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12-ロジックと裏表
インターフォンのベルが鳴ったのは、午後8時頃だった。
打ち合わせに出ている佐倉の代わりに俺は留守番をしていた。そう言えば今日はクリーニングの宅配が来るはずだったと思い出す。俺は掃除をしていた手を止めて、玄関に向かった。
「はーい、ごくろーさ……ま……」
です、という言葉を俺は唾と一緒に飲み込んだ。
目の前に立っていたのは宅配便屋ではなく、あの美人写真家・二階堂ヨリだった。
「ここ、佐倉創介の事務所で合ってるわよね」
美人から放たれるのは鋭い視線。直感的に防衛本能が働いて、俺は煮え切らない返事をしてしまう。
気まずい沈黙。
馬鹿な俺は、それが肯定の意味になることを後から自覚した。
「あなたは誰?」
佐倉の傍では俺なんてちっぽけな存在、いくらでも霞んでしまう。そんなのはもう慣れたから動じない。
「こ、小林イツキ。佐倉のアシスタント、です」
実は五本木展で会ってるんだけどな、と余計なことは言わなかった。
「アシスタント?本当に?」
そしてこんな風に怪訝そうな顔をされるのもいつものことだ。
ただし「空き巣じゃなくて?」とまで言われたのは初めての経験で、俺は呆然としてしまった。
「あの、何か御用ですか?」
「佐倉に会いたいの」
「約束は……?」
「してないわ」
テレビや雑誌で見る度にキツそうな女だなとは思っていたが、実物も相違なかった。彼女からは、美しさに裏付けられた強さと自信を感じる。
「あ、あいにく今は外出してるんですよ」
「今日は戻るの?」
「あ、はい、多分」
「じゃあ中で待たせてもらうわ」
「えっ!?いや、それはちょっと」
このままだと押し切られてしまうんじゃないかと思った矢先、廊下の先にあるエレベーターの扉が開いた。
タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど佐倉が帰ってきたところだった。
俺と二階堂の言い合い気づいた佐倉が顔を上げる。何かを考えるように佐倉は俺たちに一人ずつ視線を合わせた。
「……イツキくん、来週のスケジュール調整のことなんですけど、さっき変更があって」
そして佐倉の出した答えは、完全無視だった。二階堂の隣をすっと通り過ぎてそのまま玄関に入ろうとする。俺は唖然としてしまった。
「せっかくの来客を無視するなんて、マナーがなってないんじゃない?」
二階堂の強気な言葉に佐倉は振り返る。予想でもしていたように、にっこりと笑った。
「それはそれは。社会人にもなってアポ無しだなんて無礼な訪問を受けるとは思っていなかったので、つい」
「私のマネージャーが何度も電話したのに、相手にもしなかったのはあなたじゃない」
「その可愛らしいお顔についている口は飾りですか?今時、幼稚園児でも自分の要望は自分で伝えられるはずですが」
答える代わりに、二階堂はヒールの爪先で扉を蹴るようにして踏み出した。高そうな革張りに傷がつくのを気にも留めない。
その様子を見て、佐倉が言った。
「……忙しいので、手短かにどうぞ」
:::
二階堂を作業部屋に迎え入れソファに座ってもらう。佐倉と談笑しているように見えるが、そこはかとなく漂うただならない空気に、コーヒーを出す手さえ微妙に震えた。
俺は席を外した方が良いだろうかと佐倉に目で合図すると、佐倉は自分の隣に視線を投げた。ここにいろということらしい。
「五本木賞、最終候補に上がっていたのは私よ。直前で割り込むなんて一体どんな手を使ったの?」
二階堂が切り出した。佐倉は一片の動揺すら見せない。
「あなたは最終候補に上がっただけで、内定ではありませんよね?審査は絶対機密かつエントリー期間終了後に行われるにも関わらず、内定に近い連絡を事前にあなたがもらっていたのだとすれば、それはそれで問題だと思いますが」
ダンッという激しい音に、気を張り詰めていた俺は肩が跳ねる。二階堂が苛立ったように、グラスの底をテーブルに叩きつけたのだった。
そして彼女はテーブルの端に積み上げられていた雑誌を一瞥する。表紙は佐倉が撮影した片桐遊菓だ。
「佐倉創介は“人"を撮らない。……オランダにいた頃のあなたは、そうじゃなかったの?」
「こちらでの仕事はSakura名義ではないもので」
「あなたみたいにプライドの高い人間が、理由も無くポリシーを捻じ曲げるなんてことはないでしょう。……五本木展の審査委員が、未来アドの最高顧問でもない限りはね」
未来アド。二階堂がおもむろに語りだしたのは、桔梗さんが所属している最大手広告代理店だった。鈍い頭をフル回転させて、二階堂の含み笑いの意味を考える。
彼女は、佐倉の受賞が八百長であると疑っているのだ。
「そんな下衆な憶測をひけらかしに、わざわざここへ?」
「否定しないのね」
「否定さえも馬鹿らしい話だったので。……時間の無駄のようですし、帰っていただいても?」
佐倉は呆れるように鼻で笑って、コーヒーに口をつけた。二人とも今は穏やかな語り口を装っているが言葉の節々から棘のような容赦ない鋭さを感じ、俺は固まる他無くなる。
「数年経てばどんな人間もそれなりに変わりますよ。被写体も変わったり、こんなポンコツをアシスタントに迎えるようになったりね」
「ポッ……!?」
突然の攻撃に、俺は言葉を失った。
「ええ。わざわざこんなボンクラそうな子を選ぶなんて、どうかしたのかと思ったわ。」
「ボッ……!?」
せっかく気配を消して嵐が過ぎ去るのを待っていたのに、流れ弾が次々飛んでくる。俺は口をぱくぱくさせながら、二人を交互に見ることしかできなかった。
しばらく探り合うような沈黙。
破ったのは、二階堂だった。
「“Kaede"」
カエデ。かえで。楓。
どういう意図を持った言葉なのか、俺にはわからない。
ただ確かなのは、その言葉を聞いた瞬間、佐倉がぴくりと眉を動かしたことだった。
「あなたが突然日本に戻ってきて、五本木展を受賞し、Sakuraの名前を捨ててまで活動して、こんなアシスタントを使っている理由よ」
こんなアシスタントと顎で示されるが、そんなことはどうでもいい。俺は佐倉のこんな表情を俺は見たことが無かった。
しかしそれは一瞬。いつもの人の小馬鹿にするような笑みにすぐ戻った。
「……驚いた。誰かを使って調べたんですね」
感嘆するようだが、その言葉の後には「わざわざ」だとか「暇なんですね」だとかの嫌味が隠されている。挑発されているにも関わらず、二階堂は勝ち誇ったように口角を上げていた。
「フェアじゃないのはお互い様でしょう。わたしはね、あなたのことが許せないのよ。わたしは14歳から全ての時間をカメラに賭けてきた。美しさや儚さとはかけ離れたつまらない存在に左右される写真家に、わたしが負けるわけにはいかないのよ」
二階堂は、挑戦的に目線を上げる。長く細い睫毛がふわりと揺れた。ゆったりと足を組み替える。
気がついたら、俺は右手を強く握りしめていた。嫌いで憎いはずの佐倉が、目の前で貶されたことで心の奥がヒリヒリした。
佐倉は何も言わずに、深い息を吐きながら立ち上がる。
「6000枚」
煙草に火をつけながら、佐倉が言った。
「6000枚、俺は同じ場所で眠らずにシャッターを切りました。持ち帰ったのは900枚。その内のたった1枚が、五本木展で選ばれた写真です」
記憶がフラッシュバックする。
佐倉創介、ホールンセ湖の雨。
あの日、観衆中の視線と驚愕をさらった奇跡の一枚。俺は今でも鮮明に思い出せる。
「評価どころか人の目にも触れさせてもらえなかった写真を含めれば、100万枚を越えます。それでも美しいかどうかを決めるのは、かけてきた時間でもプライドでも人間性でもない。心を震わせる瞬間がそんな意味の無いもので測られるなんて、それこそ酷い話ですよ」
佐倉は重たい煙をたっぷり肺に吸い込むと、まだ長さの残っているそれを灰皿へと押し付けた。ゆっくりと二階堂に歩み寄って、彼女の肩口、背もたれに手をつくようにして一気に距離を詰めた。
佐倉の額と二階堂の額がぶつかりそうな距離。二人の写真家の、鋭い視線が真正面からぶつかる。
「どうぞお引き取りを。大好きな写真を想うのなら、俺に構う時間は全て無駄だということに気づいてください」
しばらく消えそうにもない暗く重い眼光を残して、意外にもあっさり二階堂は帰っていった。
玄関まで見送って、俺は廊下の壁に背を預けたままずるずると座り込んだ。滞在時間は30分も無かったはずなのに、どっと疲れてしまった。
(……俺、完全に蚊帳の外じゃん。)
プロフェッショナル同士の会話からはじき出されるのは、今に始まったことじゃない。
でも佐倉は明らかに怒っているか、動揺していた。あの佐倉が、だ。
そんな状況において何も知らない、何もできなかったことが余計に心の疲労を助長させた。佐倉や二階堂の言う通り、俺はいつまで経ってもポンコツでボンクラなんだ。
そのままふらふらと部屋に戻ると、佐倉が手で額と目を覆うようにしてデスクチェアにもたれていた。あからさまに疲れたような態度も珍しい。
「ご、ごめんな」
「何がですか?」
「俺が、その、玄関開けちゃったから……」
佐倉がゆっくり目を開けて、俺を見た。
「どうせろくにインターホンで確認もせず、宅配便か何かだと思って出たんでしょう。そんなのは最初から想定内ですよ」
子どもの留守番以下の期待しか寄せられていないのだが、その通りでぐうの音も出ない。
「若いが故の自信は恐ろしいですね。うんざりしました」
「わ、若いったって、二階堂もお前もそんなに変わらねえじゃん」
「父親が有名な写真家で、母親は資産家の家系。容姿と頭脳にも恵まれて、与えられたもの全てを自分の力だと過信して……こんなところまで押し上げられての今でしょう」
内側では相当フラストレーションが溜まっていたのかもしれない。佐倉が何度目とも解らない溜息を吐いた。
「せっかく良いセンスを持っているのに、こんなことに時間を使うなんて愚か極まりない」
「実力はちゃんと認めてるんだな」
「実力も無ければ、玄関の時点で蹴り出してました」
この男なら本当にやりかねないなと俺は戦慄した。
聞きたいことが色々あった。でもそれは、今の俺に許されることじゃない。俺は佐倉のアシスタントで、借金まみれの犬で、センスもない、ただの大学生でしかない。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。ディスプレイを確認すると、それは桔梗さんだった。
『もしもし?』
『あー、イツキくん?今どこ?』
『事務所ですけど』
何か急な仕事の依頼だろうかと思って、俺は聞き返す。
『そっかそっか。あのね、俺、今近くで飲んでるんだけど……顔出しに寄っていい?』
『桔梗さんがここに来るんですか?』
『うん。創介に聞いてみてよ。そこにいるんでしょ』
いつもより僅かに弾んだ桔梗さんの声。
俺は言われるがままに、佐倉に尋ねた。佐倉はわかりやすくうんざりとした顔をしたが、断り文句を考えるのも面倒くさいのか、手をひらひらと振って「イツキくんの好きにどうぞ」と言い放った。
『どうだった?もう店出ちゃうところなんだけど』
社会人の先輩にせがまれたら、俺が断るなんてできるはずもない。
『あ……はい。大丈夫みたいです』
『やったあ!じゃあすぐ行くから鍵開けててねー。お土産は何がいい?日本酒?ワイン?』
『桔梗さん、酔ってますよね?』
『うんっ!』
やたらとテンションの高い桔梗さんの電話がようやく切れた。
早速鍵を開けるために部屋から出ようとする俺を、佐倉が呼び止める。
「生ビール2杯、日本酒1升瓶、ワインハーフボトルまたは焼酎ロックで2杯」
不意に並べられた言葉に、俺は振り向いた。
「それだけ飲んでも平気だった唯が酔っ払ってるんだから、相当面倒ですよ」
「……マジで?」
「迎え入れるからには、イツキくんがすべて相手してくださいね。俺は一切何もしませんから」
淡々と言い放つ佐倉。今日は予期せぬ来客に、肝を冷やされっぱなしだ。
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