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13-承認欲求モラトリアム

「こーんばーんはーっ」 インターフォンの連打に急かされて扉を開けると、ほんのり赤い顔をした桔梗さんが立っていた。酒瓶の入った紙袋を抱えている。先日感じていた大人の余裕はどこへやら、声が楽しそうに跳ねている。 これは佐倉の言う通り面倒なことになるかも、と察した頃にはもう遅い。 「ちょっとちょっと!せっかく来たのになんでそんな浮かない表情?」 「いやっあの、大きな声出されると近所迷惑なんで……」 「ねえイツキくん、今日はすっごい良いお酒持ってきたよ」 ここは高級レジデンス、もし住民や管理人から苦情でもあれば俺が佐倉に殺される。 俺の制止も聞かずに、桔梗さんはガサガサと紙袋に手を突っ込んだ。 「テレレレッテレー!たーてーのーがーわー(山形県の純米大吟醸)!」 「……桔梗さんっ!?」 「あれっ?あんまりテンション上がんない?じゃあこっちは?おーくーはーりーまー(兵庫県の純米吟醸)!」 テンションが馬鹿みたいに急上昇しているのはあなただけだ。 けらけらと笑いながらアニメのキャラクターよろしくダミ声を出す桔梗さんを、玄関に引きずり込んで扉を閉めた。 「あ、創介。仕事終わった?」 廊下の奥に佐倉が立っているのを見つけると、ぐいっと俺の肩を押しのけるようにして桔梗さんが言った。酔っ払いの興味の移り変わりは脈絡がない。 「終わってないし終わる予定も無い」「うるさい」「静かにしないと秒で蹴り出す」など酷い言葉を淡々と佐倉から吐かれながらも、桔梗さんは「わかったよ」とニコニコ笑うだけだ。本当にわかっているんだろうか。 「さ、佐倉っ、桔梗さんはどうしたら……」 「責任持てと言ったでしょう。俺は書斎で仕事していますので、後はどうぞご自由に」 ご自由にと口では言っているが、騒いだり部屋を汚したら容赦しないぞという鋭い眼光を感じる。 酔っ払ってへろへろになってくれるならまだ良いのだが、どうやら気持ちが軽くなって笑い上戸になる体質らしい桔梗さんと二人きりになる。俺は唾を飲み込んだ。 「あははー、いいじゃん。創介が仕事終わるまで俺と一緒に飲もーよお」 酒瓶を片手に肩を組んでくる桔梗さん。ばさり、とコートが無残にも廊下に脱ぎ捨てられた。 もしかしてとんでもないものを招き入れてしまったのではないか、と戦慄した。 ::: 佐倉が書斎にこもってしまったので、必然的に俺たちはリビングで過ごすことになった。 桔梗さんは慣れた様子でキッチンに入り、二人分のグラスを用意する。他人の家にいることを微塵も感じさせない遠慮のなさと、ガラスの棚から勝手にウイスキーの瓶を拝借する辺りから、ここには良く来ているのだろうという感じだ。 よくよく考えてみれば佐倉とは大学生時代からの付き合いなわけで、もしかするとあの偏屈な佐倉を恐れない貴重な人間なのではと思った。 「イツキくん、最近は創介のアシスタントで忙しいの?」 「大学が休みになって時間増えたから、まあ大変ですけど、やっと慣れてきたって言うか……」 茶色い革張りのソファに座っている桔梗さんが、俺の肩にもたれるようにして体重をかけてくる。手に持ったグラスが揺れて酒がこぼれないよう、俺は身構えることしかできなかった。 床には質の良いラグマットが敷かれている。零すわけにはいかない。 「ふうん、明日も?」 「はい。朝からロケハンです。9時くらいだったかな」 「じゃあ、あんまり飲むとよくないねえ」 そう言いながら、酒をなみなみ注いだ新しいグラスを俺に押し付けてくる桔梗さん。言動の不一致も甚だしい。 「そ、そうですね」 「でもあと1升はいけるよね?新しいの開けちゃったし」 笑顔で首をかしげる桔梗さん。この人、頭がおかしいんじゃないだろうか。 「いけないですね」 「待って待って。それじゃ俺がアルハラしてるみたいじゃんか。最近はそういうのうるさいんだからさー……あっ、ウイスキーの方がいい?何で割る?」 「いやいいから……って言うか、 その瓶を置けーっ!」 まるで抱きまくらのように酒の瓶を愛おしそうに抱えている桔梗さん。 外見はいつもどおり穏やかで大人っぽいのに、語尾は間延びしているし、ころころと話題が変わる。ザ・面倒くさい酔っ払いって感じだ。彼本人が宣言していた通り、吐かないし暴れたりしないから、という言葉が本当だったことだけが救いだ。 でもどれだけ飲んでも酔っ払うだけで潰れないというのは、それはそれでとても面倒くさいことが起きるのではないか。少なくともシラフで付き合う人間にとっては。 「桔梗さんって、すっげえ酒強いんですよね?」 前に一度、居酒屋で飯を食った時のことを思い出す。彼と同じ体育会系の広告代理店に務めている社員は口をそろえて「桔梗は酒豪」だとも言っていた。 「うーん、まあね。新入社員の時は毎週潰れまくってたけど」 冬の朝方に公園で寝てた時は死ぬかと思ったな、というはた恐ろしい回想はあえて聞かない振りをする。そんな桔梗さんがこんなに浮かれるなんて、不思議だ。 「今日はなんかあったんですか?」 「祝い酒だよ、祝い酒。今日の競合プレゼンで一億円の案件取れたからさ。部署全体で宴会したからすごいのなんのって」 「いちおくっ……!?」 「つっても三年かけるプロジェクトだけどねえ。でもこれで俺は精進確定。同期の中でも真っ先にプロジェクトリーダーに任命だよ」 やっぱりこの人はすごい人なんだ、こんなだけど。酒瓶に頬ずりしてるし、クッションに「シンディ」って名前つけて話しかけてるけど。 改めて尊敬の念を持って眺めていると、桔梗さんがぐいっと酒を煽った。 「でもさ、俺は与えられた仕事を回すことしかできないわけ。クリエイティブ部門ったって、決められた範囲内で上の指示に従うしかないんだもん」 めでたいお酒に呑まれているはずの彼が、どこかやけになっていることに気がついた。 「新設の駅のコンコース……オープニングを飾る特大のシンボルビジュアルって聞いた時、俺の頭には創介以外のカメラマンが思い浮かばなかった。……でもたかがプロジェクトリーダーの俺には創介だけを指名する権限も権力も無い」 「……桔梗さん?」 「会社ってのは色々あってさ、思い通りにいかないことばっかだよ」 直感した。この人は、悩んでるんだ。悩みながら戦っている。俺たちは社会に出れば、大半が企業の駒になるわけで。報酬と死なないためのシステムの引き換えは、アイデンティティの崩壊。 至極当然のことながら、まだお気楽な学生でしかない俺は桔梗さんのフラストレーションに軽々しく触れることはできない。 「創介、また賞獲ったんだって?」 「あ……はい。雑誌会社が決めた、今年の最優秀表紙みたいな部門で」 先々月に手掛けた、文学系週刊誌のカラー表紙。渋谷のど真ん中、真夜中のスクランブル交差点で撮影した写真だ。佐倉が応募したわけではなく、仕事の一つとして引き受けた写真が高く評価されたのだった。 佐倉にその気がなくても、社会はいやでも佐倉創介という天才に注目していく。 「俺が創介と一緒に大きな仕事ができるのは、何年後なんだろうな。あいつはその間、どんどん上に行っちゃうのに」 桔梗さんがグラスに視線を落とした。口元はどこか遠いものを見るような、憧れるような、色んな感情を滲ませたように弧を描いている。 「俺、いつまで会社にいるんだろう」という桔梗さんの言葉は、自虐的な笑いを含んでいた。 「……会社を辞めるっていう選択肢は?桔梗さんならきっとそれでも……」 「うわあ!簡単に言うよねえー、びっくりだよ」 俺イツキくんのそういう馬鹿な発言、嫌いじゃないよ、と俺の髪の毛をがしがしと撫でながら彼は言う。酔っ払いの加減できていない力が普通に痛くて、俺は顔をしかめた。 「でもちょっと今のは生意気だったね」 「す、すみません」 「前にも言ったけど、俺はさあ、イツキくんが羨ましいよ。創介の仕事を一番近くで見れるんだから」 「は、はあ」 「だからちょっと意地悪していい?」 何を言ってるんだこの酔っ払いは、と怪訝な顔で拒絶を示す前に天地がひっくり返る。 気づいた時には、桔梗さんにソファへと押し倒されていた。 視界にはふにゃりと笑う桔梗さんと、天井と、暖色の照明が見える。桔梗さんが手にする酒瓶が傾いて、ぱたたっと酒の雫が頬にかかった。唇の端まで流れてくる。苦い。 「えっ、えっ!?」 酔っ払いのたわむれだろうと思っていたら、桔梗さんが「よいしょ」とつぶやいてのしかかる。長身の男が俺の腰の上にしっかりと体重をかけるようにして跨ぐものだから、身動きなんて取れるはずもない。 「イツキくんだって、創介に振り回されて嫌気差してるんでしょ。あいつの焦った顔、見たくない?」 それはちょっと見たいかも。でもそれ以上にこの状況が理解できなくて、俺は顔のありとあらゆるパーツを引きつらせた。 だって桔梗さんは俺にとって憧れの大人の男で、仕事ができて、人当たりも良くて、それでそれで、片桐遊菓みたいな美人にしか手を出さないんじゃなかったか。 足をばたつかせたり、手で押し返してみるも、マウントを取られた時点で攻防戦の勝負は見えている。 「桔梗さっ……!?」 「口開けて」 瓶に残ったウイスキーを口に含んで、桔梗さんがそのまま俺に口づける。 抵抗する間もなく度数の高い酒が、唇の間から流し込まれた。腰のあたりに更に体重をかけられて、苦しくなった俺はそれを飲み干すほか無くなる。ごくりと喉を鳴らした瞬間、苦さと燃えるような熱が粘膜から鼻まで駆け上った。 「良い子は真似してはいけませーん」と楽しげにつぶやきながら自身の口の端をピッと指でぬぐう桔梗さん。 ああ、この人はこうやって女を落としているのかな。そりゃこのギャップはたまんないだろうな、と頭の片隅で呆れる。でも、俺は同性だ。男だ。こんなところで酔っ払いに襲われてたまるか。 彼がちらり、と閉ざされた扉の方を見たことに気づいた頃には、俺の視界はぐらりと揺らいだ。 「そうだ、イツキくん」 「え?」 少しだけ熱を持った桔梗さんの口が、俺の耳に寄せられる。 囁かれた言葉の意味を、その時の俺はまだ知る由もない。 「あっ……だ、め……っ」 「駄目?じゃあこっちは?」 桔梗さんの手が、まるで品定めでもするかのように体の上を滑っていく。その度に硬く閉ざした口の端からは甘い声とウイスキーの匂いが漏れた。 「そっちも、やだ……っつーか、ほんと、冗談になんねーから……っ!」 「そんなこと言って、顔は楽しそうに笑ってるじゃん」 「だ、だって……!」 「声、出しちゃいなよ。我慢してつらいのはイツキくんだよ?」 はあっ、と酔いが回っているのか何なのか、桔梗さんが深い息を吐く。佐倉の声もぞくぞくと羞恥心を煽るようで苦手だけれど、桔梗さんの低くて穏やかな声もむず痒い。 「あ、あ……いや、だっ……」 じゃあこうしたらどうかな? 桔梗さんが指先にぐっと力を込める。絶妙なところを掴まれて、もうだめだと、瞳の奥がチカチカと瞬いた。 「あ……っははははははははははっ!」 無駄にエロい手つきで、俺の脇腹をくすぐり倒してくるものだからもう堪らないのだ。俺は堪えていた声を盛大に漏らして、目尻に涙を浮かばせながらのたうちまわった。 「あ、あんた本当……なんなんスかっ!?」 ああ、ごめんごめん。つい。我慢しなきゃいいのに、無理に抑えようとするのが面白くて。 桔梗さんは未だ馬乗りになったまま、くすくすと笑いを零す。その通りだった。たかがくすぐられているだけなんだから笑うか怒るかすればいいのに、下手に抑えようとするから結果的に恥ずかしい声を出してしまった。 「本当にアホなんだね、イツキくんは」と桔梗さんが呆れる。 「ちょっ……マジで俺、死ぬ……」 「吐く?」 「吐きはしない、けど……なんか頭くらくらするし」 「このウイスキー、50度くらいあるからね。……あ、垂れてる」 不意打ちで、俺の鎖骨あたりに指を這わせる桔梗さん。水滴をぬぐうように人差し指が肌にあたって、俺は無意識に全身をびくりと跳ねさせてしまう。 桔梗さんが目を丸くした。 「えっ、うそ。こんなところ気持ちいいの!?」 つう、と桔梗さんの指が鎖骨から首筋、耳の裏までを丁寧に辿るようにして動く。ぞくぞくと言い様のない感覚が身体中を支配して、俺は思わず両手で口を塞いだ。 いやいやと首を振ってみるが、桔梗さんは一層楽しそうに目を細めるばかりだ。 「お酒飲んでるからかな。いつもこう?男なのに?」 「うっ……」 男なのに、こんなところが気持ちいいなんて女の子みたいだねとからかうような桔梗さんの目つき。そう言われると居た堪れなくて俺は反論の言葉を失う。 「あっ。もしかして創介に開発されたの?」 「開発とか言わないでくださいよ!寒気するわっ」 「うわー……そっか、そうなんだ。へえー」 若干引き気味な反応が容赦なく俺の心に突き刺さる。それから桔梗さんは自由研究に没頭する子どものような表情をして、しばらく遊ぶように首や耳を弄っていた。 「ふ、あぁっ……」 連続して何度も何度も刺激を与えられれば、もう俺の口は緩くなってしまう。頭がぼうっとする。 桔梗さんは懲りずに何度かグラスから酒を飲んでいたので、このままじゃ酔いが覚めるはずもない。絶望的だった。 「……うん、良い感じでほぐれてきたね。じゃあそろそろ呼ぼっか」 「へ?呼ぶ?」 ようやく桔梗さんが、覆い被さるようにしていた上半身を起こす。そして片手を彼の口の横に当てて、拡声器の真似事をし始めた。 「そーすけー!」 「ばっ、やめ……!?」 「あれ?寝てんのかな?そーすけってばー!」 桔梗さんが、二、三度、佐倉の名前を呼んだ。静まりかえるリビング。 廊下の向こうで扉が開く音がした。沈黙の緊張感に喉を鳴らしていると、佐倉がリビングに入ってきた。 「うるさい」 扉を開けるなり、苛立ちを存分に含んだ冷めきった声。それは酔っ払いの桔梗さんに向けられた言葉だった。 「イツキくん、ちゃんと責任持って面倒見ろと言いまし……た……」 よね、と言い終わる佐倉の目はわずかに見開かれていた。 それもそうだろう。酔っ払いの世話をしていたはずの俺が、友人に組み敷かれている上に、シャツの中に手まで突っ込まれていたのだから。手は佐倉が来る直前に咄嗟に差し込まれたもので、まだ冷たくてくすぐったい。 「……人の家で、何、おっ始めようとしてるんですか?」 佐倉は冷静だった。俺と桔梗さんを続けてゆっくりと見る。桔梗さんは悪びれずににっこりと笑って、佐倉を手招きした。 「いやあ、だって、イツキくんびっくりするくらい色んなところユルユルだから……つい」 「何勝手なこと言ってんですか!?」 ありえないぞ、この人。俺に罪をなすりつけようとするなんて。 佐倉も桔梗さんが意図する悪ふざけはわかっているようで、はあ、と溜息をつき頭痛を抑えるように額に手を当てた。 「……アホで馬鹿な上に主人への忠誠心すら失うとは、とんだ駄犬に成り下がりましたね。元から駄犬でしたが」 「お、俺のせいじゃないぞっ!」 「口で言ってもわからないなら、散々な体験をさせるしかなさそうですね」 「待てってば!人の話を聞けよ」 桔梗さんが唇を尖らせて、すねたような態度を取る。 「散々な体験って俺のこと?ひどくない?」 なんなんだ、このふざけた大人たちは。 「……とは言え、不本意なこの状況もずいぶん居心地が悪いんですが」 「まあまあ、いいもん見せてあげるから、こっち座りなよ。ね?」 ぽんぽん、と佐倉のためにソファの空いたスペースを示す桔梗さん。正気かよと目で訴えるも、俺を見下ろす桔梗さんはそっと人差し指を口元に当てて「大丈夫」と示すのみだった。何が大丈夫なのか、1ミリたりとも信用できない。 さっき、桔梗さんが俺に囁いた言葉は「服従する惨めさと不安から逃れるには、求められる優越感を感じることだよ」だった。

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