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第21話 人の気も知らないで
翌日は休息日で、ラツィエルと話すまたとないチャンスだと思えた。でもレーシュは待ち切れず、その日のうちに話してしまうことにする。
どうせ、興奮で眠れる気がしない。ラツィエルは今日も遅かったが、レーシュの目は冴えていた。
主人が帰宅したとダアトから伝えられ、レーシュはラツィエルの私室に向かう。何気に自分から行くのは初めてだから、少し緊張した。
ちなみにシェキナは奥さんと二人で子育てしているので、毎日自宅からの通いだ。夕方には自宅に帰っているし、今も夜はレーシュにつく使用人はいない。
どうやら結婚当初、使用人たちにはレーシュに必要以上近づかないようラツィエルからの指示があったようだ。学園でのレーシュの様子を考慮してくれたらしい。
確かに当時は、教師からも嫌な目に遭わされて人間不信になっていたかもしれない。
理由はそれだけじゃない。今はもうみんな慣れているが、当時は奥様として暮らしはじめたレーシュの美貌にくらっと来てしまう使用人が多くいたのだとシェキナは言っていた。
有り難いけど、そこまでするのは普通? ラツィエルって、心配性すぎじゃない?
つらつらと考えながら歩いていると、ラツィエルの私室につくのはあっという間だった。端と端で離れているが、同じ屋敷の同じ階のため近い。ほとんど顔を合わせないのが不思議なほどだ。
ラツィエルはもう食事も湯浴みも済ませているはずだ。そうダアトが言っていた。
彼は就寝前に酒を嗜む習慣があるらしく、二人で話すのにはちょうどいいタイミングだという。そんなことさえもレーシュは知らなかったな、と思う。
コンコンと扉をノックすると、「ダアトか?」と訊かれたので「僕だよ」と答えた。
すると返事がない代わりにすぐ向こうからドアが開けられ、レーシュは小さく息を呑んだ。ラツィエルも目を丸くしていて、お互いに驚いている。
「はやっ。びっくりさせないでよ」
「もう体は大丈夫なのか? ああいや、ダアトには元気になったと聞いているんだが。とにかく、なんだ……座るか?」
「う、うん」
やけに早口だったから圧倒されてしまう。ラツィエルの目の周りが赤らんでいるから、酔っているのかもしれない。
とりあえずレーシュはラツィエルの後をついていき、彼の座ったソファの隣に腰掛けた。
その瞬間、ラツィエルがこちらを向いて目を見張った。もしかして隣は嫌だったのかなと思ったけど、移動するのも面倒くさくてそのままにする。
そういえば、普通は向かいに座るものか。落ち着かなくて正常な判断ができない。
「お前は……怖く、ないのか? 俺にあんなこと、されて」
「え? まさか。あんまり覚えてないんだけど、ラツィエルは助けてくれたじゃん。ありがとう。っていうか……迷惑かけてごめん」
ようやく謝ることができて、レーシュはホッとした。一言で済む内容ではないが、詳細に語るのもなんだか恥ずかしい。
しかしラツィエルは納得いかないようで、眉間に皺を寄せている。謝罪に真剣味が足りなかっただろうか。
レーシュがもう一度謝ってみようとしたとき、突然隣から声を荒げられた。
「あんな目に遭ったのは、レーシュに女装させた俺のせいじゃないか! そのせいで、……嫌だっただろう。好きでもない男に触られて」
ラツィエルがそこまで罪悪感を持っているなんて考えてもいなかった。戸惑いを隠せずにレーシュの眉が下がる。
別に女装させられたせいだなんて思っていない。結果的には証拠が見つかったわけだし……
好きでもない男というのは、サロンにいた男たちのことだろう。すぐ助けてくれたのに、どうしてそんなに思いつめた顔をしているんだ?
「そりゃ嫌だったけど、油断した僕のせいでもあるじゃんか。だからラツィエルには感謝こそすれ、恨んだりしてない」
「っ……」
だからもうこの話は水に流してほしかった。けれどレーシュの言葉を聞いたラツィエルはさらに悲痛な面持ちで目を伏せてしまった。想定と逆の表情に、混乱する。
「なんなの? そんなに落ち込まなくたって」
「人の気も知らないで……くそ! 俺は、俺は……」
「ど、どうした?」
荒ぶった言葉に驚き、レーシュは宥めようとラツィエルの手の甲に手を重ねた。が、素早く振り払われてしまい小さな痛みに顔を顰める。
「……ごめん。頭を冷やすからもう出ていってくれ」
「…………」
ラツィエルはこちらを見もせずに、立ち上がって寝室の方へ歩いていく。レーシュはしばらく茫然として、ソファから立ち上がることができなかった。
振り払われた右手を左手で擦ると、指先は冷たい。別に、すごく痛かったわけじゃない。一瞬触れたはずの肌からは体温を感じる暇もなかった。それだけ。
それなのに、思いのほか傷ついたのは心の方で。
喧嘩なんて何度もしてきたけれど、こんな風に突き放されたのは初めてだ。これまで何を言ってもラツィエルはレーシュを見放したりしなかった。
「ラツィエル、そんなに嫌だったのかな……」
よっぽど、レーシュの相手をしたことが堪 えたのかもしれない。
嫌々ながら熱を発散させて、挙句の果てには抱いてやって。にもかかわらずレーシュがあっけらかんとしていたのが気に障ったのかもしれない。
だから、拒絶されたんだ。
もっと違う言葉を掛ければよかった、真剣に謝ればよかったと後悔の念が波のように押し寄せる。
心臓が無理して動いているみたいに軋み、その痛みに思わずレーシュは胸を押さえた。一つ扉を隔てた先にラツィエルがいるはずなのに、この世界に一人残されてしまったかのような静寂と孤独感に苛まれる。
「っ……ぅ、……」
鼻の奥がツンと痛み、目頭がじわじわと熱くなる。昼間に流した涙と真逆の意味を持つものが、眦から零れ落ちていった。
◇
「はぁ……」
レーシュが薔薇色の唇を僅かに開いてため息を漏らすと、眼鏡の奥で伏せられたプラチナの睫毛が小さく震えた。帽子のつばの陰になっていてもその憂いを帯びた美しさは抑えきれず、近くの人たちの視線をさらう。
正面に座っていたミンテはガタッと席を立ち、通りからレーシュを隠すような位置に椅子を移動させてから座り直した。
「ちょっと、ほんとにどうしたんだ? 今週ずっとそんな感じじゃん。……まだ体調、悪い?」
「いや、もう元気だってば……」
「どこがだよっ」
職場復帰して一週間。訪れた休息日に誘われ、レーシュはミンテと再びコーヒースタンドにまでやってきている。
今は休息日に一日中屋敷にいると息が詰まりそうだから、誘いは渡りに船だった。
――あの、喧嘩というには情けないやらかしと後悔の翌日は、顔を合わせるのが気まずくて思いっきり避けて過ごしてしまった。
会ってまた怒らせたらどうしよう、また拒絶されたらどうしようと考えてしまい、勇気が出なかったのだ。
職場へ取りに行きたい資料があると嘘をついて王宮まで馬車を出してもらい、こっそり一人で祈りに行った。神官には何も言われなかったから、一人だからといって問題があるのではないと思う。
仕事のある日はさすがに避けるわけにもいかず、無言の朝食をとった。髪を整えてもらうのは申し訳なくて部屋を出る前に自分で適当に結んでいったけど、視線で隣の部屋を示され結局ラツィエルに完璧な身繕いをされた。
手つきは優しくて安心したものの、髪の毛以外には決して、一瞬たりとも触れなかったのが、やっぱり拒絶に感じられて。鏡越しにも目が合ったと思った途端に逸らされる。
そのたびにレーシュの心には細くて鋭い棘が突き刺さり、長い痛みを残した。
他人にどう思われようと全く気にしていなかった自分が、ラツィエルの一挙手一投足にここまで一喜一憂するなんて思いもしなかった。
数日経てば当たり障りない話くらいはするようになったが、気安い会話なんてもってのほか。それでも表面上は以前と変わりない態度に見えているつもりだったけど、シェキナには「喧嘩でもされたんですか?」と大層心配された。
復帰した仕事は相変わらず忙しく、それがありがたかった。決定的な証拠が見つかったため、サロンの関係者に聞き取り調査が連日行われているようだ。大元の貴族が捕まるのも時間の問題だろう。
レーシュは仕事を終えたあと、一人で密かに神殿で祈ってから家に帰るようになった。
神殿が職場のすぐそばでよかった。卵はまだ親指の先ほどの大きさだけど、ほんの僅かに大きくなった気がする。
まだ真っ白な殻のなかに、我が子の命が宿っているのだ。見ているだけで愛おしくてたまらなくなる。
ただ、夫婦で祈りに来ている人を目にするとやっぱり寂しくなるのだった。
(いつか、言わなきゃいけない……よね。喜んではくれないかもしれないけど……)
「はぁっ……」
「その艶のあるため息吐くのやめてくれる? なに、もしかして腰が重だるいとか、そういう感じ?」
「腰って……いや、まさか」
旦那関連? と直接的なミンテの問いかけに、抱かれた翌日のことを思い出して頬が熱くなる。全身痛かったけど、確かに腰まわりが一番重くてつらかったな……
「だから、その顔もやめろって! そういうのは家でやってよ!」
「ご、ごめん」
よくわからないが、怒られたのでレーシュはキュッと表情を引き締めた。陶器の容器に入ったアイス・カフェ・モカの生クリーム乗せを飲めば、ちょっと元気が出た気がする。
いや、元気なんだけど。気鬱は、あるのかもしれない。
「唇にクリームついてるよ」と指摘してきたミンテは、レーシュがぺろりとクリームを舌で舐め取るのを半目で見やってから、ずいっと顔を近づけてきた。
こそこそ話をするように、声を潜める。
「ていうかさぁ、この前見ちゃったんだけど……旦那さんが娼館からでてくるところ。あの人が浮気するわけないよね? なんだったんだろ?」
「……え?」
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