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第22話 噂
時期的にはレーシュが休んでいたときの話だ。ミンテはジュノンさんと夜の街を歩いていた。
「……ミンテの恋人って、ジュノンさんだったんだ?」
「うん。レーシュになら言ってもいいかなって」
「お似合いだなって思ってたよ」
そうかな? と照れ笑いしたミンテと微笑み合う。しかしすぐに表情を引き締めて次の言葉を紡いだ。
二人は偶然、貴族向けの高級娼館からラツィエルが出てくるのを見かけたらしい。
「たぶん、そこで働いてる女性に見送られてたんだけど……おれもあの人も、きっと理由があったんだろうって結論づけたんだ」
「そう、なんだ……」
「レーシュに言わないでおくのも気持ち悪くて。前に……離縁するかもって言ってただろ?」
そのときゴトッとカップを落としたような音がして、思わず二人は隣の席を見た。下を向いていたから顔はわからなかったが、そこに一人で座っていた男性のカップは床じゃなくてテーブルの上に着地したようだ。
気を取り直して向き直り、ミンテはさらに小さな声で言葉を続けた。
「だからまさかって一瞬思ったんだけど。でも調査のときとか、レーシュたちすごい仲良さそうだったから、やっぱり絶対浮気とかじゃないと思ったわけ。理由、旦那さんに聞いてみなよ」
レーシュの顔が青褪めていることに気づいたのだろう。ミンテの声は気遣わしげになり、「変なこと言ってごめんな」と眼鏡の奥を覗き込んでくる。
彼はレーシュとラツィエルが相思相愛だと思っている。確かに調査のときは王子様みたいに助けに来てくれて、優しかったけれど……実際のところは愛されていないのだ。
ラツィエルが浮気をするような性格だとは思えない。しかし娼館での女遊びは浮気に入らないという意見も貴族の中で根強い。だからこそ、レーシュも以前はラツィエルが娼館くらい行っていると思っていた。
でも、レーシュが寝込んでいる間に行っていたなんて。男を抱いたのがよっぽど嫌だったのだろう、感覚を上書きしに行ったのかもしれない。
ズキズキと胸が痛み出し、目の前に影が落ちたかのように視界が暗くなった。初夏の陽気で日差しは眩しいほどなのに、光はレーシュに届かない。指先は今も冷えている。
あの喧嘩の前からラツィエルの心はレーシュになかったことが、目の前に突きつけられている。
少し前なら全く気にしなかったはずだ。だけど、今はその現実がひどく苦しかった。
◇
数日後のことだ。朝王宮へ到着したとき、なんだか空気が変だった。あちこちから見られている気がする。
謎の注目は寝起きの髪で出仕したときとはまた違う感じだし、なんだろう。
まぁいいか、と相変わらずの無関心で宰相執務室へ向かっていると、一人の男性が正面からやってきて足を止めた。進行方向を塞がれてしまったのでレーシュに用があるみたいだ。
仕方なく立ち止まって見ると、紺色の騎士服を着ているから第二の騎士のようだった。主に王都の警備に当たっている彼らだが、王宮内の訓練場を使うことがよくあるのだ。
顔に見覚えはないものの、そばかすの浮いた頬を真っ赤にした彼はまだ十代後半くらいの若さに見える。
騎士の子がなんの用だろう?
レーシュが小さく首を傾げていると、彼は唐突に「ああああの!」と廊下に響き渡る大声を出した。
「コーマ・ジューイットと申します! レーシュ様、ぼくを恋人候補にしてくださいませんか!?」
「……は?」
急に大声出さないでよ、と耳を押さえようとしていたレーシュは、両手を中途半端に上げたまま固まった。
差し出されたと思ったのかその手をコーマがぎゅっと掴んでくる。若くてもまめの多い騎士の手だ。
「事情は存じ上げてます。すぐにとは言いませんから、どうか考えてみていただければ……!」
「じ、事情……?」
(なに言ってんの……?)
レーシュは唖然としてしまい、すぐに言葉が出てこなかった。コーマは薄灰色の瞳をキラキラと輝かせて、前屈みで至近距離からレーシュの顔を見上げてきている。
よく分からないが、学園の頃を彷彿とさせる状況に懐かしさがこみ上げてきた。恋人候補?はお断り一択だし、この手も今すぐ振りほどきたい。
結構力強く掴まれてるな……と眉を顰めつつレーシュが「悪いけど」と口にしたとき、コーマの手首を第三者が掴んだ。
「人の妻に何をしている」
「っぅわ」
「ラツィエル……」
声に振り向くと、今朝別れたばかりのラツィエルがそこにいた。騒ぎを聞きつけて来てくれたのだろうか。
コーマから離れた手にほっとして、着ていた服でゴシゴシと手のひらを拭った。すると目の前に、ライラックが微かに香るハンカチが差し出される。
「お前なぁ、せめてハンカチで拭けよ」
「汚れたとかじゃないんだよ? なんとなく精神的に……」
「結構言うなお前……」
「ごめんなさぁぁーーい!」
家にいるみたいな会話をラツィエルと交わしていると、コーマはいつの間に拘束から逃れたのか走って逃げて行った。「うわーん!」と情けない泣き声が長い廊下に鳴り響く。
嵐みたいな子だったな、と大きく息を吐きながら見送っていると、ラツィエルが「で?」と問いかけてくる。
「何を言われたんだ?」
「なんか、恋人候補にしてほしいって……」
「……まさか承諾してないだろうな?」
「はぁっ? なんで?」
なぜか疑うような言い方をされて、レーシュは目を丸くした。きっぱり断る直前に助けてもらったとはいえ、承諾するはずがない。
そんなことさえも信じてもらえない事実にムッとして、レーシュはつい、心の澱を吐き出してしまった。
「娼館に通う浮気男と一緒にしないでくれる?」
「……はっ?」
ゴーン、ゴーン――と神殿の方から鐘の音が聞こえてくる。王都全体に響き渡るこの音は王宮の廊下にいるとかなり大きく聞こえ、十秒ほどの間会話もままならない。
どうせもう始業だ。レーシュは珍しくぽかんと固まるラツィエルを置いて、改めて宰相室に向かう。
一連のやり取りを見ていたのか端々から視線を感じたけれど、レーシュの頭の中は自分の発言への後悔でいっぱいだった。
(言うつもりなかったのに!)
ラツィエルが疑いの目を向けてきたから、レーシュも言い返してしまったのだ。でも、事実を言い当てられたからラツィエルもあの反応になったのかもしれない。追いかけても来ないし。
ああ、嫌になる。
以前からラツィエルとの関係なんて形式上のもので、あっさりサッパリとした関係が心地よいと思っていたのに。外に恋人を作っているならまだしも、娼館に行ったと考えるだけで悲しい気分になるとは自分はなんて女々しい男なんだろう。
「レーシュ!」
宰相室補佐室の扉を開けると、ミンテが真っ先にレーシュの名前を呼ぶ。その小さな顔には焦燥が浮かんでいた。
「おはよ。そんなに慌ててどうしたの?」
「ごめん、この前コーヒーハウスでしてた話……誰かに聞かれてたみたい。『離縁するかも』ってとこ」
「……ああ!」
パズルのピースがカチリと嵌まる。コーマが突撃してきた理由が早速わかり、少しだけすっきりした。『事情』というのがそれだろう。
コーヒーハウスで隣の席にいた人が、王宮関係者だったと思われる。数日かけて徐々に噂が広まって、さっきの出来事に繋がったに違いない。
なぜだか責任を感じているらしいミンテに気にしないよう伝えていると、テットとビナーまでもが噂を聞きつけたようで、やってきた途端にレーシュを詰問した。
離縁は今のところするつもりがない、考えたこともあったけど今は考えていないと説明しているとまた扉が開いた。ハニエル様までもが「離縁しちゃうのぉぉ!?」と半泣きで現れたので、噂はどこまでも広がっているらしい。
想像以上、というか全く予測していなかった混乱だ。レーシュは自分が離縁するつもりがないことを何度も説明する羽目になって、その日の始業が遅れたのは言うまでもない。
(僕はもう離縁したいと思ってないけど、ラツィエルはどうなんだろ……)
以前は離縁なんてしなくていいと説得されたけど、今は?
これから胎樹のことを伝えられたとしても、子さえ生まれてしまえばレーシュは離縁される可能性だってある。
人の心は移ろいやすい空模様のようだ。先ほどまで晴れやかだったかと思えば、次の瞬間には思わぬ雨が降り出す。あるいは夜空の月のように満ち欠けを繰り返し、決して同じ姿を留めることはない。
それをまさに今、レーシュ自身が実感しているところだった。
ラツィエルは、噂を聞きつけた人たちから同じように尋ねられたらどう答えるのだろう? 怖くて、知りたくない。
そんなことを悶々と考えていたけれど、レーシュはすっかり予定を忘れていた。王太子殿下の外遊で、ラツィエルは次の日から三週間不在になったのである。
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