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第8話
(走れ、走れ……!)
―――後ろは振り返れない。
草原を、一直線に駆ける。
泥を跳ね上げ、心臓の音が耳元で爆発する。
(―――あと、数十メートル先で……!)
あの深く暗い森の入り口に飛び込めば、追っ手を巻けるはずだ。そうして逃げた捕虜が何人かいたと聞いている。
自由という名の光まで、あと少し――。
だが、背後から大地を爆破するような、猛烈な蹄の音が迫っていた。
一頭の軍馬が静寂を切り裂いて突進してくる。その上に跨るのは、漆黒の軍服を纏った支配者――シダレだ。
「……逃がすと言った覚えはないぞ、セージ!」
頭上から突き刺さる、地響きのような声。
ひッと短い悲鳴が漏れて足が縺れ、肺が潰れそうなほど息が苦しい。
それでも、諦めればすべてが終わる。
必死に地面を蹴り、森の木々に指先が触れようとした、その瞬間だった。
「あ、っ……が……!?」
強烈な突風が吹いたかと思った直後、強靭な腕が、逃げようとするセージの腰を馬上から強引にさらい上げた。
重力と遠心力に振り回され、視界がぐにゃりと反転する。地面を蹴っていた足が容赦なく宙へと浮き、凄まじい力で軍馬の背へと強引に引き揚げられた。
「ひ……っ、いや、放せ……っ、いやだっ!!」
生きた心地がしなかった。
激しく上下する馬の背の上で、シダレの太い腕が必死に暴れるセージの腹部を後ろから締め上げる。
「大人しくしろ!! 振り落とされて死にたいか!?」
耳元で低く響く怒号。
しかし、
(どうせ殺されるのと同じだろっ!!)
だったらここで死んでやる――!
セージは抵抗を諦めなかった。暴れてシダレの腕からすり抜けようと、必死に身体をよじる。
「言うことを聞け。でなければ、村人の首を落とすぞ」
「――っ!?」
―――みんなの、首を…っ!?
容赦のない脅しだがセージを大人しくさせるには、あまりにも効果的すぎた。
□ □ □
どう連れてこられたか、記憶にはない。
「ぐっ、―――っ!」
居館の最奥にある、シダレの寝所。
放り出されるようにして、セージは床に膝をついた。
背後で、重々しい木製の扉が閉まる音が低く響く。
かけられた鍵の金属音は、セージにとって世界の終わりを告げる音のように聞こえた。
「お前には一番よくしてやったはずだが、何が気に入らない?」
「……っ、全部、だよっ!」
お前からの恩恵など、何も望んでいない――。
どうせ殺されるのだ。ならせめて最期くらいは睨みつけてやろうと、セージは強く顔を上げた。
しかし、男の口から返ってきたのは想像を絶する絶望だった。
「そうか。ならば、ニィル村の者は全員殺すとしよう。お前は一番最後だ」
「なっ…!?」
セージの呼吸が止まる。
その絶望の表情を見たシダレは、無慈悲な笑みを深めた。
「我々は特に寛大な軍だ。捕虜でも民間人と同じように扱い、娯楽もある程度の自由も許した。……だが、脱走は重罪だ。お前とニィル村の連中の首を広場に並べ、見せしめにするのが、軍としての正しい判断だろ」
漆黒の瞳には、慈しみなど微塵もない。
お前のせいで村人たちが死ぬのだと、淡々とした口調で決定を下した。
「やめてください……っ! みんなは何もしていない!逃げたのは俺だ!俺一人だけでいいだろ!?」
狂ったように叫び、シダレの硬い胸板を拳で何度も叩いた。
だが、男の表情はぴくりとも動かない。
「俺は二度、同じ説明をする気はない」
「あぐっ、っ」
両腕を容易く掴み上げられ、強い力で床へねじ伏せられる。
(なんで、どうして…っ)
圧倒的な強者を前に、セージの瞳から鋭い光が、みるみるうちに失われていった。
「…い、嫌、だ……やめて、……お願い、です……」
俺は、どうなったっていいから……。
―――そう呟いた時、自分の中で……何かが折れる音を聞いた。
「命乞いをするのなら、俺の気を変えさせろ。そうだな……あの見張りをたぶらかしたように、俺を昂らせてみろ。気に入ったら、また飼ってやる気になるかもしれないぞ?」
突きつけられたのは、あまりにも屈辱的な条件だった。
「……それをしたら村人、達は……」
「余計なことを考えるな。やるかやらないかくらい、自分で判断しろ」
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