってきた眠気に身を任せる。一度目を閉じると、瞼がくっついて離れない。 「おやすみ、……」  まだラツィエルに言いたいことはあったはずなのに、心地よい誘いには逆らえなかった。レーシュは夢も見ない眠りの世界へと旅立っていった。  暑いな、と感じて目を覚ます。閉じられたカーテンの隙間から差し込んだ光が、天蓋を通り抜け柔らかくベッドの上を照らしていた。 「ん……?」  身じろぐと、腹に回った腕がさらにレーシュを引き寄せる。背後にある体が熱い。 「え」  恐る恐る振り向けば、ゴールドの睫毛を伏せた男がすうすう眠っていた。なぜかレーシュは、ラツィエルと寝ているらしい。  寝起きのぼんやりした頭で「ま、この男のベッドだしな」と納得する。いつも小憎らしい表情を浮かべている顔はあどけなく緩んでいて、珍しいことにまじまじと見つめてしまう。  レーシュは人の美醜に興味はないけれど、ラツィエルが整った顔だということくらいはわかる。  しかし顔のパーツに特別派手なところがなく、嫌味なところもないぶん、印象に残りにくいとも思う。アンティークゴールドの髪は、金髪の輝かしさを誇りに思っている人の多い貴族の中では落ち着きすぎているし。  それでも彼が注目を集めるのは、堂々とした立ち居振る舞いや隙のない完璧な身だしなみ、洒落た服の着こなしが要因だろう。レーシュが全く気にしていない部分だ。  人は人、自分は自分。レーシュにも同じことを求めてくることはあるが、彼のこだわり自体は不快ではないし、好きにすればいい。  まあ、寝ているときの乱れた髪や油断している顔、隙だらけの寝間着姿はなんか……ちょっといいな、とレーシュは思った。初めてそんなことを考えたのだけれど、こっちの方が自然で彼らしい。 (いやいや、何を考えてるんだ僕は)  謎の思考にハッとして、レーシュは小さく首を振った。その動作にぴくりとラツィエルの睫毛が震え、次の瞬間レーシュの顔を視線で捉える。  翠の瞳はゆっくりと細められ、なんだか可愛いものを愛でるような動きをした。くすぐったい心地でレーシュは挨拶を口にする。 「お、おはよ、ラツィエル……」 「っ……! お、おはよう」  何かに気づいた顔をしたラツィエルがレーシュの腹に回した腕を解き、さっと体を離す。そうして初めて、なにか尻に硬いものが当たっていたような気がした。ラツィエルは気まずげに目を逸らしている。  レーシュはそれについて指摘すべきか、そもそも休んでいるか見張るとしても一緒に寝る必要はないだろうと教えてやるべきか悩んだ。だが突然「ぐうう」と鳴った自分の腹の音で、ベッドの上はなんとも間抜けな雰囲気になった。 「おなかへった……」 「ああ、昨晩よく寝てたから起こさなかったんだ。ダアトにも診せたが、ただの風邪だろうと。体調はどうだ?」 「悪くない、と思う」 「オーケィ。食事にしよう」  驚いた。昨日の夕方からずっと自分は眠りこけていたらしい。どうりで頭の軽い感じがするわけだ。  チリチリンとラツィエルがベルを鳴らすと、寝室に使用人が入ってきて天蓋を開けた。あれよあれよという間に朝の支度が始まって、レーシュも促されるままに起き上がる。  しかし、レーシュの頭の中は疑問符だらけだった。 (ラツィエルのベッドに僕がいても、みんな驚かないんだ!?)

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