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第26話 消滅……なんてこと

 ぱちぱち、雨粒が窓に当たる音で目覚めた。瞼を押し上げてもまだ薄暗く、部屋を見渡せることでかろうじて夜が明けていることがわかる。  覚えていないものの嫌な夢を見ていたらしい。どことない疲労を感じ、レーシュはそっと体を起こした。  隣を見下ろすと、レーシュの方へ体を向けてすやすや眠っているラツィエルがいる。彼の寝顔を見るのは変な感じ。胸の中が温かくなる。  くすぐったい心を抱えつつベッドを下り、喉の渇きを癒やすためにレーシュは部屋を出た。  厨房の方へ足を向けると、廊下でばったり義姉のタヴに出会った。 「レーシュ! おはようっ、久しぶりね」 「おはようございます、義姉さん。起きて大丈夫なんですか?」 「ええ。少しは動かないと、ぶくぶく太っちゃうわ。それに昨日からなんだか落ち着かなくて、変な時間に起きちゃったの」 「ごめん、大事なときなのに気苦労かけて……」  妊婦にとって、本来は心穏やかに過ごすべき時期だろう。申し訳なくて謝罪すると、ポンと肩を叩かれ「むしろありがとうね」とお礼を言われた。  レーシュが体を張って事態を伝えに来たことまで、ちゃんと伝わっているらしい。  ミッシュがしっかりしてるから大丈夫、とタヴは明るい笑顔を見せてくれる。ミッシュは我が兄ながら赤ん坊みたいにタヴに甘えているだけかと思ったが、そうでもないようだ。 「レーシュも結婚して十年経つっていうのに、旦那さんとラブラブなのね。『可愛い末っ子が取られた気がした』って、今さらミッシュが嘆いてたわ」 「やめてください……恥ずかしいな」  ラブラブって……恥ずかしいな! レーシュは片手で顔を覆った。タヴはにこにことお姉さんの顔でレーシュを見ている。  今さら初恋の真っ最中とは言えない。人前で誰かに抱きつくなんて、人生で初めてだった。ラツィエルも驚いただろうなと思う。  しばらく雑談をして、やっぱり話題はお腹の子の話になる。タヴが愛おしそうにお腹を撫でているのを見ると、王都で待っているはずの卵のことが気になった。  早く帰って、祈りに行かないと。 「子供は……欲しいと思ってるの?」  タヴから慎重な表情で尋ねられて、レーシュは素直に頷いた。不意打ちだったけどできてみれば、欲しくないなんて思わない。  まずはラツィエルに伝えないと、タヴにも言えないけれど。 「もう三十になったんだっけ? 確率なんて奇跡の前じゃ意味をなさないし、諦めるにはまだ早いわ。――子供ができたらすぐ教えてよ? 子育てに関してだけは、私も教えられるから」 「……樹子も、普通の赤ん坊と変わらないんですよね、きっと」  四人も生み育て、五人目もお腹に宿しているタヴの言葉は頼もしい。レーシュも「早く相談できるようになれば」と考えてしまう。 「この前幼馴染の親友に、胎樹から子供が生まれたの! 卵が育つまでも大変だったみたいだけど、生まれてからは全く同じよ~?」 「育つまで大変、って……祈るだけじゃないんですか?」  楽しそうに話す内容に引っ掛かりを覚えて、尋ねる。  ああでも、確かに大変かもな……とレーシュは思い至った。この辺りに胎樹はないため、確か馬車で一時間ほど移動しなければならない。領民でも胎樹で子作りしたい人は、わざわざ引っ越すことがあるという。 「卵ができてもね、初期は不安定らしいのよ。そこは普通の妊娠と同じかもしれないわ。二人でせっせと毎日祈らないと、いつの間にか消滅しちゃってたってパターンもあるみたい」 「え……」 「大きくなったらなったでエネルギーを吸い取られてすごい疲れるみたいだし、木に生るからって簡単じゃないのね。だからレーシュも覚悟しておいた方がいいわ」  レーシュは、自分がとんでもない勘違いをしていたことを知らされた。 (だって、「なるべく」って言ってたし。一人で行ってても何も言われなかったし……)  心の中で言い訳をしてみても、首筋から氷が入ってきたみたいに背筋がぞっと冷える。  管理者の神官は、そこまで親切に教えてくれるものだろうか? 彼らは血の契約があって、喋れないのだ。簡単なアドバイスはしてくれるものの、基本的に見守っているだけな気がする。  やっぱり一人では、不十分だったんだ。最後に見たときは変わらない様子に見えたけど、今は……?  ダアトは数日なら大丈夫だろうと言っていたが、何日も空けてしまって、卵はまだそこにあるだろうか。 (消滅……なんてこと、あるの……?)  なんと言ってタヴと別れたのかも覚えていない。気づけばレーシュは、厨房にも寄らずに自室へ帰ってきていた。  クローゼットへ入って行って着替える。最後に防水のマントを着て、寝室の扉も一瞥したが、そのまま部屋を出た。  向かう先は厩舎だ。慣れてないし体力も自信がないけれど、乗馬はできないわけじゃない。馬車よりも確実に早いはずだ。  誰かに伝えるとか書き置きをするとか、そんなことは考え付かなかった。とにかく子供のことが心配で、居ても立っても居られない。  レーシュは雨の中何度も気を失いそうにながら街道を駆け抜け、最低限の休息だけを取って移動した。当然ラツィエルには及ばないが、生家へ向かったときよりも少し早く王都へ帰り着く。  疲れで足に力が入らないし、手綱を握っていた手も強張っている。雨による冷えで鼻の先まで感覚がない。  しかし我が子の卵を確認して、たとえ一人でも祈らなければという気力だけでレーシュはここまでやってきたのだ。  昼間だが、ざあざあ降りなのもあって視界は悪く神殿の周りは人けがない。しかしポセイーナは水の神であるためか、神殿はいっそう美しく神秘的な雰囲気を放っている。  濡れたマントを抱え、レーシュは焦る気持ちのまま小走りで階段を降りた。  ――約一時間後、レーシュは静かに神殿を出てきた。その美しい顔には色も表情もなく、見た人がいれば礼拝堂に置かれている彫刻と勘違いしたかもしれない。  マントを着直すのも忘れて、雨に濡れながら馬の元まで戻った。涙の跡は額から流れてくる雨の筋に紛れて消えていく。ふらふらと歩きながらも、降りしきる雨の勢いに負けて蹲ってしまいそうだ。  途方に暮れてしまって、これからどうすればいいのか、どこに向かえばいいのかもわからない。このまま雨に溶けて消えてしまいたかった。 (卵……なくなってた……。僕のせいだ……)  いつも見上げていた枝の先には、なにもついていなかった。  落ちてしまったのかと下の池を見てみるも、浅いとはいえ自分の身長以上に離れているのでよく見えない。池に入って確認しようとしたら神官に止められてしまった。  卵が成熟して落ちたときにだけ、池に入ることができるのかもしれない。そう頭の中では理解しても、簡単に納得などできなかった。  これはなにかの間違いで、落ちた卵を見つければどうにかなるのではないかと、ありもしない希望に縋って。  神官は抱えていた本を開き、かつて見せてくれたのと同じ、卵に向かって祈る二人の人物が描かれている絵をレーシュに見せた。二人じゃないから駄目だったってこと……?  レーシュが涙を流すのを悲しそうな表情で見下ろしてから、神官はその場を離れていった。  いつも祈っていた位置で呆然と座り込み、泣いたことで体力も尽きてしまったような気がした。しかし別の人たちがレーシュの近くまで来て祈ろうとしていることに気づき、なんとか立ち上がって外に出たのだ。  大きく育った卵はいくつも胎樹に生っている。羨ましくて死にそうだった。 「うちに……うちに帰ろう」  ここでずっと突っ立っていても溶けるわけないし、変死体になる前に誰かがレーシュを見つけてしまうだろう。レーシュに付き合わされたラツィエルの馬も可哀想だし……  妙なところで冷静な自分がいて、レーシュはすべきことを敢えて口に出した。自分に言い聞かせないと動けそうにない。  のろのろと動き出したところで、雨音の合間を縫ってぬかるんだ地面を踏みしめる足音が聞こえた。自分の足音?  ――ペシャ……パシャ、  違う、近くに誰かがいる。  神殿に来た人だろうかとレーシュが顔を上げたとき、チャコールグレーの外套を着た人が近づいてきていた。灰色の雨に紛れ、フードを被っていて人相は掴めない。 「誰だ……?」  三人、いや振り返るともう一人いて、四人いる。背が高く、体格のいい人もいるから男だろうか。レーシュを囲むように、一歩ずつ近づいてきている。  レーシュが気づいたことに向こうも気づいたのだろう。咄嗟に逃げようとしたが、すでに距離が近づきすぎていた。 「うわ! だ、誰か……っ」  叫ぼうとした瞬間腹を殴られる。重い衝撃が体の中心から伝わり、「ぐ」という鈍い声だけが全ての息とともに吐きだされた。  もともと弱っていた体は簡単に力が入らなくなった。別の男がレーシュの傾いだ体を受け止め、また別の男が口に猿轡を嚙ませてきた。  近づいてようやく見えたが、誰の顔にも見覚えがないから王宮勤めではなさそうだ。……纏う雰囲気からして、下町の破落戸だ。 「なあこいつ、服が透けてエッロいぜ」 「馬はどうする?」  ゴットフリート家の馬は、近づいて手綱を引こうとした男にヒィーン! と鳴いて威嚇した。ついでに後ろにいた男が蹴られそうになっている。 「暴れさせるな! ――ほっとけ。放しておけば勝手にどっか行くだろ」  興奮した馬のいななきに誰かが気づいてくれないものかと思ったが、誰もいなかったようだ。周囲を確認してからヨシと頷く顔を見て、レーシュは絶望する。  両手もきつく縛られ縄が擦れて痛い。初めて身に受けた明確な暴力に、レーシュは完全に体が竦んでいた。  抵抗もできなかったけど、大きめの麻袋に「入れ」と言われても怖くて動けない。ここに入ったら、顔も見えなくて、偶然見かけた人がいても荷物としか思わないだろう。  無理やり二人がかりで押し込まれそうになって、思わず足をジタバタさせて抵抗した。 「うー! んうーっ!」 「うるせぇ!」  拳で頬を殴られ、目の前に星が散る。衝撃で首がのけ反った。頭が朦朧としている間に、レーシュは麻袋のなかに仕舞われてしまった。  こいつらは誰? なんで僕を? これからどうなるの?  疑問しかなく、手掛かりは一つもない。  あちこち痛い。寒い。……助けて。  まとまらない考えが感情に覆いつくされ、意識は黒く塗りつぶされていく。  ――どこかへ、運ばれていく。レーシュにはそれだけのことしかわからなかった。

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