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第35話 レーシュがラツィエルを助けなければ

 ラツィエルに手を引かれる。レーシュはベッドから下りて共に逃げようとするも、ガシャン! と音がして先に進めなかった。 「あ……」 「なんだこれは!」  一瞬足枷の存在を忘れていた自分が情けない。足首からベッドの支柱へと繋がっている鎖に、ラツィエルも今気づいたのか絶句している。  しかし迷っている暇はない。鎖の継ぎ目に剣を当てて壊そうとするが、焦りで何度も失敗してしまう。というか鎖が丈夫すぎるのだ。  火の手はまだここまで来ていないが、刻一刻と逃げ場がなくなっているのは煙の臭いと肌感覚で分かった。 「ラツィエル、僕はいいからもう逃げて……」 「んなことできるかよ!」  共倒れなんて笑えない。せめてラツィエルには逃げてもらおうとレーシュが説得しようとしたとき、第三者の声が扉の方から響いた。 「私は君を許さない」 「っ!?」  そこにいたのは、夜会に出るような華やかな衣装を身に纏ったセーデル侯爵だった。憎々しげに顔を歪めてラツィエルを見ている。  手にはこの場にそぐわない松明を持っていて、もしかするとこの人が自分の屋敷に火をつけたのかもしれないと思った。苦し紛れの証拠隠滅だ。 「あと少しだったんだ! それを、ゴットフリートめ……あいつはいつも邪魔をする……エバは私の恋人だったのに!」  エバとはラツィエルの母君の名前である。え、とレーシュは口を開けて呆然としたが、ラツィエルはすぐに反応した。 「……? ああ、母に昔付きまとっていたのはあなたか。両親から聞いたことがある。……まさか、その逆恨みで麻薬を?」 「エバはいつも、私に笑いかけてくれていた。勘違いじゃない! 少しずつ愛を育んでいたのに、ゴットフリートが横から奪っていったんだ!」 「……わかった。わかったからそれを俺に寄越してくれ。もうここを出ないと……あなただって焼け死にたくはないだろう」  セーデル侯爵の私憤が一連の事件を起こしたのだと知り、レーシュはなんとも言えない気持ちになった。侯爵も息子のゲモリーも、妄想癖があるに違いない。  ラツィエルはまともに話をしても無駄だと判断し、侯爵を説得しようとしている。ここにまで火種を広げられたら、逃げられる確率は一気に低くなる。  しかし侯爵は「あいつのせいだ!」「もう終わりだ!」と叫ぶばかりで全く聞く耳を持たない。目は虚ろで、意識はすでにここにないように見える。  ラツィエルがレーシュから離れ、ふらふらする侯爵の手から今にも落ちそうになっている松明を奪い取ろうとしたときだった。 「全てお前のせいだ、侯爵」 「う、あ゙ッ……?」  知らない男の声。侯爵の体が突然前のめりに揺らぎ、顔から床に倒れこむ。衝撃的な場面にレーシュはビクッと体を揺らした。  視線の先には侯爵の背中に刺さったナイフと、ずいぶんと体格のいい男が走って逃げていくのが見えた。貴族ではないだろう。破落戸の一人だろうか。 「なに? 誰……?」 「マッチョおじさんだろう。とにかくレーシュ、もう逃げないとまずい」  焦った声音でラツィエルに言われ、侯爵の落とした松明が部屋の床で煌々と燃えていることを知る。簡単に消すことはできないし、そのうち木材に燃え移るだろう。 「わかった。足を切り落として」 「待てって俺が鎖を壊すから!」 「無理だよ! このベッドごと動かない限り間に合わないって!」 「あ……それだ!」  レーシュが片足を失う覚悟でラツィエルに告げると、ハッとした顔でラツィエルはベッドの支柱の方に目を向けた。  さっきは押して動かすのもやっとだったベッドを彼は両腕で持ち上げる。血管の浮いた腕の筋肉にレーシュが思わず見惚れた瞬間、ラツィエルは鎖のついた支柱を一番下にして床に叩きつけた。  バキィッ! と激しい音を立てて支柱が折れ、レーシュは次の瞬間ラツィエルに横抱きで抱えられていた。  水差しの水を互いの体にかけ、ラツィエルは部屋を走って出た。向かう先は階段だ。しかしその先には赤い炎しか見えない。 「ラツィエル……」 「あそこを抜けないと。大丈夫、俺が必ず外まで運んでやるから、ちゃんと被ってろよ」  ラツィエルの上着で頭まで覆われ、レーシュはぎゅっとラツィエルの胸に抱きつく。怖いけど……助けに来てくれたこの人を信じよう。  長い階段を駆け上り、炎の中を抜けるときの熱さは尋常じゃなかったが一瞬だった。  もう大丈夫そうだと、レーシュが小さく息をついたときだ。  メキメキと木が折れるときのような音が聞こえ、レーシュはドサッと床に投げ出される。  体に受けた衝撃で束の間混乱したが、被っていた上着から顔を出すとすぐに周囲があちこち燃えていることに気づいた。  燃えた柱が倒れてきたらしい。この屋敷からすぐに出ないと、もう崩れ落ちてしまいそうだ。 「いたたた……ねぇ、ここ何階? って……ラツィエル? ――ラツィエル!!」  レーシュの足元、すぐ傍らにラツィエルが倒れていた。――柱の下敷きになって。  火のついた部分はまだ先の方だが、この様子だとすぐにラツィエルを巻き込んで燃えてしまうだろう。レーシュは慌ててラツィエルの背に乗る柱を退けようとするが、重すぎてぴくりとも動かない。  ラツィエルの力なら持ち上げられそうなのに、頭に柱がぶつかったことで気を失っているらしい。 (気を失ってる……だけだよね……?)  めらめらと揺れる炎と共に、絶望が足元に忍び寄ってくる。打ち所が悪かったらどうしよう。レーシュを助けようとしたことでラツィエルが死んでしまったら、どうしよう…… (怖い……けど……!)  レーシュはぎゅっと手を握りしめ、青紫の瞳にもう一度光を宿した。  もう駄目だと思ったときにラツィエルは来てくれた。きっと必死で探して来てくれた。  今度は逆だ。レーシュがラツィエルを助けなければならない。  レーシュはラツィエルの顔に顔を近づけ息をしていることを確認すると、さっき水で濡らした上着をラツィエルを守るように着せかける。  腰に巻いていたシーツをきつく結び直し、辛うじて炎が届いていない方向へ走り出した。 「誰かっ! 誰か来てーーー!!」  廊下に出て声の限りに叫ぶ。火の手はあちらこちらに回り、使用人たちが逃げまどっているようだった。ラツィエルとコーマと……他にも誰かいるはずだ。  しかし仲間らしき人がやってくる気配はなく、レーシュも必要以上にラツィエルから離れたくはなかった。  使用人の誰かがこちらを一瞬振り向いたような気がしたが、階段の下へ走って下りていく。みんな自分の身を守るので精一杯なのだ。  火の手がどこまで届いているのか不安になり、レーシュは一旦ラツィエルのもとへ戻った。  すると、背中に乗った柱が今にも全焼しそうになっている。 「ラツィ!!!」  レーシュは咄嗟に燃え盛る柱を素手で掴んだ。熱い気はしたものの、気にするまでもなく全身全霊で持ち上げて押し退ける。 「あ゙あ゙あ゙あああああ!」  炭化した柱が途中で崩れたおかげで、今度はなんとか退かすことができた。  ぎりぎりと歯を食いしばりながらラツィエルの腕を掴んで自分の肩に上半身を乗せ、引きずりながら歩き出す。  煙で目が痛い。息が苦しい。意識のない人間の体は恐ろしく重かったが、レーシュは一度も立ち止まることなく歩みを進めた。  そのうちひどく頭が痛み、意識が朦朧としてくる。煙を吸いすぎたのかもしれない。でも、せめてこの屋敷を出ないと……  もうこの階に人けはなかった。廊下を進むと階段があり、僅かに希望が見えてくる。階段の下に誰かが、いる。仲間かもしれない。  しかしレーシュの目は霞み、誰がいるのか視認できなかった。自分がラツィエルを助けないと。その一心でただただ足を運び続ける。 「たす、けて……」  喉が焼けて、ほとんど声が出ない。やっと辿り着いた階段に足を踏み出したとき、レーシュの膝からガクンと力が抜けた。  駄目だと思うのに、意識が遠のいていく。このままじゃ転げ落ちてしまう。  レーシュの視界が暗転するその瞬間……抱えていたラツィエルの腕が、ぴくりと動いた気がした。

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