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8-あこがれ
うだつの上がらない大学生の冬休みは長い。
季節継続の講義ではないので、宿題や課題も無い。特定のサークルやゼミにも所属していない俺には旅行や遊びの予定すら見当たらない。才人も結婚式場のアルバイトが稼ぎ時であるため、捕まらなかった。
じゃあ俺が何をしているかと言うと、ひたすらに佐倉の元で働いていた。
「おーい、アシくん!こっちの梱包剥がしちゃってよー!」
「はーい!」
「アシくーん、かみてバレてんだけど?」
「あ、えーっと、すぐ動かしますんで!」
「なあ、俺らさっきコーヒー頼んだんだけど。アシくんしっかりしてよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださ……」
「林田くん!バミる位置間違って無い?」
「直しますっ(林田じゃねえわっ)」
もちろん、あいつの指示で働く以上、俺に人権なんか無いわけで。
俺は佐倉に連れて来られた撮影スタジオの一角で、見たこともないスタッフたちに顎先で使われていた。佐倉のアシスタントとして認識こそされたものの、俺にはカメラの専門知識など欠片も無いため、使いっ走りに徹している。
下っ端中の下っ端の扱いなど、お察しの通りだ。
体力的にこそ慣れてきたものの、連勤すればするほど給料(つまり借金に充てる金)が大幅に増えるが、一度でも休むと増額率が元に戻るという、労働基準法に駆け込めば一発アウト間違い無しの地獄の仕組みにより、俺は働き通しだった。
「ブラックコーヒーの人ー!」
お盆を両手に声を張り上げる。撮影直前ということもあって、目が回るほど忙しい。
もちろんこんなに働いたって俺の手元に金が残るわけでも無い。それでもなんとかやっていけているのが奇跡的だった。
五本木展で脚光を浴びてから佐倉にはいくつもの大きな仕事が舞い込んでいた。写真家は撮影ばかりが仕事と思っていたが、実際は自宅でのデータ処理や整理に使う時間も相当ということを知った。
佐倉宅でアルバイトをする際、俺は料理までさせられていたが、材料費は佐倉が払っている上に俺も食うことを許されている。借金をする前よりむしろ食費は減っていた。出張の多い佐倉はあまり自宅にいないので、そんな時は泊まって良いとも言われていた。大学からは佐倉の家の方が近い。光熱費もその分浮く。
元からもらっていた奨学金と、土日のちょっとした派遣バイトだけで、生活が成り立っていた。
AV撮影未遂の一件もそうだけど、なかなか佐倉の意思は理解できない。ただの気まぐれかもしれない。
それでも二ヶ月近く佐倉と過ごして、わかったことがいくつかある。
「HMIの2.5kgじゃなくて4kgの方あります? バンク寄せてください」
佐倉が指示を飛ばすと、現場に緊張感が走る。
無名だった佐倉の仕事は、瞬く間に日本中を魅了した。人付き合いが上手そうなタイプにも見えないが、作品を見ただけでこれだけの人員が揃うと言うのだから凄い。腕で物を言わせているということだ。
「一旦ライティングチェックで」
「はいっ、佐倉さん」
集中している時は静かで鋭い。自分の世界に入っているみたいで、話しかけても無視されるけど、ふとした瞬間に眠ったりするので行動があまり読めない。
「セッティングあとどの位かかりますか?撮れる絵からリハで撮っていきます」
飯を残すことはしないけど、あまり食わない。酒はビールでもワインでも、何でも良いのか毎回飲む。酔っているところは見たことがない。
趣味は読書と、多分、俺をからかうこと。行き過ぎた過ちこそ至っていないものの、たまに噛み付くようにキスもされる。でもそれは、慌てている俺を見るのが好きなわけであって、俺を好きなわけではない。迷惑極まりない遊びだ。
「イツキくん。……イツキくん?」
「あっ、は、はい!」
佐倉から呼ばれていることに気がついて、俺は軍手を脱ぎながら慌てて駆け寄った。
「これ、持っておいてください」
ぽいと無造作に渡されるカメラの機材。落としたらどうするんだと一瞬冷や汗をかいた。さっきまで佐倉と真剣に話し込んでいた一人の男が俺を見て、笑った。
「あはは。創介がアシスタント連れてくるなんて言うから、みんなでどんなもんかと思ってたけど……まさか学生とはな」
「……えーと……?」
あなたは誰、と視線で示す。
「桔梗 唯 です。よろしくね、小林くん」
爽やかな笑顔で手を差し出されて、思わず握手をしてしまった。女みたいな名前で中性的な見た目だと思ったが、その手は骨ばっていてれっきとした男だった。
桔梗さんは大手広告代理店でクリエイティブディレクターを務めているらしい。今回の撮影を佐倉に発注した側と言うことだ。
口ぶりから佐倉とは旧知の仲であることが伺える。めずらしいなと思ってその様子を眺めていた。
「小林くんはカメラマン志望でも無いんだろ?それで創介のアシスタントなんて、嫉妬されるんじゃないかなあ」
「まあそれは色々ありまして……。俺だって早く辞めたいんですけどね」
桔梗さんは一瞬きょとんとした顔をすると、それから俺の肩を何度も叩きながら笑い出した。本当に可笑しいのか目尻に涙まで浮かんでいる。
「いやあ、面白いね。あの創介が迎え入れるのもわかるよ」
「佐倉……さん、は、これまでアシスタントをつけなかったんですか?」
佐倉が席を外したのを良いことに、俺は桔梗さんに尋ねる。危うく呼び捨てにしてしまいそうだった。
「そうだね。海外生活が長いから向こうでのことはあんまり知らないけど、絶対に特定のアシスタントを抱えるタイプじゃないよ。あいつ潔癖症だし」
潔癖症。なんとなくそんな気はしていたものの、言われるまで確信は持てなかった。俺がその真逆を行く正確だからかもしれない。
でもアシスタントとどういう関係があるのかと疑問に思うと、それは人と日常生活の行動を共にできないということだった。
「仕事となると別なんだろうけどね。プライベートで人に私物べたべた触られたり、他人が作った料理を食ったりも苦手なはずだよ」
「え……」
「どうしたの?」
また泣くまで笑われるのは目に見えていたので、適当にごまかした。佐倉から受け取った機材を俺なりに丁寧に鞄へとしまいながら、色々なことを考える。
海外生活の間で何かが変わったかもしれない。
それでも佐倉は、俺の作った飯を嫌がる素振りも見せなかった。いつも完食してくれたんだ。
いけ好かない存在だが、誰かから受け入れてもらえるというのは悪い心地ではない。ほんの少しだけ浮足立った。
「あの」
「うん?」
桔梗さんを呼び止める。
「佐倉さんって、えっと、男が好きなんですか?」
「えっ、何それ。また面白い話?」
聞きたい聞きたい聞きたい、という気持ちが溢れんばかりに目を輝かせる桔梗さん。
後ろが刈り上げられている重たいシルエットの黒髪、眠たそうな一重の目。佐倉と同じくらい身長も高いが、口ぶりと表情が穏やかなので佐倉ほど威圧感も無い。
それでもきっとこの人は、佐倉とは別の意味で悪戯好きなんだろうなと直感した。さすが佐倉の友人だ。
「そんなことないと思うよ。今までの彼女はみーんな、びっくりするくらい美人だったから」
桔梗さんがにいと口角を釣り上げて声をひそめた時、佐倉が戻ってきた。
桔梗さんは穏やかな笑みを残して仕事の顔に戻る。スタジオでの立ち振舞いから、彼も相当やり手の立場であることが伺えた。
「これからタレント入りだけど、やっぱり二十分しか時間取れなさそう。カット数減らそうか」
桔梗さんの説明をこっそり聞いて、耳を疑う。こんなに大型のスタジオを押さえるにはほとんどが3時間単位以上。想定されているカットを収めるならリテイクやチェックも含めて2時間はかかるように思えた。
聞けば誰でも知っているような有名芸能人だから、一度や二度でOKが出るとも思えない。それも初めて撮影するのであれば、本人との雰囲気作りも難しい。
「いや、いい。そのつもりで準備した」
あっさりと口にする佐倉に、思わず振り返ってしまった。強がりでもなんでもなく、表情は至って普通だった。いつも敬語だから、桔梗さんに対してそうではないのが新鮮だ。
「さすが。助かるよ」
「あっちじゃ急遽決まった撮影で15分しかもらえない、なんて当たり前だったからな」
どっちにしろ時間をかければかけるほど女性は疲れて良い表情させられないから、と佐倉はまるで息を吐くように言った。
プロたる所以の仕事の在り方に、しばし俺は呆然としてしまう。辺りを見回す。改めてここには、当たり前だがその道のプロフェッショナルが集っている。よく見れば気のしれたスタッフ同士で談笑する中にも一線奔ったような緊張を感じ取って、胸の底がざわめいた。
「イツキくん」
ちょいちょい、と掌を上にして佐倉から手招きされた。犬みたいで癪に障る。
「君は余計なことをしなくて良いですから。言われたことだけやってください」
指の先に力が篭ったことを見透かされたようで、ドキリとする。
「今この場で、ズブの素人の君ができることはわかりますか?」
「……うーん……」
モデル入りの直前、セッティングはほぼ終わっている。荷物を動かしたりコーヒーを淹れたりする、雑用の役目はもう見当たらなかった。あとはせめて勉強するために眺めることくらいじゃないかと思っていると、佐倉が笑う。
「ライティングの調整が少し押しているみたいなんです。……駄犬でも、女性のご機嫌くらい取れるでしょう?」
訳が解らず、ぽかんと口を間抜けに開け放す。
佐倉は指先で空中にくるりと円を書いた。回れ右、の指示。完璧な笑顔のまま口元だけが突き放すように「行け」と動いた。
――
「ねえ、私の顔に何かついてる?」
「あ、いえ、何も」
「……きみ、本当に佐倉さんのアシスタントなの?」
「どうやらそうみたいっす」
「何それ、おかしい」
くすくすと笑う、26歳の彼女。今や若い男女の中で名前を知らない者はいないだろう。
片桐 遊菓 は女子高校生の頃から全国スカウトコンテスト最優秀賞をきっかけに火がつき、モデルやドラマ活動に引っ張りだこだった。彼女が女性誌で身につけた服やアクセサリーは飛ぶように売れる。
今日の撮影は、新発売のスマートフォンの広告。スタイリッシュなデザインの持つ新鮮な空気を彼女が纏う。
少し意地悪できつそうな目つきが堪らないなと思いながら、見とれていた。
最初はスタッフでも何でもない俺が楽屋を訪れたことで不満や不信感を持っていたが、俺が煮え切らない返答をする度に空気が緩んだ。不本意ながら。
もっともそれは、俺を馬鹿にする笑いに他ならないのだが。
「ねえ、紅茶飲みたいんだけど」
「あ、ここに」
「そんな砂糖だらけの代物、飲めないわよ」
「でもティーバッグが無いんですよね。塩で相殺するしか……」
「そういう意味で言ってんじゃない。なんなの、きみ」
鈴の転がるような笑い声だった。顔が驚くほど小さい。俺は唇の端を引きつらせながら、彼女の我侭や愚痴話に耐えていた。
「ねえ、まだかしら」
「もうちょっと、です。調整が押してるみたいで」
「あの佐倉さんに撮ってもらえるなんて、夢みたい。待ちきれないわ」
「そんなに前から知ってたんですか?」
「一度ね。私、帰国子女なの。向こうでも有名だったわ」
アシスタントなのにそんなことも知らないのか、と驚きと憐憫を含んだような視線で見られることにはもう慣れた。
「でも佐倉さん、コマーシャル・フォトは撮らない主義の人かと思ってたわ。だから諦めてたのに」
コマーシャル・フォト。それは今回のように広告や宣伝など、商業として撮影されるものを言う。佐倉はこれまでそちらの世界には顔を出さず、アーティスト性の評価される写真を独自に撮影してきたことになる。
「ポリシーが変わったのかしらね。それかお金が必要になったとか?……あの人に限ってそんなことはないわね」
片桐遊菓が肩をすくめた。俺は脳裏に600万円分のカメラを思い描いて、思考が停止する。まさかそんなことは、と彼女の言葉にかぶせるつもりで心の中で呟いた。
しばらくして彼女を呼びに桔梗さんがやって来た。スタジオの準備ができたらしい。
待ちわびた瞬間に、嬉々として部屋の外へと出ていく。もちろん俺や淹れたばかりの紅茶には興味を示さずに。わかっていたことだけれど。
「小林くんって、人たらしだよね」
「え?」
彼女の後を追ってだらだらとスタジオに戻ろうとする俺に、桔梗さんが言った。
「頭からっぽそうだけど、人の懐に飛び込むのが上手いんだな。片桐遊菓が格下の他人とまともに話してるの、初めて見たよ」
「……頭からっぽは、余計じゃないっすか?」
――
ひとたび撮影が始まれば、緊張していた空気はさらに張り詰めて、凍った。
それは片桐遊菓と佐倉創介が生み出している特異な空間だった。我侭だった彼女はどこへやら、カメラの前に立つとその細く美しい身体を惜しげなく晒して、ポーズを取る。佐倉がシャッターを切る。二人の間に、言葉はあまり多く無い。
時折佐倉が「うん、その表情のままで」や「目線外してください」など淡々と言う声が響く。たったそれだけのことなのに、撮影チェックの画面を見る度に桔梗さんを始め、スタッフは声にならないため息を漏らした。彼の生み出す絵の全てが完璧で、斬新だった。
現場で俺にできることは、何もなかった。ただその様子を居心地悪く眺めているだけ。撮影は本当に20分きっちりで終了した。
「佐倉さん、お疲れ様ですーっ」
キリッとしていた表情がたちまちふにゃふにゃになって、片桐遊菓は佐倉に駆け寄った。これは男ならたまらないだろうなと生唾を飲む。
佐倉が持ち込んだライトのスタンドを畳みながら、俺は視線だけをそちらに向ける。こちらからだと佐倉は後ろ姿で、表情も伺えない。
どうやら会釈をしていることだけは解った。
「時間、大丈夫ですか?早く着替えないと……」
「そんなの、全然良いんです。ねえそれより今夜空いてませんか?お食事でも」
俺はぎょっとして二人に釘付けになる。
女優からのお誘いなんてと思ったが、周囲のスタッフは誰も気にもとめず黙々と作業をしていた。よくあることなのだろうか。正直、片桐遊菓と食事なんて、性格はともかく彼女の外見だけでも堪能できるのは羨ましい。
「嬉しいお誘いですが、今日は夜も打ち合わせが入っているんですよ」
嘘だろ断るのかよ、と佐倉にツッコミを入れそうになった。
途端、俺の視界が真っ暗になる。すれ違いざまに桔梗さんが俺の目線あたり全体に腕をひっかけるようにして覆ったのだった。
「はいはい、見ない見ない。女優じゃなくても、俺が小林くんに飯おごってやるから、すねないの」
「ちょっ……!?」
大人の気遣いと言うところだろうか。俺は無理矢理、顔をそむけさせられる。どうしても気になって、耳を澄ませた。
「それじゃあ、夜中はどうですか?わたし、明日のロケに備えて東京駅前でホテルを取っていて、そこのバーがおすすめなんです」
これはもう、どぎまぎするなという方が無理である。佐倉が羨ましくて仕方無かった。お願いします、とまであの片桐遊菓に食い下がられている。
でも俺は心のどこかで、佐倉が断ると予想していた。
「……わかりました」
だから佐倉の返事が聞こえてきた時、俺はしばらく、桔梗さんの冗談に返す言葉が見つからなくなってしまっていた。
佐倉創介は潔癖症。滅多にプライベートには人を立ち入らせない。俺にとってそれは、受け入れてもらえたという大切な「特別感」だったのだと、後から思い知る。
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