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第36話 奥様、恋は初めてなんですか?

 嫌な夢を見ていた。火事で屋敷が燃えて、ラツィエルも巻き込まれて死んでしまう。 「ラツィ、らつぃ、死なないで……」 「大丈夫だ、ここにいる。レーシュが助けてくれたんだろ?」  レーシュもいつの間にか火に囲まれ、逃げ場がなくなっていた。どうすればいいのかわからず、膝を抱えて途方に暮れてしまう。 「あつい、くるしい。たすけて……」 「レーシュ、大丈夫だから。一旦起きろ」  ぽんぽん、優しく背中を叩かれてレーシュは振り返る。そこには誰もいない。じゃあ誰なの?  正面に向き直ると、額に柔らかい何かが触れた。 「ん……?」 「おはよう」  おはようって、朝……?  一気に夢の世界が遠のき、薄く目を開くと逞しい胸板が目の前にあった。けれどその肌はほとんどが白い包帯で覆われている。  レーシュは誰かに抱きしめられて眠っていたらしい。おそるおそる顔を上げていけば、エメラルドグリーンの明るい瞳と目が合う。  ――ベッドに横たわったラツィエルが甘い笑みを浮かべて、レーシュを見ていた。 「うわぁっ!?!?」 「おいなんだよその反応は……俺はゴーストか?」 「なんで一緒に寝てるの! ていうかその包帯なに? いっったぁ!」 「落ち着け……覚えてないのか?」  レーシュは胸を反らして仰天した。ほぼ形だけの結婚なので、たとえ夫であっても同衾する習慣はない。  両手で体を突っ張ろうとすると、手のひらに激痛が走る。ラツィエルに手首を捕まれ、見ればレーシュの両手も包帯でぐるぐる巻きにされていた。 「火傷だ。倒れた俺を、お前が助けてくれたんだろ?」 「あ……」  火傷、と言われて脳裏に揺らめく炎が蘇った。  ……そうだ。セーデル侯爵の屋敷が燃えて……。  それ以前にレーシュは攫われ、ラツィエルが一日で助けに来てくれたのだ。屋敷を出ようとしたときにラツィエルがレーシュを庇って気絶してしまい、レーシュは必死で助け出した。  でも自力で屋敷を出た記憶がない。あのとき、ラツィエルを抱えた階段の上で…… 「僕、階段から転がり落ちなかった?」 「俺が直前に目覚めたし、下からジュノンたちも助けに来てくれてたから」 「そっか……よかった。――ラツィエル、助けに来てくれてありがと」 「でも結局レーシュに助けられたんだ。……不甲斐ないな。こんな、火傷までさせて……」  包帯の上から労わるように手のひらを撫でられる。そこはジクジクと痛んでいたけれど、優しい触れ方に少しだけ和らいだ気がした。  そのうちダアトとシェキナがやってきて、怪我の手当てをされたり大泣きする侍女を宥めたりした。  ラツィエル本人は「大丈夫。大したことない」と軽く話すが、主人思いのダアトはレーシュに詳しく怪我の状況を教えてくれた。  ラツィエルは背中には大きな打撲を負ったが火傷も軽症で、一番酷いのはその前日の夜中に切りつけられた腕の傷だったらしい。ろくに手当もしなかった結果昨晩また傷が開いてしまい、放っておけば大変なことになっていたとダアトは本気で怒っていた。 「もう無理をしないように、奥様からもしっかり旦那様に言い含めておいてくださいね!」 「……もう駄目だからね?」 「……ハイ」  「しっかり」と言われても難しい。とりあえずとレーシュはラツィエルの頬に包帯の巻かれた手を添えながら伝えると、ラツィエルは耳を赤らめて頷く。  使用人二人には生温かい目で見られたのが解せない。  ラツィエルが無理をしたのはレーシュのためで、レーシュが攫われたり危険な目に遭ったりしなければ彼も無理することはなかっただろう。  だから自分自身が気をつければいいのだ。普通はこんなこと、一生に一度もないだろうし。  同じベッドで療養させられているせいで、レーシュは時折どうしようもないほど恥ずかしくなった。普段は平気なのに、ラツィエルが優しく触れてくると心臓が跳ねてしまう。  レーシュが両手を使えないため、髪を梳いたり着替えを手伝ったり、侍女に任せておけばいいのに甲斐甲斐しい。  顔や腹の殴られた痕も青紫色から緑色に変わっていくのを忌々しそうに見やり、せっせと軟膏を塗りつけてくる。自分だって怪我人のくせに。  これまでにない距離感に慣れないのもあるが、以前のレーシュだったら「やりたいなら好きにすれば?」と顔色さえ変えなかっただろう。  自分自身が変化に戸惑っているのだ。なんというか、こう…… 「心臓がおっきな音を立てるんだよ。わかる?」 「ええ、わかりますとも奥様。忙しなく動いたりしますよね!」 「そう、そうなんだ! 息も上がって苦しくなったり……」 「胸が詰まるのですよね。わかりますわ」 「僕、病気なのかな?」 「……は?」  二日で音を上げたレーシュは、ラツィエルが「体が鈍る」とか言って鍛錬に出て行った隙に自分の部屋へと逃げ戻ってきていた。  生家から一人で戻ってきたときの疲労も相まってなかなか体から怠さが取れないレーシュよりも、ラツィエルは遥かに元気そうだ。  シェキナに体のおかしな反応を伝えると、彼女はぽかんと口をまん丸にして固まった。  レーシュはヒュッと息を呑んだ。自分はこれでも健康体だと思ってたのに…… 「まさか、考えるまでもない病気ってこと……? 思いつかないんだけど。覚悟はできてるから、早く教えて!」 「恋ですよ、奥様」 「コイ? そんな病名あった?」 「……本当に今さらという気はしますが、旦那様を好いているからこその反応でしょう。奥様、恋は初めてなんですか?」 「…………」  幼い頃読んでいた冒険譚でも、主人公が恋する場面はあった。街で聞こえてくる吟遊詩人の詩、知らない人からもらった恋文。  巷に溢れている恋による体の反応はすべて誇張表現だと思っていたのに……実際に体験してみると、なるほど納得せざるを得ない。  シェキナの表情が訴えるとおり、これくらいもっと若い頃に経験してきて当然なのだろう。  でもレーシュは恋を自覚してまだひと月ばかり。ラツィエルとゆっくり過ごすのはそれ以来初めてだったからこそ、恋の反応とやらを急激に感じているのだ。 「ふうん、なるほど。恋か……」 「もっとキャピキャピしていいんですよ!?」  シェキナのおかげで理由がわかってスッキリしていると、客人の来訪があった。  あとで部屋まで会いに行くからそのままでいいと伝えられたが、部屋着にガウンだけ羽織らせてもらって直接応接間に向かう。横になったまま会うと相手を心配させてしまうから、元気なところを見せておきたい。  応接間に入ると、中にはラツィエルとハニエル、そしてハニエルの妻エバがいた。レーシュを見たハニエルがさっと立ち上がり、エバは駆け寄ってきて抱きついてくる。 「レーシュ! 本当にごめんねぇ」 「エバ様、どうして謝るんですか」  ごめんと言われる理由に心当たりがない。レーシュが尋ねると、ハニエルは申し訳なさそうに答えた。 「ラツィエルに聞いたよぉ……。セーデル侯爵が私に恨みを抱いていたからこそ、君が狙われたんだろう?」 「僕が狙いやすかっただけで、ハニエル様のせいでもありません。みんな被害者でしょう。ハニエル様も危なかったんですから」 「レーシュ、そろそろ座ろう。母上も。レーシュはまだ療養中なんだ」 「あらあら、ごめんなさいねぇ。レーシュ」  ラツィエルが余計なことを言ったせいでエバにまた謝らせてしまった。レーシュはラツィエルを睨みながらも、腰を引かれるままソファへと座る。  屋敷から出たあとの話はラツィエルからも軽くは聞いていたが、ハニエルは事件の詳細と調査の進捗を教えてくれた。  ラツィエルたちが屋敷に押し入った頃、ハニエルも第二の騎士たちを連れて屋敷を包囲していたらしい。おかげで異変が起きてから屋敷から逃げ出そうとする怪しい人や、火事で逃げ惑う使用人の救助を行うことができた。  セーデル侯爵は行方不明。しかしナイフの刺さった焼死体が地下室で見つかり、ほぼ確実に本人だと考えられている。  そもそも彼は何かを察して夜会から帰ってきていたらしい。焼き菓子店の主人ルゴーンから異変が伝わっていた可能性もある。自ら屋敷に火をつけた辺り、自暴自棄になっていたのかもしれない。  レーシュが監禁されていた部屋は燃えたが、地下室の他の部屋は焼失を逃れたため麻薬の証拠も上がっているようだ。というか麻薬に火がついていたら、煙を吸ったレーシュたちも無事ではなかったかもしれない。  ゲモリーはコーマが運び出していたため無事。本人は重症だと大騒ぎしているようだけど、間接的に麻薬売買に関わっていたようだしちゃんと裁かれてほしい。  侯爵を刺した男は包囲をすり抜けたのかいまだに捕まっていない。おそらくあれはルゴーンで、街の焼き菓子店にも戻ることはなく消えてしまった。捜索は今も続いている。  他にも破落戸のような護衛は何人かいて、屋敷から逃げ出してきたところを捕まったそうだ。  その多くは地下で作業していた。レーシュたちが通った上階と繋がる階段以外に、別の出入り口があったらしい。  セーデル侯爵の妻や使用人は「何も知らない」の一点張り。処遇は決まっていない。  侯爵はいないものの、地下からイェツィラーとのやりとりの証拠である書簡などが見つかっているというから、今後は国同士の交渉となるだろう。  侯爵が国に歯向かおうとするなんて、とんでもないことだった。結果は失敗に終わったといえど、徹底的に捜査され関係者には然るべき沙汰が下されるに違いない。  ハニエルの仕事はまだ終わっていない。とはいえ、緊急の調査は一旦終わりとなる。レーシュもよかったと肩を撫で下ろした。

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