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第13話
そんなこんなで、なんとかたどり着いた金曜日。
夕方、俺はオフィスの自席で時計をちらちらと気にしながら、パソコンで資料を作っていた。
明日は午前中から不動産を内見する予定だ。今日は定時で帰りたい。
「あー……この1週間、まじでつっかれたぁ」
ひとり呟くと、デスクの向こうから部下が顔をひょこりと出す。
「主任、珍しいですね。なにかあったんですか?」
「うーん、ちょっと……?」
「?」
この奇妙な生活を、なんと形容すればいいのか。
うんと唸ったあと、ぽろりと口をついて出たのは「猫かな」という言葉だった。
「猫?」
「そう。猫。ちょっと、神経質な猫を飼いはじめてさ……」
「ああ、それは慣れるまで大変ですねぇ。猫って人間じゃなくて家に懐くっていいますし」
「ああ~……」
つまり、引っ越して気が立ってるということか?
俺は首を振る。
いや、それはないな。
あいつはたぶんどこでもあんな奴だよ。
定時まであと10分というとき「藤堂~」と部長の声がした。
「はぁい」
振り返ると、丸めた書類で頭をぽんと叩かれる。
「君、やっちゃったねぇ」
「な、なんですか」
部長は書類を広げる。
「数字間違えてるよん」
「へ!?」
「ほら、ここ」
示された場所を見ると、確かに、数字と項目が合っていない。
俺は頭を抱えた。
「うっわぁ~……。いまから直します」
部下が言う。
「あれ? 主任、今日は定時って宣言してませんでした?」
「いやぁ、まぁ、その予定は今日じゃなくて明日の午前中だからさ。ちょっと早めに帰って休みたかったってだけ」
「そうなの~? じゃあ、これは月曜でもいいよ? ボクってデキル上司~」
「ハハ」
乾いた笑いを返したあと、俺は首を振った。
「でも、ほんとうに、今からやります。――家に帰っても休めないんで」
部長は首を傾げる。
「んー? なんかあったの? こんなミス、珍しいよね」
「……プライベートがちょっと大変で」
「それは一大事じゃん」
部長は俺の肩を叩く。
「ボクが今日は残って手伝ってあげるよ」
「部長~! 一生付いていきます~!」
「ははは、苦しゅうない~!」
部長は今日はド派手な赤いシャツに金のネックレスを合わせている。
外見はこんな感じだが、これでとんでもない半導体研究者で、おまけにこうして部下を助けてくれる有能な上司だ。
俺は深く部長に感謝した。
デスクの下で、俺は手早く雅にメッセージを打った。
『遅くなるから夕飯いらない』
これで、よし。
俺は両頬叩いて、気合いを入れる。
「集中!」
そしてパソコンに向き直った。
仕事が終わったのは、夜23時を過ぎたころだった。
「くぅー!」
うんと伸びをすると、部長が拍手を送りながら「飲みに行く人~?」とうれしい誘いをしてくれる。
俺は目を輝かせた。
「それはもちろん……?」
「ボクの奢り~!」
「行きます行きます~! よ、部長~!」
「帰りのタクシー代も出しちゃうぞ~!」
「飲みまぁす!」
「はっはっは。飲め飲め~!」
と、調子に乗って、ストレスを発散するように飲んで飲んで……。
――目を覚ますと、知らない天井が見えた。
「あったま痛ってぇ~……」
割れるような頭痛に、昨日の深酒を嫌というほど思い出させられる。
確か、6件目まで行った。
さすがに飲み過ぎだ。
こめかみを抑えながらベッドから起き上がると、見知った人がドアを開けて入って来た。
「部長……?」
「おはようさん」
彼はシャワーを浴びてきたのだろうか、濡れた頭にタオルをかぶり、服装は上下黒のスウェットだ。
その首元から鎖骨が覗いている。
俺はいけないものを見たように、慌てて視線を逸らす。
仕事中でもセクシーだとささやかれている人のお風呂上りは、ちょっと別格の破壊力がある。
「すみません、ここどこですか」
俺がどぎまぎしながら問うと、彼は平然と返す。
「ボクの部屋だけど?」
「へ?」
部長は呆れ顔だ。
「君さぁ」
タオルで髪をがしがしと乾かしながら文句を言う。
「引っ越したなら言ってよぉ」
「引っ越し?」
「タクシーで家まで送ってあげたのに、空き部屋になっててびびったんだけど」
「あ、ああ!」
「会社に届け出、忘れちゃだめじゃん」
「す、すみません、急なことだったのと、ええと、いま新しい家探してる途中で」
「え、いま藤堂、家無し子なの?」
「……人の家に、居候、みたいな……?」
「ふぅん?」
部長は口角を上げる。
「おもしろそうなことしてるねぇ~。ボクも混ぜてほしいなぁ?」
「なに言ってるんですか。今日、不動産屋の内見予約してるんで」
「へぇ~。一回、その居候先に帰ってから行きなよ」
「わかってますよ」
「シャワーくらいなら貸してあげてもいいけど? いまならなんと最大100%オフ」
「ハハ……」
俺は冷静になって部長の部屋を見渡した。
広い部屋だ。
たぶん高層階。
雅と住んでいる部屋と遜色ない。
しかし。
「部長の部屋、汚くて安心します」
散乱した服、飲みかけのペットボトル、あふれるゴミ箱。
俺がしみじみと言うと、部長は噴き出した。
「何言ってるのさ。極上の部屋だよ? ボクの部屋に入りたいオメガはいっぱいいるってのに。その子たちに失礼だと思わないの?」
「はぁ……」
確かに彼はモテるらしいが。
しかし、いつまで経っても番を作らない理由は、まぁ、この部屋を見る限りそういうことだろう。
雅も番を作るのは苦労しそうだが、この人もこの人で苦労しそうだ。
俺は落っこちている服をよけながら歩く。
「部長って、仕事以外ほんとうに全部だめなんですね」
「え? 悪口?」
「感想です。シャワーは遠慮しておきます。もう電車動いてるんで、帰りますね。お世話かけました」
「はいはい」
部長は口元を右手で抑えている。
俺は眉根を寄せた。
部長とは新卒のときからの付き合いだ。
こういう表情のときの部長はよからぬことを考えている。
「なんです?」
「いやぁ~。ほらほら、早く帰りなよ?」
「?」
なんだか、嫌な予感がした。
その予感は的中だ。
「ただいま~」
家に帰ると、まだ外は真っ暗だというのに、リビングに電気がついていた。
「あれ、雅、起きてんの?」
「泰斗さん……」
ソファに座っていた雅が顔を上げる。
その目の下には隈ができている。
「ちゃんと寝ないと体に悪いぞ」
俺が言うと、雅がのろのろと口を開ける。
「――昨日、北小路さんの家に泊ったんですか?」
「へ、なななな、なんでそのこと!?」
俺は仰天して彼を凝視する。
彼は感情の読めない顔で淡々と言う。
「昨日、あなたが帰って来ないので、電話をしたんです。そしたら、北小路さんが出て。いま隣であなたが酔いつぶれて寝てるって……」
「はあああ!?」
俺は頓狂な声をあげる。
まずい。
雅と部長の接触は、非常にまずい。
「え、ななななな、なにか、なにか話したか!?」
「別に、変なことは、何も……」
「話せ! 北小路さんとの会話を全部話せ」
「何も話してないですよ。ふつうに挨拶しただけです」
「ほんとうか!?」
「他に何があるっていうんですか?」
「挨拶って何だよ!?」
「ふつうに、北小路さんって、泰斗さんの番の方ですよね? 泰斗さんからお名前伺っています、と」
「はあぁあああ!? そそそ、それで!?」
「そしたら、今夜は泰斗さんはこっちで預かるから心配するな、と言われて終わりですけど。なんなんですか、さっきから」
俺はリビングを飛び出して自室に戻ると、大慌てで部長に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと「はいはい~。君の愛しの番、北小路先達でぇす」と元気な声が聞こえた。
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