13 / 29
第13話 ラツィエルといればなにも怖くない
ホカホカと湯気の立ち上る骨付き肉を両手に持ったラツィエルが、男を見下ろしていた。
ジャケットを着ていなくても、両手に肉を持っていても、ラツィエルが本気を出せば話し方ひとつで上位の貴族に見える。
顔を青褪めさせた男はパッと手を外して「愛人かよ!」と言い残し、走って店を出て行った。去り際にあちこち体をぶつけ、怒号を浴びせられながら。
親しい友人でもない限り、貴族社会の上下関係は厳しい。この状況を咎められたらまずいと気づき、逃走したのだろう。
その割には減らず口だったが。
ラツィエルが小さな椅子になめらかな動作で腰掛ける。テーブルに骨付き肉を置き、糊のきいたハンカチで手を拭いながら呆れた視線をレーシュに向けた。
「片時も目を離せないやつだな。この前みたいに叫んで俺を呼べばよかったのに」
「いやぁなんかびっくりして。男娼とか愛人とか、僕って何者なの?」
「俺の奥さんだろ」
あはは、と冗談に笑った顔が一瞬固まったことに、ラツィエルは気が付かなかっただろうか。
そうだった――とレーシュの目からは鱗が落ちていた。
これまで二人で出かけることもほとんどなく、意識していなかったせいですっかり忘れていた。現時点でレーシュの旦那様がラツィエルなら、ラツィエルの奥様はレーシュなのだ。
仕事とはいえこれもデートみたいだ、とくすぐったい心地になりながら、レーシュは骨付き肉にがぶ、と噛みついた。
じゅわりと肉汁が溢れ出し、想像よりも柔らかい肉が口の中でほどけていく。けっこう濃い味付けだ。
エールの木杯を持ち上げてごくごく液体を飲み込むと、肉の塩気と油が炭酸と混じって喉へ流されていく。なるほど、この組み合わせは……
「美味しい!」
「ああ、確かに美味いな」
エールを飲んだのなんていつぶりだろう。それどころか、酒を飲んだもの久しぶりだ。肉にかぶりつくのも、貴族としてはマナー違反なことをしている背徳感が妙に楽しかった。
レーシュは骨付き肉とエールの組み合わせを大層気に入って、砕けた気持ちで食事を楽しむ。そのひとときだけは仕事ということも忘れて、周囲に気を配らず二人の世界に浸ってしまった。
「レーシュ、行こう。もう何軒かで情報収集しつつ帰るぞ」
「はぁい」
ラツィエルが立ったのに合わせてレーシュが席を立つと、床がぐにゃんと揺れたように感じた。
あれ? 世界、揺れてる〜……?
「っおい、ちゃんと立て! は? まさか……お前酔ってんの?」
「あははっ、なんかふわふわする〜」
「……嘘だろ」
体を支えられて床とのキスは避けられたらしい。レーシュはなんとか自分の足で立ったものの、ふわふわよろよろと千鳥足で歩き、主人と従者という設定も忘れてラツィエルに手を引かれている。
なぜだかそれが楽しくて、レーシュは緩んだ表情でラツィエルの斜め後ろを歩いていた。
胸元の空いたドレスを着た、妖艶な女性が店先から声をかけてくる。彼女の背後にある豪奢な建物は独特の雰囲気に包まれていて、これが高級娼館らしい。
「素敵なお兄さん、ちょっと寄ってかない?」
「ああ、こんな美人に相手をしてもらえるなら、願ったり叶ったりだな。でも悪いが連れがこんな風でね。次の機会に寄らせてもらおう」
「残念。ずいぶんと可愛いお連れさんね」
「ところで、よかったら教えてほしい。ここ数ヶ月で変わった人は見ていないか? 遠くから来た知り合いを探しているんだが……ここに来て連絡が途絶えてしまって」
会話に絡めたラツィエルの質問に対し彼女は人差し指を顎に添わせ、ううんと艶のある声で呟いた。組んだ腕のあいだで豊満な胸が強調されている。
「ここ数ヶ月で見慣れない客が何人か増えたわね。羽振りがとってもいいのよ。異国の人かしら? イントネーションがちょっと違うの。あなたの探している人はその中にいそう?」
「ああ、そうかもしれない! どれくらいの頻度で来る? それに合わせてここへ来てみようか……あ、でも違ったら恥ずかしいから誰にも言わないでくれ」
「ラツィエルってば。奥さんの目の前で浮気〜?」
「おい黙れ酔っ払い」
ラツィエルが後日、一人で遊びに来るつもりなんだと思ったレーシュはべたべたと腕にくっつき、突っかかる。ラツィエルに邪険にされてもぎゅうと腕を胸に抱き、無意識に調査の邪魔をしていた。
目線の少し上にある耳が真っ赤になっていることにも、もちろん気づかない。
結局ラツィエルは途中で調査を切り上げることにしたようだ。ふらっふらしているレーシュはまたラツィエルに引っ張られながら夜の通りを歩く。
ラツィエルは呆れて迷惑そうな表情をしているかと思いきや、その横顔は存外楽しそうに見えた。彼も酒に酔っているのだろうか。
ぼんやりしていると、レーシュは向かいから来た男とすれ違いざまにぶつかってしまった。
「わっ、すみませ……」
「おい待て!」
レーシュが謝ろうとしたらすでに男は全速力で走り去って行こうとしているところだった。
急いでたのかなと首を傾げていると、いつの間にかラツィエルが男を追いかけていく背中が見える。すぐに追いついて、あっという間に男を捕まえてしまう。
たった数秒の出来事だった。
ぽかんとしたままとりあえずレーシュも二人に追いつくと、ラツィエルは締め上げた男の手から財布を取り上げている。よく見れば、レーシュがはぐれた時用にと出かける前に渡されたものだ。
「酔っ払いを狙ったスリだろう」
「ええ! 全然気づかなかったなぁ」
「酔っ払いだからな……」
「クソッ。返したんだからいいだろ!? 離せぇ!!」
スリをした男は叫び、暴れているがラツィエルの拘束は揺るがない。圧倒的な力の差がある。
問題は自分たちが周囲の注目を集め始めていることだった。ラツィエルもレーシュも、極秘調査の途中なのだ。目立つわけにいかない。
警吏に引き渡すにも夜間は人員が少なく、見回りをしている人も今のところ見当たらなかった。詰所も近くになさそうだ。
面倒なことになったな、とラツィエルが眉間に皺を寄せたとき、スリの男がピュイ! と指笛を吹いた。
嫌な予感がして周囲を見渡すと、暗がりの路地から何人もの薄汚れた男たちが出てきて三人を囲もうとしている。
「まずいな。レーシュ、走れ!」
「う、うん」
ラツィエルは「初めからこうすればよかった」と言いながらスリの男をポカッと殴り昏倒させた。そしてレーシュの手をしっかりと掴む。
二人は完全に囲まれる前に輪を抜け出した。追いかけてくる男たちの叫びが煩くて、野次馬の視線までもが突き刺さる。
レーシュがよたよたと走るので、ラツィエルはすぐに痺れを切らして抱き上げてきた。片手を空けておきたいのだろうが、また麦束のように担ぎ上げられ「うぐ」と潰れた声が漏れる。
人一人抱えた状態でもラツィエルは足が速かった。路地を左右に駆け抜け、追いかけてくる男たちを引き離す。
そのうち向こうも追いかける意味がないことに気づいたのか、姿が見えなくなった。
ラツィエルはちゃんと待たせている馬車の方向に向かっていたようだ。すごい。乗ってきた馬車が見えてくると、ようやくレーシュを下ろしてくれた。
さすがにはぁはぁと肩で息をしていて、ちょっと申し訳ない気持ちになる。せめてダイエットしたほうがいいのか?
「ありがと。ラツィエルは足速いんだねぇ」
「はぁぁ……レーシュ、お前なんなの」
「あははっ、ほんとだよね。ラツィエルがいなかったら大変だった」
「ふはっ、ははは! いや、まじ、災難引き寄せすぎだろ」
走ったことで余計にアルコールが回ったのか、レーシュは楽しくて仕方がなかった。なんて頼もしい旦那様だろうか。やけに最近トラブルが起きがちだけれど、ラツィエルといればなにも怖くない。
待たせていた馬車に乗り込むと、すぐ屋敷に向けて走り出す。いつもきっちりとしているラツィエルが珍しく、もうクラヴァットを外し首元のボタンを外していた。
よっぽど疲れたのだろうが、無駄に色気を放っている。レーシュはラツィエルに「何だ?」と問われるまで、無意識にじっと見つめていた。
少し経つと、気づけばレーシュはウトウトと眠気に襲われている。馬車の揺れに合わせて前後左右に揺れ、あちこちに頭をぶつけそうになっていたとき、ぱたんと体を引き寄せられて横に倒れた。
「んぅ……?」
「屋敷まで寝てろ」
向かいに座っていたはずのラツィエルが隣にいる。筋肉質な脚が頭の下にあり、膝枕をしてくれているようだ。どうしたんだろ、やっぱり近頃この人は優しい。
「硬い枕だな……」
「文句を言うな!」
ふふふ、と笑いながらレーシュはラツィエルの腹に抱きつく。気温は思ったよりも下がっていて、温もりを求めているのだ。
ていうか、ほんとにいい体してるな。十年前の初夜の記憶なんてとっくに消えかけているが、当時はここまで体の厚みはなかったように思う。
「ラツィエル、体すごい。鍛えてるんだねぇ」
「〜〜〜っ、お前は! それ以上べたべた触るなら、襲うぞ!?」
急にラツィエルから怒った口調で言われて、ぱちり……と銀色のまつ毛を瞬いた。レーシュが言葉の意味を考えている僅かな間に、ラツィエルの顔は赤から青へと色を変える。
「あっ、いや。今のは……言葉のあやだぞ?」
「いいよ。僕は奥さんなんでしょ?」
「……は?」
また青から赤くなった。器用だな。
酔いと眠気で理性を手放していたレーシュは、頭を起こして自らラツィエルの唇を奪いに行く。
唇同士をむにゅと合わせると、思いのほか柔らかくて、熱い。十年前もキス、したっけ? どうだったかな?
そんな思考はラツィエルが唇に歯を立ててきたことで吹っ飛んだ。
「ん、ぅ」
唇を柔く甘噛みされ、舌で舐められる。想像もしていなかった刺激に、レーシュの腰が震えた。
レーシュのうなじを支えていたラツィエルの手に耳の裏をスリと撫でられると、喉の奥からは甘い音が漏れる。
「ふぁっ、――……!」
唇を割り開いて入ってきた舌がレーシュの口の中をなぶる。歯列を舐め、舌を絡め、上顎をくすぐられるとびくびく体を揺らしてしまう。
屋敷に到着するまで甘く濃厚な口づけは続き、猛攻を受けたレーシュは酸欠になってぐったりと意識を手放したのだった。
「レーシュが煽ったんだからな」
意識を失う寸前、ラツィエルの声でそんな文句が聞こえてきた気がする。その反面、指先で前髪をよけた額に優しいキスを落とされた気もしたけれど……あれは夢だったのかもしれない。
ともだちにシェアしよう!

