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第10話
「はー……」
呼吸が落ち着いてくると、体にはすっきりした感覚が残った。
やはり、発情期ではなく、単に雅とのキスで体がびっくりした、といった感じなのだろうか。
ごろりと寝返りを打つ。
隣で、雅も仰向きになって肩で息をしている。
常夜灯のかすかな光の中、彼と目が合う。
俺はちょっと文句を言う。
「なんてことしてくれるんだよ」
「だって……」
彼は戸惑いながら言う。
「僕のせいだと……」
「はぁ?」
「僕とキスをしたからですよね」
「はぁ……?」
俺は前後の会話を思い出す。
雅は「なにをしているんですか」と言って、俺は「お前が悪いんだぞ」と言って……。
――そういうことか。
「馬鹿。俺が言ったのは、お前が勝手にドアを開けたせいでふたりして転ぶはめになったって意味だ」
「……!」
俺は馬鹿の額を小突く。
「すみません、てっきり、その、僕とのキスのせいで、その、そうなったという話かと」
「……キスは俺からしたんだから、お前のせいっていうのは変だろ」
「あ……。それも、そうか……すみません……」
沈黙が落ちる。
雅はじっとこちらを見ている。
耐えかねて、俺は視線を逸らす。
沈黙を先に破ったのは雅だった。
「あの、すみません、無理やり……ええと」
「もういい。全部忘れろ」
彼は全く納得していない雰囲気を醸し出している。
しょうがないな。
俺は肘を立てて、頭を持ち上げた。
仰向けの雅を見下ろして、にやりと笑う。
「俺はさ、なんていうかほら、経験豊富なんだよ」
「はい?」
「いや、だって、俺は自由なわけだろ? ソッチも自由なんだよ。だから、気にするな。俺の日記の1ページだ」
やっと雅は俺の言わんとするところを理解したらしい。
彼は目を見開いたあと、もごもごと何かを言おうとして、何度も途中でやめた。
やっと言葉が出たと思ったら「……北小路さん、何も言わないんですか」などと予想の斜め上のことを言う。
俺は雅の額を弾いた。
「馬鹿。北小路さんが俺の生活態度に文句言うわけないだろ。あと北小路さんの名前をぽんぽん出すのやめろ」
「なんでですか」
「……心臓に悪い」
「はぁ?」
雅は目を眇める。
よかった。
ちょっとは罪悪感が消えたらしい。
俺はネクタイを緩めてシャツのボタンを外していく。
「風呂入って寝るぞ」
「はい……」
身を起こしたところで、はたと気が付く。
雅の股間が、再び立ち上がり始めていたのだ。
俺は悪い笑みを浮かべる。
「若いねぇ。手伝ってやろうか?」
「け、結構です!」
雅はがばりと起き上がると、そのまま手早くズボンにそれを押し込んだ。
「洗顔料、置いてきますよ!」
そう言い捨てて、雅は自室に戻っていった。
首を伸ばすと、確かに洗顔料のチューブが床に転がっていた。
まったく。
「律義な奴……」
俺はベッドの上でうんと伸びをした。
ああ、それにしても。
パン派で、実家が多摩にあって、おまけに経験豊富なビッチ。
たった1泊2日の旅行で、俺の設定増えすぎじゃないか?
目を閉じると、あっという間に睡魔がやって来た。
俺はもう朝にシャワーを浴びると決めて、睡魔の誘いに身を委ねた。
翌朝、俺の部屋に乱暴なノックの音が響いた。
バスローブ姿のまま開けると、両手に紙袋を提げた雅が立っていた。
「あなたねぇ……! 何がズボンとシャツ買ってきて、ですか!」
彼の目の下には隈があるが、それを感じさせない勢いで文句を言う。
そんな彼を俺は「どうどう」と諫める。
「いやー。悪かったって」
「着替えの1着くらい持ってきてくださいよ!」
「で? いいのあった?」
「もう! これでいいですか!」
雅は手に下げた紙袋を俺の鼻先に突き付ける。
「お、おおぅ……。わりといいところの服買ってきてくれたな」
「朝から電話がきて、一体何事かと思えば……!」
俺は肩を竦める。
「しょうがないだろ。今日も昨日と同じ服を着るつもりだったのに、昨日あのまま寝ちゃってさ、起きたらカピカピだったんだから。お前が出したやつでもあるんだぞ」
「……っ!」
さっきまでの勢いはどこへやら、雅は耳まで赤くなって口をぱくぱくさせる。
「ほら、俺着替えるから。おっと、その前に。これ、代金。足りる?」
「いりませんよ!」
雅は乱暴にドアを閉めた。
俺はドアを見つめてあっけにとられる。
なんというか、昨日までは慇懃無礼な態度だったのに。
ずいぶんフランクな態度になったものだ。
昨夜のあれは事故に近いが。
……結果オーライかもしれない。
「裸の付き合いってやつだな」
俺は苦笑した。
いや、裸にならなかったからこんなことになったのだが。
黒いスラックスと白いトレーナーに着替えて外に出ると、廊下で雅が待っていた。
「あれ、雅、なにしてんの?」
「朝ごはん食べないんですか……」
「ん? あ、ああ。食べるけど。お前もまだだったのか。先行っててくれてよかったのに」
彼は腕を組んで、俺を上から下まで見る。
「……服、サイズ合ってましたか」
「ばっちり。さすが雅」
彼は息を吐く。
「……早く朝ごはん食べてしまいましょう。両親が僕たちを見送りたいらしくて、名古屋駅のカフェで待ってくれているそうなので」
「はぁ!? それ早く言えよ!」
✜✜✜
榎原家のご夫婦は、名古屋駅に併設されている高級ホテルのラウンジでくつろいでいた。
それを遠目で見つけて、俺は足を止めた。
声を落として雅に問う。
「なぁ、聖さんってなんの会社の社長だったんだ……?」
「コンサル系です」
「ほぅ」
聖さんは今日は和服だった。
濃抹茶色の着流しに、黒っぽい羽織を合わせている。
それに、白いボルサリーノハット、いわゆるマフィア帽子。そしてサングラス。
隣に座る芽衣さんがこれまたあでやかな着物を着ていることもあって、めちゃくちゃ目立つ。
あと、長身のスーツ姿の男が聖さんの隣に立っている。
足元には銀に輝くアタッシュケース。
俺の言いたいことを察して、雅が言う。
「怪しい自由業ではありませんから安心してください」
俺は聖さんの隣に立ってタブレットを操作している男を示す。
「……誰?」
「コンシェルジュの細川さんです」
「昨日、そんな人いたか?」
雅はこともなげに答える。
「金土祝休みです」
「……金持ち、怖」
「気を付けたほうがいいです。細川さんは、父に命じられたらなんでもしますから」
細川さんが俺たちを見つけて、静かに一礼した。
「怖」
俺たちがラウンジに入ると、聖さんはサングラスを頭の上に乗せて片手をあげた。
「やあ、泰斗くん、おはよう」
「お、おはようございます」
背筋が自然と伸びる。
芽衣さんが言う。
「ずいぶん遅かったのね。今日は早く帰るって聞いたのに。何かあったの?」
硬直する雅に代わって、俺が答える。
「……いえ、その、酒が過ぎたみたいで」
「まあ。もう1日休んでいけばいいのに」
「明日から仕事なので」
「大変ねぇ」
俺と雅が席について飲み物が運ばれてくると、「それで」と、聖さんが切り出す。
「住む場所はどうするんだい? ふたりは、まだいっしょに住んでいないんだろう?」
「まぁ、それはおいおい考えます」
俺が答えると、聖さんは破顔した。
「おお、そうか。新居はひとまず3LDKかね?」
「はぁ、まぁ、そんなものでしょうかね……?」
「ここにいまの住所を書いてくれ」
「え? あ、はい」
言われるまま、差し出されたメモ帳に新宿の1LDKのマンションの住所を書く。
なんだろう、なにかを送ってくれるのだろうか?
聖さんはそのメモを細川さんに渡すと、代わりにタブレットを受け取った。
「きっと、そう言うと思ってね」
「はぁ」
「用意しておいたよ」
聖さんはタブレットの画面を見せる。
そこにはマンションの写真が映し出されている。
「君たちと相談するつもりだったが、遅いから、もう私が決めて買っておいたよ」
「……何をです?」
「港区で、3LDKだ」
「は?」
呆然としていると、芽衣さんが言い添える。
「急な話でごめんなさいねぇ。私はあなたたちが来てからでいいって言ったんですけど。夫が聞かなくて。泰斗さんのご都合もあるのにねぇ? 港区で大丈夫だったのかしら……あら?」
彼女の視線が、俺のむき出しになっているうなじでとまる。
俺は慌てて首筋を手で隠す。
「芽衣さん……なにか?」
「……いいえ、なんでもないわ。それでね、細川が、お引越し屋さんも手配しておくから、安心してちょうだいね」
細川さんが頭を下げる。
「いやぁ、めでたいなぁ」
聖さんは豪快に笑い、芽衣さんはそっと微笑んで。
俺と雅は真っ蒼だ。
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