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3-手に余る衝動
スマートフォンのアドレス帳、登録件数も質も貧相なリストから山田を選ぶ。呼び出し音はほとんど鳴らないまま、山田の引きつった声がスピーカーから聞こえてきた。
「イツキ?お前、一体どこ行って……」
「悪い。俺、ちょっと体調悪いから帰るわ」
「はっ!?」
「教授にはうまく言っておいて。それじゃ」
ちょっと待てよ、という山田の焦る声を遮るようにして電話を切った。バタバタと騒がしい足音が近づき、記者が俺に向かってくる。
楽屋が連なるこの廊下に突っ立っていると、さっきからずっとこの調子だ。
「きみ、スタッフだよね。佐倉さん見なかった?」
「さ、佐倉さんって誰ですか?」
精一杯とぼけるフリをする。記者の目が俺の背後にある扉に向かないよう、神経を集中させた。
つくづくこういう嘘は向いていないと思う。
「おっかしいな……楽屋に入っていったと思ったんだけど」
記者はじれったそうに髪の毛を掻きながら、礼も言わず俺の前を通り過ぎていった。記者の背中が廊下の曲がり角へと消え、俺は安堵の息をついて手を後ろに伸ばした。
来賓用の給湯室となっている扉をコンコン、と軽く叩く。
「……行ったよ」
声をかけると、ガチャリと扉が開く。中から佐倉が出てきた。
「人を追いかけ回すなんて、全く趣味が悪いですよね」
先ほどから記者や関係者に居場所を探られている本人は、心底不機嫌そうだ。
「取材くらい受けてやれよ。っつーか当たり前だろ!お前みたいなのが受賞してんだから!」
「面倒じゃないですか」
呼吸をするように、あっさりと佐倉から吐かれる言葉。佐倉の思考回路が全く理解できない。
「……早く出ましょう、こんなつまらないところ」
俺に命じられた仕事とは、一躍時の人となった佐倉を外へと誘導することだった。
ついでに佐倉から大きな紙袋を渡されたので、荷物持ちも兼ねている。癪だけど。
濃紺色にストライプの細身スーツを着ている佐倉は、片手で黒色のネクタイを緩めながら、記者とは反対方向へと歩き出した。
慌てて後を追う。
「なんで……俺がここにいるって分かった?」
色々と聞きたいことは尽きなかったが、なんとなく話しかけづらい佐倉に対してようやく出した一言。
佐倉は振り向かず、相変わらず淡々とした様子で答える。
「会場がイツキくんの大学だってことは知ってましたし……こういうのは必然的に劣等生が手伝わされているものでしょう?」
「人を勝手に劣等生認定すんな!」
「違うんですか?」
「……」
言い返せない俺。佐倉の元で働くと約束したあの日、迂闊に大学名を教えてしまったことを後悔した。
「それに……自分の飼い犬くらい、すぐ見つけられますよ」
「飼い犬じゃねーっつってんだろ!」
噛み付くように文句を言ってみるが、佐倉は振り向かない。このまま無視して逃げ去ってやろうかと衝動を覚えた時、佐倉がぴたりと止まった。左手をそっと横へ出している。
止まれ、という意味らしかった。
俺もつられて足を止めれば、曲がり角の向こうからガヤガヤと騒がしい話し声がする。
このままでは結局、記者たちと鉢合わせてしまうと思った。
「困りましたね」
「だーかーらー、こんな逃げるような真似しなくてもちゃんと賞もらってんだから取材くらい……」
呆れて文句を言っていた、その時だった。
後ろから「ねえ」と声をかけられる。鈴の鳴るような透明感のある声だった。
「そこの通用口。階段降りたら駐車場に出れるわ」
佐倉と俺が振り向く。そこにはフォトグラファーの、二階堂ヨリが立っていた。
間近で有名人を見たことが無い俺は、固まってしまう。テレビや雑誌ごしに見る彼女よりもずっと、その美貌は際立って見えた。
天使っているんだな、と柄にもないことが頭をよぎる。
「どうも」
佐倉は二階堂ヨリを見据えて言った。あろうことか、この絶世の才女に対して挨拶も会釈もせず通り過ぎようとする。
「海外のコンクールに出品していた時は、アルファベットで“Sakura”だったわよね」
通用口の扉、金属製のドアノブに手をかけた佐倉の動きが止まる。なんのことだかわからずに、間抜けな表情を浮かべているのは俺だけだった。
二階堂ヨリも笑ってはいない。冷静なようで、どこか挑戦的な眼差しを向けていた。
「隠していたつもりは、さらさら無いんですがね」
「てっきり日本が好きで「桜」って活動名をつけた、外国のカメラマンだと思っていたわ」
「……それは褒め言葉として受け取っても?」
廊下の壁に寄りかかっている二階堂ヨリが、すらりと長い足を組み替える。切れ長で美しい目が細められた。
これ以上佐倉と取り合っても無駄と気づいたのか、彼女は小さくため息をついて、自分の楽屋へと戻っていった。
ぽかんとして何も言えなかった俺に、佐倉は「行きますよ」と短く言って通用口へと出る。なんだったんだろうか、今のやりとりは。
「なんだよ、今の。サクラがどうとかって」
「そんな話してましたっけ。記憶に無いですね」
ついさっきのことを、よくもまあそんな白々しい嘘がつけるものだと呆れた。
関係者専用の駐車場ということもあってか、地下2階のそこは人気がなかった。佐倉がスーツのポケットからキーを出した。
一目で見て高級だとわかる、有名なエンブレム。黒い車体の大きなSUV車だった。運転まで命じられたらどうしようとドキドキしたけど、佐倉が運転席のドアを開けたのでホッとした。
「えっと、じゃあ俺はここで……」
「助手席へ」
ぴしゃりと言われて、俺は不本意ながらも従う他無かった。
「これ、どうすんの?ちゃんと分けた方が良くねえか?」
乗り込む前に、ふと気づいて尋ねる。俺が佐倉に言われて運んでいた紙袋には、大切な賞状や盾といったものが雑に詰められていた。
ろくに梱包もしていないので、このままだと傷ついてしまいそうで怖かった。
「……ああ、適当に後ろに放り込んでおいてください」
「は?な、なに言ってんだよ。これスッゲー大事なもんだろ!?」
当たり前のようなその態度に、俺の方が焦ってしまった。
この受賞がどれだけ社会に影響力があり、羨望されているものかを俺は知っている。適当に、なんて扱っていいわけがない。
「飾りにはあまり興味が無いので」
「飾りって……あっ」
佐倉が面倒くさそうに、俺からひょいと紙袋を奪った。そのまま本当に後部座席へポイと放り投げたもんだから、俺は声にならない悲鳴をあげる。
もちろん佐倉は構わずに、運転席に乗り込んでキーを回した。
仕方なく俺も助手席に座って、シートベルトを締めた。車が動き、駐車場の出口へと向かう。
「賞にも取材にも興味ねえのに、なんで五本木展に出品したんだよ?」
「大人には色々と事情があるんですよ」
「子供扱いすんなっ!どんだけバカにしてんだよ、俺を!」
「心外ですね。馬鹿になんてしてませんよ。相応に扱っているだけです」
それを、バカにしていると言うのではないだろうか。佐倉の人の食ったような態度には、俺のスキルでは太刀打ちできそうもなかった。
佐倉って何者なんだろう。
「俺、お前がわかんねえよ。一ミリも」
大通りの信号が赤になった。車がゆっくりと停止する。
佐倉がアームレストのボックスを開けて、煙草の箱を取り出した。
「なぜ無理にわかろうとする必要があるんです?」
「そりゃ気になるだろ!さすがにこれだけ話題になってりゃ、シカトする方が無理だっての」
「本当に、イツキくんは劣等生なんですね」
「劣等生じゃ、ねえって…………」
運転席から少し身を乗り出した佐倉に、顎を思い切り掴まれる。
冷たい両の目が俺を捉えていた。
「イツキくんを雇って、使ってあげてるのは俺ですよ」
使ってあげてるって何だそれ、と文句を言いたくても言葉にならない。蛇に睨まれたちっぽけな蛙のように、情けなくも俺はびびっていた。
「600万円の借金があるイツキくんに、俺が望むことは一つだけです。何も言わずに従いなさい。……簡単でしょう?」
ね?と佐倉がようやく笑った。でも目の奥は全く笑っていない。
俺はひくりと喉を鳴らした。逃げ場はもう無い。
「で、その役立たずの両手はいつ動くんですか?」
「え……!」
佐倉の手が離れる。煙草を一本くわえた佐倉が、視線をちらりと動かせて合図した。どうやら火をつけろと言うことらしい。
「じ、自分でつけろよ。それくらい」
「運転中ですから」
「いま赤信号だろ!?両手空いてんじゃん!」
言ってみても無駄だというのは、悲しいほどに理解できた。
俺は渋々、カーオーディオの下に備え付けられているシガーライターを手に取った。
佐倉が少しだけ俺の方を向いて、口に咥えたままの煙草を傾けた。伏せ目がちになる佐倉の顔をよく見ると、芸能人顔負けにかなり整っていて、なんだか煙草に火をつけるこの一連の動作さえ恥ずかしくなる。
相手は男だって言うのに。
「イツキくん、意外と不器用ですよね」
ようやく煙草に火が灯った。佐倉が喉の奥でくくく、と笑った。
「うるせぇな!こんなの慣れてねーんだよ!」
投げやりにそう言って、シガーライターを戻した。佐倉が煙草を吸う。重い煙がゆっくりと車内に漂い始めた。初めて佐倉と会った日も、この匂いがした。
信号が青になる。
「……あのさ」
「なんでしょう?」
佐倉は、思ったよりもずっと丁寧な運転をするやつでびっくりした。
俺は言うか言うまいか迷ってようやく口を開く。
「佐倉は、男が好きなのか?」
運転中の佐倉は、もちろん俺の方を振り向いたりしない。煙草の煙を吸い込んで、前を向いたまま、左手で灰皿にそれを押し付けた。
「さあ?」
「さあ、じゃねーよっ!」
「なぜそんなことを聞くんです?」
佐倉が言った。俺はぐ、と一瞬押し黙る。
「なんで俺に、キ、キスしたんだよ?」
言うのも躊躇ってしまうくらい、忘れたい記憶だった。
「焦ってる顔が、面白いからですかね」
間髪入れずに佐倉が答えた。
「おも……しろい?」
「ええ。男が好きか、イツキくんが好きかなんて話ではなく。イツキくんのそういう顔が好きです」
ミラー越しに佐倉と目が合う。そこでやっと俺は自分が狼狽え果てた顔をしていることに気がついた。
俺が困っているのを見るのが好きだから、キスしたというのか。この男は。
「答えになっていませんか?」
「……人をオモチャにしやがって」
憎らしさたっぷりに吐き出した言葉は、佐倉には何のダメージも与えない。
「オモチャですか。良い表現ですね」
最低だ。最低なやつだ。いつか絶対に逃げ出してやる、と俺は決意する。
車が佐倉のマンションに着いた。また今日も書類や本の整理ばかり手伝わされるのだろうとうんざりする。
とっとと終わらせて帰ろう、と車の扉に手をかけた。
「イツキくん」
「え?……うわっ!」
名前を呼ばれて振り向いた。
佐倉の顔が急に近くなる。同時に息がうまく吸えない苦しさに気づいた。佐倉の手が、俺の緩んだネクタイを掴んで引き寄せていた。
佐倉の顔がすぐ近くにある。俺は眉顰めて、視線を泳がせた。
「……良いオモチャを手に入れましたよ、本当に」
「う、あ……っ」
サディスティックすぎて趣味悪ィんだよ。罵りたくても、許されない。
「ほら、その顔ですよ」
絶望的な佐倉の声が車内に響く。疲労と恐怖と悔しさと諦めが入り混じった複雑な感情が一気に爆発して、叫びだしてしまいたくなった。
とんでもないやつに捕まってしまったのだ、俺は。
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