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11-新しいセンチメンタリィ
「よお、イツキ。……なんか痩せた?」
開口一番に、親友の山田が俺に言った。
「そう言うお前は、なんか太った?」
「結婚式場のまかないって、案外美味いんだよなあ」
山田が灰色のケーブルセーターの腹あたりをさすってみせた。顎には薄く髭も生えていて、どうにも業界人っぽさがちょっとだけ滲んでいる。山田のくせに。
「何食う?」
「ドリア。温玉つけようか迷うなー……」
「俺、今日給料日だったからおごってやんべ」
山田が柄にもなく得意げに言うもんだから、俺はすぐさま口を開いた。
「すみませーん、ドリアキャンセルで。ロイヤルリブステーキ100g増量、ライスBセットにコーンスープつけて十穀米に変更してください」
「待って」
しばらく会っていなかった山田と、池袋で落ち合ったのだった。山田が音響エンジニアのアルバイトをしている結婚式場の近くにある、チェーン店のファミリーレストランで。
飯でも食おうと決まったのは、ただの成り行きだった。雑談のメッセージをやりとりしている途中で、どちらからともなく「今どこ?」「代々木」「じゃあ池袋で」と、たった三言のやりとりで澄んだ。
そしてよく考えもせずに目についた店に入り、相変わらずグダグダな時間を過ごしている。佐倉が抱えていた大きな仕事が一つ終わって、束の間の休息だった。
「イツキ、食うには困ってねえって言ってなかったっけ?」
「そうだけど。借金返してるから、自由に金使えるほどの余裕は無いんだ」
「んなこと言っても、あの佐倉創介のアシスタントだろ?」
信じられねえよ、と驚きと感嘆が入り混じったような顔で山田はチキン南蛮御膳をつついた。
佐倉の元で働くことになった経緯は、最近になってようやく打ち明けた。友人がある日突然借金まみれになったなんて、どんな反応をされるだろうと気が重かったのだが、さすがは頭からっぽの山田だった。
「やっぱ女優とかに会えるもんなの?」
山田がニヤニヤしながら言う。
「あー……うん。まあ」
「うっそ!?誰、誰?」
「片桐遊菓とか、あと最近は火曜のドラマやってる……誰だったっけな?」
正直、佐倉が撮影する芸能人は多忙を極めることが多く、与えられた時間も短い。美貌をゆっくり拝む暇なんてほとんど無くて、むしろ時間内にきちんと佐倉が仕事を終えるための準備に集中せざるをえず、胃が痛かった。
汗水たらして仕事を終えれば、美人はいつも佐倉や桔梗さんのようなやり手に夢中なのだから報われない。
頭からっぽの山田は、そんな俺の気も知らず、奥歯を噛みしめるように羨ましがっている。
「くぅー!良いなあ。俺だったら金もらえなくても、喜んでアシスタントするわ」
「山田だって綺麗な女ばっか見れる職場じゃん。結婚式場だろ」
「裏方が会える綺麗な女なんて、主役の花嫁ぐらいだぞ。新婚に手を出せと!?」
いやそれも逆に興奮するのか、と真剣に考え込み始めた山田を無視して、俺はライスのおかわりをオーダーした。
二人でたらふく飯を食い終えて一息つき、俺はソファにゆったりと背を預ける。途端に眠気が押し寄せた。
「イツキ、そんなにいっぱい食うのになんで痩せてんの?」
「仕事のスケジュールがキツすぎて、食いそびれてばっかなんだよ。食える時に食って、寝られる時に寝ないと」
「ふうん。現場のリアルは想像を絶するって先輩言ってたけど、やっぱそんなもんだな。俺んとこはまだマシな方か」
山田がデザートメニューを吟味しながら、まるで他人事のように言った。自覚があるならそんなに食うなよと言いたくなったが、丸々としている山田はそれなりに貫禄があって良いのかもしれない。
毎晩飲み会やゲームで夜更かしをして、大学の講義が始まるギリギリまでぐっすり眠るか、ひどい時には講義もばっくれて寝ていた俺。そんな堕落した大学生活からは想像もできないくらい、ハードな毎日を送っている。
街中の撮影なら直前のロケハンも兼ねて朝5時起きもざらだし、編集作業は深夜までかかることも多い。
仕事と仕事の合間の車移動が、あんなに貴重な睡眠時間だとは思わなかった。その時間さえ、最近は写真の自主勉強で短くなりつつあるけれど。
「偉くなりゃあ、楽になると思ってたんだけどなあ。佐倉創介クラスでもあんまり寝られねえのか」
山田言われて、気づいた。確かにそうかもしれない。
朝はともかく、夜は俺が帰ってからも佐倉にしかできない作業をしているはずだし、明け方にメールが届くこともあった。移動中も俺は車で寝ているけれど、その車を運転しているのは佐倉だ。事務所兼自宅に泊まり込む時、俺は佐倉のベッドを使わせてもらっている。
俺はもたれていた身体をがばっと起こして、山田を見つめた。山田は若干表情を引きつらせて「な、なに?」と呟く。
「えっ、あいつ、寝るの?」
「いや俺に聞くなよ!人間なんだからそりゃ、寝るだろ」
「寝てるところ見たことない……」
「マジで?」
これには山田も戸惑ったのか、視線を泳がせていた。思い返せば返すほどに、俺は佐倉の寝ているところを目撃したことがなかった。過ごす時間はこんなにも多いと言うのに。
「んー……まあ、ショートスリーパーってやつじゃねえの?天才には多いらしいぜ」
世の中にはごく稀に、短時間の睡眠でも平気な人間がいる。
なるほどそういうものかと、俺は巡り巡る思考に終止符を打った。
「俺、マロンパフェにしよ。すみませーん」
店員を呼び止めた山田の声に、すかさず被せる。
「あっ、俺もマロンパフェとビッグティラミスとジェラート、カフェモカ付きで」
「待って」
:::
スペアキーを、鍵口に差し入れた。今日の約束は夜の19時からだ。
山田がアルバイトに行ってしまって特にすることも無かった俺は、少し早めに佐倉の自宅に到着していた。
昨日の撮影中にアシスタントをして得た反省を、どうせなら復習しておきたかった。ライトのポールの調節が上手くいかなかったのだ。
(最初はそんな余裕も無かったし、ちょっとずつ身体が慣れてんのかもなー……)
山田との会話を思い出し、そんなことを考えた。
ダッフルコートを脱ぎ、首元のマフラーを解きながら廊下を進む。
いつもなら部屋に入る前に「コーヒー」や「そこの箱一式、宅配便に」などドライな指示が飛んでくるのだが、今日はそれが無い。
集中しているのだろうかと思って、黙って部屋に入る。佐倉のデスクスペースの扉は開いたままだった。
「佐倉ぁ、昨日使ってたストロボとアンブレラのスタンドなんだけどー……」
めずらしくデスクの椅子ではなく、ソファに座っていた佐倉に話しかける。
後ろ姿からわかる佐倉の両耳には、以前値段を調べたら恐ろしく高かったカナル型のイヤフォンが繋がっていることに気づく。音楽を聴いているようだった。
恐る恐る正面に回り込んでいると、佐倉は腕組みをしたまま目を閉じていた。ほんの少しオレンジみがかかった間接照明が、意外と長い彼の睫毛の影を、頬に落としている。
服装は黒のハイネックに細身で濃灰のボトムスだから、きっと日中は出かけていたのだろう。
俺は小さく息を飲んだ。
「……寝てる?」
佐倉が眠っているのを見るのは、これが初めてだった。
とりあえず手に持っていたコートとマフラーを適当にハンガーにかけて、荷物を置く。反射的に、できるだけそっと。優しさと言うよりは、ライオンや虎など大きいネコ科の動物が寝ているのを起こさないようにという感情の方が近い。
イヤフォンの先は、ソファに投げ出された小型の音楽プレーヤーに繋がれていた。かなり大きな音量で聴いているのか、ノスタルジックな弦楽器と歌声が外に漏れている。
よくこんな音量で眠れるものだと思ってプレーヤーに視線を落とせば、ディスプレイには「Toe - グッド・バイ」と映し出されていた。
(えーと……今日は外国と電話で打ち合わせがあるんだっけ。何時だ?あと一時間くらい……?)
必死で頭の中のスケジュールを思い出す。ひとまず今すぐ起こす必要が無いことがわかって、安堵した。
わずかな寝息に肩が上下している。首を少し傾けるようにしている佐倉。
さすがにこのところの激務は辛かったのだろうか。こんな形でないと眠れないなんて、それはつまりアシスタントだけでは仕事が片付けられないほど頼りないからではないか。
ざまあみろと思う反面、ほんの少しだけ、みぞおちあたりが痛んだ。
「過労で倒れて、俺が看病するなんてごめんだからなー」
遮音性の高いイヤフォンをつけていることを良いことに、嫌味ったらしく呟いてみる。じっと見ると、整った顔立ちでいけすかない。片桐遊菓が惚れるわけだ。
中身はとんでもない暴君だと言うのに。
ふと、佐倉の目の下あたりの色が暗く落ち込んでいることに気がついた。照明の影だろうか、クマだろうか。おいおいちゃんと横になって寝てくれよと思いながら、確かめるために顔を覗き込む。
起きる気配が無いから、油断していた。
顔を近づけた瞬間、ぱちり、と佐倉が目を覚ました。
「あっ」
咄嗟に動くことができなくて、見つめ合ったはコンマ数秒。
声を出そうとした時には、佐倉は俺の後頭部に手を回して、そのまま引き寄せたのだった。
「ん、むっ……!?」
あの佐倉の前で、注意を怠っていた自分を恨む。
あっと言う間に唇を奪われて、佐倉の舌が俺の歯列をなぞった。
さっきまで眠っていたせいか、髪の毛を掴む手も、やらしく這い回る舌も、じわっと熱を帯びている。
口の端からよだれが垂れたことを認識して、寒気がした。
「ふぁ……や、め……っ!」
俺が暴れるせいで佐倉のイヤフォンが外れる。音楽が一層大きく、部屋の中の響く。それでもぴちゃぴちゃと漏れてしまう水音を防ぐには事足りなかった。
ようやく少し押しのけることができたと思いきや、角度を変えて、また後ろからぐいっと乱暴に力を入れられてより深く口付けられる。また頭がおかしくなりそうだ。
「……失礼、寝ぼけていました」
「う、嘘つけ!馬鹿!」
ようやく解放されたのは、呼吸困難で視界がくらくらし始めた頃だった。一瞬でも寝不足が不憫だと思った自分が情けない。
手の甲で口の端を思い切り拭う。
「マジで、借金返したらセクハラで訴えるからな……!」
「へえ。それなりに興奮しておいて、説得力は皆無ですね」
「だーれーがー!いつ!興奮したんだよっ!」
「鏡、見たらどうです?」
しれっと言うと、佐倉はがしがしと髪の毛を掻きながら立ち上がる。ふわあと欠伸をしてデスクに向かうのを横目に、俺は半信半疑で部屋の片隅にあった姿見鏡を見た。
「えっ」
鏡の中の自分と目が合う。指先が、ぴくりと動く。
信じたくは無かった。
そこに映っていたのは、明らかに何かがあったと連想させる乱れた黒髪。目は涙で滲んでいて赤く、頬は部屋の暖房のせいもあってのぼせたように上気していた。
もしかしてもしかしなくても、いやらしい雰囲気が鏡越しに伝わってきて、俺は死にたくなった。
俺よりも遥かに優位に立っている男にねじ伏せられているのを客観的に見つめると、生物としては苦しいものがある。
「イツキくん」
「んだよ!?」
「打ち合わせの前に昨日の写真をチェックしたいんですが、レタッチの準備してもらえますか」
そっちのパソコンで、と佐倉は俺の方を見ずに指先だけを動かして指示する。いつも通りの傲慢な仕草。逆らえるはずもなかった。
俺は色々な文句を腹の奥に飲み込む。苛立ちを抑えるくらい、腹一杯なことだけが救いだった。
(……興奮?)
そう言えば、山田の口からもそんな言葉が出ていたなと思い出す。本来ならそれは、女性に向けられるべき本能だ。
なんとなく流れで、自分の下半身に目をやった。量販店で買った安い紺色のチノパン。現場で履き古したせいで、膝のあたりが白く薄くなっている。
そろそろ買い換えなきゃな、なんてそんなことを考えたかったわけではない。
俺、最後に、女に興奮したのっていつだろう。
受け入れたくない現実。理想の相反。理解が追いつかない内にぞぞぞ、と得体の知れない悪寒と絶望が、脳裏を駆け巡った。
:::
「イツキくん、お疲れ様!」
背後から差し出された緑茶の缶に、びくっと身体を震わせる。
今日も朝からスタジオで撮影だと言うのに、上の空になってしまっている自分がいた。佐倉は幸い、別室でクライアントと打ち合わせに入っている。
「あ、ありがとう、ございます」
缶を受け取って、プルタブを開けた。渡してくれたのはメイクのアシスタントをしている女性だった。たまに仕事で一緒になるから、名前は知らないけれど顔は覚えている。
俺よりも少し年上で、裏方にしておくには勿体ないくらいの顔立ちと、それを惜しげもなく助長する明るい笑顔。
少なからず現場の男どもの癒やしになっているのは間違い無いが、俺は彼女の隣にいてもまだ悶々としたままだった。
「どうしたの?元気ないねえ」
「はあ……」
「私でよければ、何か手伝おうか?」
「ああ、じゃあ、あのっ!」
悩みすぎて逆に、脳みそがダメな方向にクリアになっていたのかもしれない。俺は正面から彼女を見つめて、勢い良く頭を下げた。
「ちょっと俺におっぱい押し付けてみてください。試したいんです」
広いスタジオ内に響き渡るのは、破裂音に近いような乾いた音と、桔梗さんが笑い転げる声だけだった。
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