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第24話
そんなある日の木曜日、仕事を終えて家に戻ると、1階のエントランスに見覚えのある人物が立っていた。
「こんにちは」
長身の、すらりとしたスーツの男。
雅の父・聖さんのコンシェルジュだ。
俺は彼の名前を呼んだ。
「細川さん……?」
彼は丁寧に腰を折った。
「お久しぶりです。お変わりありませんか」
「ええ、まぁ」
細川さんは40歳くらいだろうか。
細い眉毛とやわらかい物腰が特徴的な人物だ。
「新しいお部屋での生活はもう慣れましたか?」
「おかげさまで」
彼は右手に持った紙袋を差し出す。
「奥様からです。手作りのアップルパイです。雅さんがお好きなんです」
「わぁ、ありがとうございます。どうぞ、中に。雅もあと1時間もしないうちに帰ってきますよ」
「恐れ入ります」
うちのリビングにはソファがふたつある。
ひとつは俺が愛用しているぼろぼろのソファで、もうひとつは雅の父親がこの家のために用意してくれた立派なものだ。
俺は細川さんに立派な方のソファを勧めた。
「どうぞ。すみませんね、まだ荷解きが終わってなくて」
リビングの一角にはまだ段ボールが積みあがっている。
細川さんはソファには座らず、首を傾げた。
「おや、よろしければお手伝いしていきましょうか」
「大丈夫ですよ。お茶飲みますか? 紅茶とコーヒーがありますよ」
「いえ。雅さんにお会いしたらすぐに帰りますので」
そう言って、彼は背筋を伸ばして立っている。
俺はキッチンに立つと、カップを2つ出して、紅茶を入れはじめる。
なんとなく場をつなぎたくて、俺は尋ねる。
「ええと、細川さんはコンシェルジュなんですよね」
「ええ。わかりやすく言うと何でも屋です」
「大変ですね。こんな時間まで」
時計はもう夜20時を回ったところだ。
彼は首を振る。
「雇い主のご不安を解消できるのでしたら、何時まででも」
「不安?」
「ええ」
細川さんの目が一瞬、光ったように見えた。
「あなたと雅さんが仲良く暮らされているのかご不安だったようで」
俺は少し慎重になって答える。
「へ、へぇ……。まぁ、仲良くやってますよ」
「それはようございました。荷解きはあまり進んでいないようですが、このままちゃんとここに住まわれますよね?」
「それは、もちろん」
……なんだ?
なんだか妙な言い回しだ。
住んでいない可能性があることを知っているような。
彼の視線が痛い。
ケトルの湯が沸くのを待ちながら、俺はうなじの歯型をなぞる。
名古屋での別れの日、芽衣さんがこれをじっと見ていたのを思い出す。
この、最近雅に噛まれたにしては古い歯型――。
ケトルの湯が沸いた。
カップにティーパックを入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。
その間も、細川さんは俺をじっと見ている。
まるで、俺がこのキッチンを使い慣れているかどうかを探っているようだ。
——“本当にここで暮らしているのか”を。
思わず、唾を飲み込んだ。
「紅茶です。どうぞ、座ってくださいよ」
「では、失礼して」
センターテーブルにカップを並べると、やっと細川さんはソファに腰を下ろす。
俺は向かい合うぼろぼろのソファに座る。
この席からだと、リビングの一角に積まれた段ボールがどうしても目に入る。
引っ越した当初は荷解きをするつもりがなかったこともあって、引っ越してもうひと月になろうとしているのに、まだそれはちっとも減っていない。
俺は頬を掻いて、努めて明るい声を出した。
「いやぁ、すみませんね。荷解きは年末休暇にまとめてやろうって、雅と話していたんですよ」
「おふたりともお仕事が忙しいんですね」
「年末はどうしても」
「そうでしたか」
紅茶は雅が買ってきてくれた、ちょっといいやつだ。
ティーパックなのに、馬鹿にできないほどおいしい。
しかし、いま飲んだそれは味がしなかった。
細川さんはリビングのあちこちに視線を向けて、それから俺をじっと見た。
気まずい空気の中、玄関から雅の声が聞こえた。
「ただいま帰りました」
俺はぱっと顔をあげる。
「雅! こっちこっち!」
雅はリビングにまっすぐに来ると、来客に目を丸くした。
「あれ、細川さん」
「おじゃましております」
「どうしたんですか」
「奥様に頼まれまして。アップルパイもお持ちしました」
「ああ、アップルパイ」
紙袋はテーブルの上に置いてある。
雅はそれを見てちょっと笑う。
「母の作るのは、美味しいですからね」
雅はコートとマフラーを脱ぐと、俺の隣に座る。
そして俺の顔を覗き込んだ。
「泰斗さん? どうかしました?」
「いやぁ」
たぶん、いま俺の顔色は悪い。
しかし、さすがに細川さんがいる目の前で「疑われてるかもしれない。やばいぞ」と言えるわけもない。
どうする。
俺の杞憂をよそに、雅は小首を傾げたあと、俺の頬に手を添えると――。
唇に、やわらかいものが触れた。
それは、「ちゅ」と軽い音を残して離れていく。
キスされたのだ。
俺がやっとそれを理解して声を出そうとすると、雅は俺の唇を人差し指で抑えた。
「みやっ!……むぅ」
「ただいまのキスです。いつもしているでしょう?」
「……!」
俺は硬直した。
きっと、わかりやすく耳まで真っ赤になっているに違いない。
雅は俺の隣に座って言う。
「細川さん」
肩に手を回される。
そのまま引き寄せられて、俺は彼の胸に頭を預ける。
「僕たちは、ちゃんとラブラブでやっていると両親に伝えてくださいね」
俺はもうなにがなにやら。
恥ずかしさと、なんかもういろいろパニックで。
雅の胸に顔をうずめて隠した。
細川さんがくすりと笑うのが聞こえた。
「そのようで」
「早めに帰ってくださいね。僕たち、夜を楽しみに1日仕事を頑張っているので」
「……っ!」
雅はそう言って、しがみつく俺の頭にキスを落とす。
「では私はこれで」
「名古屋まで気をつけて帰ってくださいね」
細川さんが立ち上がる音。
雅が俺の背中を叩く。
そろりそろりと顔をあげると、雅と目があった。
彼はいたずらっ子っぽく、舌を出した。
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