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10-ヨアケマエ ※R-18
「絵に描いたような酔っ払いですね。駄犬の鑑だ」
聞き慣れた声が、降ってくる。
鉛のように重たい瞼をあけた。灰色の雲に滲む月を背に、佐倉の姿が見える。
一瞬空間が歪んだのかと思ったが、俺がベンチで仰向けになっているだけだと気づいた。この寒い中、眠ってしまっていたらしい。
「あれ、なんで佐倉が……」
「勝手に嫉妬して呼び出しておいて、それを俺に聞きますか」
佐倉は上品なベージュのチェスターコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ベンチに腰を下ろした。呆れたような溜息もついてくる。
俺はまだ酒が残ってくらくらする頭で、徐々に経緯を思い出し始めていた。
「あ、あれはそういう意味で言ったんじゃない。ちょっとムカついたから」
「主人に腹を立てるとは、とんだ過信ですね」
「お前が考えてることを知る権利ぐらいあるだろ!職場だって一緒なんだから」
感情のコントロールがまだ上手くできなくて、思わず声が大きくなる。佐倉は、おや、とでも言いたげに少しだけ目を見開いた。
「俺をそばで働かせるのは、借金のためだってのはわかってる。タダで使えるもんな。でも、お前の仕事なら、タダでも手伝いたいって言うやつが大勢いるだろ」
「そうですね」
佐倉が悪びれずに認めた。コートの裾から伸びる長い足が組まれていて、所作全てに余裕が見える。いっぱいいっぱいなのはいつも俺ばかりで悔しい。
「アシスタントとして優秀なやつもいるし、なんなら片桐遊菓みたいに可愛い女だって……」
「まっとうで優秀な人間を差し置いて、のらりくらりと親の金でくだらない大学生活を謳歌して何も学ばず、カメラのカの字すら知らない、可愛げの欠片もない自分が選ばれている不可解な事実に対して、劣等感に苛まれていると」
佐倉がつまらなさそうに、淡々と言った。俺は言葉に詰まる。
「自分の存在意義を見失いそうだからと言って、俺に尋ねるなんてどこまでも愚かですね。なんで?どうして?と聞けば親切な説明が当たり前に返ってくるのは、幼稚園児までですよ」
「……どうせ俺は幼稚園児以下だよ」
「向上心と学習意欲があるだけ、幼稚園児の方がまだマシな気もしますが」
ああ、どうしたってこんな奴に電話なんてかけてしまったんだろう。不安と疑問で揺らいでいた心が、容赦無く突き崩されていくようだ。
自業自得だ。
本当は焦っていたなんて。
佐倉の言われるがままに嫌々仕事を手伝って、どうすれば楽にできるかだけを考えていたのは他でもない自分だ。それが今日になって、プロフェッショナルたちが集う場所に投入されて初めて、見失った自分の未来に恐れを抱くなんて。
目の前にいる、才能と自信に満ち溢れた男には口が裂けても言えない。
「借金ならちゃんと払う。だから、俺は別のアルバイトを見つけてそれで……」
「イツキくんの所有者は俺です。君に決める権利は無い」
「お、お前にとってもそっちの方が好都合だろっ!これから仕事もどんどん増えるし、人も集まってくるじゃんか」
カチリ、と音がする。佐倉が煙草に火をつけた。手で口を覆うような格好で吸って、ゆっくりと煙を吐き出す。
「面白いから」
「え?」
「俺がイツキくんを傍に置いている理由です。好奇心をくすぐるものを囲っておきたいと言うのは、芸術家として、そんなにおかしいことですか?」
「……馬鹿にしてるだろ、それは」
「それ以外のことでろくに役に立てないんだから、仕方無いでしょう」
佐倉が口元をつり上げて笑った。
そんな月並みなことを説明させるために、わざわざ呼び出されたなんて。お仕置きですかね。
佐倉の表情は変わらないし、煙草を持っていない左手はまだポケットの中だ。動く気配も無いのだが、お仕置きという不穏な言葉に俺はぞくりと寒気を感じる。
「か、片桐遊菓は?置いてきて良かったのかよ?」
「引き剥がしておいて、何を今更」
「今から戻るのか?」
「いえ、きっともうホテルの部屋で寝ていると思います」
何気なく吐かれたその言葉に、なんだかとてつもない色気を感じて頬が赤くなった。
ふと、佐倉の元彼女たちはみんな美人だったという、桔梗さんの話を思い出した。据え膳食わぬは何とやら、思い切り邪魔をしてしまったことは男として多少申し訳無さを感じてしまう。
「クライアントかつ国民的モデルに嫉妬とは、イツキくんも怖いもの知らずですねえ」
「だーかーらー、そう言うんじゃねえのっ」
このままこいつと言い合っていても、何も解決しないと悟る。佐倉は何も言わず、携帯灰皿に吸い終わった煙草を押し付けていた。
「俺、もう帰るから。邪魔して悪かったな」
ベンチから立ち上がる。遊歩道に右足を踏み出そうとすると、突然腕を掴まれた。声を上げる暇もなく、引き寄せられる。
バランスを崩すように倒れ込んで、俺は佐倉の膝の間に座るような格好になってしまった。
「ちょっ、何して……」
「片桐さんは君と違って、美しい上に頭の良い女性でしたよ。俺を酔わせようって作戦が見え見えだったので、逆に潰れてもらうのに苦労しました」
足をばたつかせても離してくれないから、振り向いて佐倉を見る。
表情はいつもと変わらない、気の強そうな笑顔だ。掴まれている腕だけが熱を持っていることに気がつく。俺の頭を一抹の不安がよぎる。
「俺も男なので。君に邪魔されたせいで、それなりに溜まってるんですよね。相手してもらえますか?」
あ、こいつ、酔ってる。
にっこりと子どものように笑みを深くする佐倉を見て、俺は愕然としたのだった。
――
「ふっ……や、やだ……!」
「どうしました?」
「これ、やだっ」
「何が嫌なんです?」
力の入らない身体で、首をふるふる振って訴える。佐倉は答える代わりにべろりと俺の耳の縁を舐めた。また情けない声を上げてしまう。
俺は佐倉に引き寄せられたまま、彼の足の間に座るようにして後ろから抱きすくめられていた。両腕はしっかりとホールドされていて逃げられない。首筋や耳など弱いところばかり噛んだり舐められたりする刺激に、声を抑えて耐えることしかできなかった。
佐倉の顔が見えないから、次に何をされるのかがわからない。自然と身構える身体は余計に敏感になる。
「いつも見るなと怒るから、こういう体勢の方が君のためかと思って」
「そうじゃなくて、人……」
「人?」
「ま、周りの人に見られる……っ」
佐倉が顔をあげて、ああ、と面白くなさそうに呟いた。
深夜の公園とは言え、人通りが全く無いわけじゃない。こんな姿を誰かに見つかってしまったらと思うと、気が気で無かった。
業界だけとは言え、今や佐倉は有名人だ。彼にとっても他人から目撃されることは避けたいはずだ。
ようやく解放されるのかと安堵していると、後ろからぐいっと顎を掴まれる。よく見てみろとでも言いたげな仕草。
「こういう経験も無いからでしょうけれど、大丈夫ですよ。ほら、向こうのベンチが見えますか?」
佐倉に促されるようにして目を凝らす。遊歩道を二つ挟んで向こう側のベンチには男女と思わしき二人分の影があった。他人を見留たことにまず心臓が跳ねるが、その影が明らかに絡み合うように動いていて俺は度肝を抜かれる。
よく見れば、周囲にカップルは彼らだけではない。
つまり、この時間のこの公園は、そういうことをするのに打ってつけと言うことなのだ。
「……とは言えこちらは男同士なので、目立ちますね。こうしましょうか」
ばさり、と布の音が耳に飛び込む。元々暗かった視界があっと言う間に真っ暗になった。
頭からすっぽり覆うようにして、佐倉が自分のコートを俺だけに被せたのだった。俺からは辺りが何も見えなくなった代わりに、周囲からは俺が男であることが気づかれにくくなる。
「でもこれじゃあ、お仕置きになりませんね。ちょっと失礼」
「ふわあああぁっ!?」
するり、と服の隙間から佐倉の手が侵入する。冷たい感覚に思わず叫んでしまった。
「えっ、えっ、な、何?」
「イツキくん、思ったより痩せてますね。大丈夫ですか?」
「お前の仕事がハードすぎんだよ……!」
頭が混乱する中、せめてもの抵抗のつもりで悪口を吐く。佐倉はくすくすと笑うばかりだった。
からかわれただけかと思いきや、その手は上へと滑らされる。冷たさにはようやく慣れたものの、くすぐったい感覚に身をよじった。
「ちょ、ちょっと待て、お前まさか……っ」
「動かないでください。爪で傷つけてしまうと痛いですよ」
「やっ、やだ、やだやだやだ!それだけはやだ!」
「あ。あった」
「ひゃうっ!?」
あろうことか、つう、と乳首の周りを撫でてから「ほら」とも言うように、親指と人差し指できゅっとつままれる。
決して痛みを感じるような強さでは無いのだが、俺はあられもない声をあげて身体をはねさせた。佐倉の左手がしっかりと俺の左腕を掴んでいるせいで、逃げることも叶わない。
「あり、えね……本当お前、何やって……!?」
「寒いから、硬くなってますね」
「う……や、あっ」
くりくりとこねるように弄られて、腰が砕けそうになる。そんなところ今まで触られたことも、触ったこともないから、気持ち良いはずがない。くすぐったいのと少し痛いだけ。
ただそれだけであったはずなのに、徐々に変な気分と甘い電流が奔るような感覚に変わってきて、俺は身震いする。
「さすがに大きな声を出せば、男だと気づかれてしまうと思いますが」
まるで他人事のような佐倉の声。
こんな情けない姿、見られるわけにはいかない。慌てて、掴まれていない方の右手で口元を覆った。
「それともイツキくんは、見られるのが好きなんですか?」
俺の拙い努力をあざ笑うかのように、胸の先をくっと押し潰すようにされた。くぐもった声が指と指の間から漏れる。
妙な感覚と羞恥に耐えきれなくなって、コートの中で俺は涙を滲ませた。
「そんなわけ、ない、だろっ……」
「じゃあ、こんなになっているのはなぜですか?」
「あ、あっ!」
胸の刺激に耐えるのに精一杯で、まったく意識をしていなかった。そろりと動いた佐倉の手が、俺の股間をジーンズの上から撫でる。びくびくと腰が動いてしまうのが自分でもわかった。
「外で肌を顕にして、勃ててるなんて。変態の素質は十分ですね」
「やっ、さ、わんな……!」
「ちゃんと我慢しないと、恥ずかしい染みを見られながら帰ることになってしまいますよ」
佐倉の右手は相変わらず俺の乳首を捏ねくりまわしていて、左手は勃ち上がった先っぽをぐりぐりと押しつぶす。ピンポイントで二つの刺激を与えられれば、頭がおかしくなりそうだった。
じわり、と先走りがほんの少しジーンズに染みてくる。
「あぅ……あっ、やあ」
「これ、直接触ったらどうなるんですかね」
耳元に唇を寄せられて、ぞくぞくぞくっと寒気が駆け上がった。体温を感じられる手で、直接。ごくりと唾を飲み込む。身体は期待してしまっている、そんな事実に目眩がしそうだった。
「……期待したって嘘ですよ。ここじゃなんの準備もできませんし」
「期待なんか、してな……あっ、あっ、あああっ」
しばらく弄ばれて、酸素も酔いも全てが限界に達しそうなところで佐倉の手がぱっと離れた。同時に左腕も解放される。
だが多少なりとも快感にひたっていた身体はうまく動かないようで、背中を思い切り佐倉に預けるような形になった。
「ほら、ね。面白いでしょう」
「……っ……」
「あんなにキャンキャン吠えていた馬鹿な犬が、すっかり大人しくなるんですから」
佐倉によって、俺を覆っていたコートが剥がされる。切れかかっている外灯の明るさが眩しい。
「このコート、君の一月分の給料よりよっぽど高いんですが、涎つけてないでしょうね」
「つ、けてねえよ!馬鹿っ」
「そうですか」
佐倉が無理矢理、俺の顔を自分の方へ向かせる。吐息にはほのかにアルコールの匂いが漂った。ウイスキーか、ブランデーだ。
「どうします?このまま女の子みたいに弄られ続けるか、お詫びのキスにするか」
「なんでその二択なんだよっ……」
「それ以上の奉仕が今の君にできるんですか?」
楽しそうな佐倉。酔っ払うと表情にこそ出ないものの、どことなく子どものようになることを思い知った。意地悪でずる賢い大人にこそ、一番怖い酔い方だ。
俺は唇を噛んで、恥ずかしさに耐える。
「キ、キスで良い……」
「お詫びって言いましたよね。そんな言い方じゃ駄目です」
佐倉の口元が動く。あえて音を乗せないそれ。
「ね だ れ」という形に変わるのを見て、俺は震えながら目を閉じた。
酒が回っている上に酸素まで制限されてもう頭がおかしくなっていた。この時間が早く終わって欲しくて堪らない。
「キス、で許してください。お願い……します」
唇に当たる柔らかい感触に、口付けられていることを理解したのは、恐る恐る目を開けて少ししてから。
舌に舌を絡め取られて、つい身体を佐倉の方に向けて、肩を押し返そうとする。けれども余計に引き寄せられて、正面から抱き合うような格好になってしまった。
「ふ、あ……」
唇の合間から漏れた、ぴちゃという唾液の絡まる音。耳にひどく大げさに聞こえて、俺は頬が熱くなるのを感じた。
何度か角度を変えては唇を食まれて、口の中を舐めまわされて、かすかに感じる酒の味。そんな口づけに舌先が震えた。
「とろっとろな顔して、もう吠えることもできませんね。犬のくせにどうするつもりなんですか?」
舌を絡ませたままゆっくりと唇は離れる。
行為には似つかない優しい手つきで、前髪を撫でられるとその心地よさに俺は目を細めてしまいそうになった。
いっそこのまま眠って、全てを忘れてしまいたい。
「わ、かんな……どうしよ、俺……。佐倉ぁ……」
蕩けきって馬鹿になった頭で、縋るように泣く。佐倉は満足そうに笑って、俺の後頭部に手を寄せて、自分の肩口にそっと引き寄せた。
アルコールが脳にぐわんぐわんと響いて、俺が無様に倒れたのはその数秒後のことだった。しかも、ちょっとだけ吐いた。
――
「……と言うことで、回収完了。やっぱり唯が焚き付けたのか」
呼んだタクシーを待つ間、佐倉は電話をしていた。口ぶりから相手が桔梗さんであることが予想できる。今のところ唯一佐倉が敬語を使わない相手で、話を聞いているのはどことなく新鮮だった。
『経験無い上にお前が思ってるより数倍ポンコツなんだから、あんまり遊んでやるなよ』
そこで通話は終わった。なんとなく気まずくて、佐倉と目を合わせることはできない。
煙草を吸っている佐倉とどう話すべきかと考えあぐねていると、今度は俺のスマートフォンが震えた。
桔梗さんからのメッセージだった。
「桔梗さんだ。……写真?」
通知画面からメッセージを開く。そこには写真が一枚添付されていた。
それはホテルのベッドの上に座って、自撮りをしている桔梗さんだった。
いい歳した成人男性とは思えない、顎ピースやウインクなどの小技にまるで女子高生かよとツッコミを入れたくなった。背景に写っている調度品から高級ホテルであることが伺える。桔梗さんの服は、今日着ていたスーツと同じだ。
「あれ?桔梗さん、家に帰るって言ってたのに……」
写真の右上の隅に、女物のワンピースの裾が映っているのに気がついた。特徴のあるダマスク柄のそれ。
片桐遊菓が撮影前に着ていたものだった。
「えっ?」
震える指で、画面をスクロールする。
『俺がちゃんと満足させてあげました(ハート)』
桔梗さんのメッセージが、添えられていた。
「えええええええっ!?」
スマートフォンを取り落としそうになる。佐倉が画面をちらりと覗きこんで、溜息をついた。
「あいつはそういう男ですよ。ずっと前から」
結局美味しいところをかっさらっていくのはいつも桔梗さん。食えない男の本性を垣間見た気がした。
なんと返すべきか迷った末に黙って画面をクローズした俺に、立ち上がった佐倉が俺に何かを投げてよこす。それは一冊の使い込まれた本だった。
「通り道だったので、家に寄って取ってきました」
言われるがままに、ぱらぱらとめくる。それは写真撮影、ライティングの教本だった。俺は佐倉を見上げる。
「俺が学生の時に使っていたものです。読んだところで現場経験には遠く及びませんが、無いよりマシでしょう」
「あ……ありがとう……」
そう言って、佐倉はいつの間にか到着していたタクシーへと向かう。俺は慌ててその後を追いかける。
冬の風が吹きつける。佐倉から渡された本を、俺は両手で大切に抱えた。
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