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第31話

 予約していなかったこともあって、何時間も待たされたが、どうにかこうにか午前中の診察時間内に医者に会うことができた。  医者は淡々と言う。 「では、毛髪と血中の番情報が一致したら薬を作ります。だいたい1週間かかりますが、今回は年末休暇がありますので、その前に届くか、あとに届くか……完成次第、電話でお知らせします」 「はい」  雅とともに暮らしていた家を出てホテルに一泊した翌日の土曜日。  俺は八王子の病院に来ていた。  ここは俺が20歳のころに入院していて、うなじを噛まれた病院だ。  大きな総合病院で、オメガを専門に診てくれるオメガ科をもっている。  俺はそこに雅の髪の毛を持ち込んでいた――番解消の注射をつくってもらうために。  50がらみの医者が白髪をなでつけながら尋ねる。 「お相手のアルファの同意書はありますか?」 「……これです」  俺は勝手に代筆した書類を差し出す。  わずかに手が震えたが、医者はそれを疑うことなく受け取った。  これで手続きは終わりだ。  あとは完成した注射を打てば、俺と雅の番は解消される。  俺はそっと息を吐いた。  ひどく緊張していたらしい。  俺はそっとうなじに残る歯型を撫でる。 「これは、消えますかね」 「どうでしょう。さすがに番が成立してから10年経過していますから……薄くはなるでしょうが……」  医者は励ますような視線を向けて来るが、俺は内心ほっとしていた。  これが消えるのは、少し寂しかったのだ。  医者は感心したように言う。 「それにしても。よく見つけられましたね。お相手のアルファ」  目の前の医者は、かつて俺がうなじを噛まれたときにこの病院にいて、俺が見ず知らずのアルファとの番が成立していることを告げた医者でもある。  俺は頬を掻いた。 「ほんと、奇跡ですよ。……俺ってやっぱり、ラッキーヒューマンみたいです」  雅に出会えたのはとんでもない確率だ。  俺は改めてその奇跡を噛み締める。  たとえ道は分かれても、こうして出会えただけで、十分だ。 「よかったです。ずっと藤堂さんのこと気になっていたので」 「いやぁ。その節はどうもお世話に」 「これから、どうするんです?」  俺は苦笑して答える。 「……まぁ、しばらくふつうのオメガらしい生活を送ってみることにします。人生初のオメガライフです」  明るく言ったつもりだが、医者の表情は渋い。 「では、お仕事は?」 「ひとまず休職にする予定です」 「……残念ですね」  俺は肩を竦めてみせた。 「案外、家に引きこもって暮らすってのも、性にあっているかもしれません。ものは試しってことで」  そう。いままでがラッキーだっただけで、オメガに生まれたなら制限がかけられるのが、ふつうなのだから。  オメガは仕事はできないし、外出には外出許可をとる必要がある。  発情期になればアルファを求めてさまよい歩かないように手足を縛るオメガもいるとか。  その生活を想像して、俺は目を伏せる。  医者は同意書をじっと見つめる。 「お相手のアルファもびっくりしたんじゃないですか? 藤堂さんのこと、知らなかったんですよね」 「びっくり……それはどうでしょう」  雅は置き手紙を読んでどう思っただろうか。  知りたい気持ち半分、知りたくない気持ち半分だった。  俺のスマートフォンには雅からの着信がひっきりなしに入っている。  しかし、俺はそれに出る勇気がなかった。  彼と話すのは、番を解消して、次の発情期を終えて、匂いで雅を惑わせなくなってからと決めていた。  それが、いま俺が彼に用意してやれる精いっぱいのフェアな状況だ。  俺は反対に医者に尋ねる。 「その、番になっていたアルファは、俺を噛んだときは18歳で、まだアルファだとわかる前だったとか。そんなことってあるんですかね」 「不思議ですね。通常、番というのは、そういう風に成立するものではないのですが」  医者は首を傾げる。 「ご存じかと思いますが、番はオメガが発情期を迎えていることと、アルファがオメガの匂いに反応する、つまりアルファとして成熟しているときにうなじを噛むことが条件で成立するんです。まだアルファやオメガとして成熟していないふたりで番が成立するというのは、聞いたことがありません」 「……そう、ですよね。ありがとうございます」 「調べてみて、なにかわかりましたらまたご連絡しますよ」 「ありがとうございます」  俺は肩を落とす。  俺と雅に訪れた不思議な出来事。  それについて、どんなことでもいいから知りたかった。  しかし、それは叶わないらしい。  俺が頭を下げて診察室から出ようとしたとき、ふと医者が「そういえば」と言った。 「最近、新しい抑制剤の研究が進んでいるんですよ」  振り返ると、医者は神妙な顔をしていた。 「新しい、抑制剤、ですか」  そういえば、そんな話を雅の父から聞いたような気がする。  そのときは俺にはまだ関係のない話だと思っていたが。  医者は続ける。 「このまま順当にいけば来年には発売される見込みです」 「へぇ」 「いまちょうど治験を受けていただけるオメガを探しているんです。番がいないことが条件です。番解消後、もしご興味があればご協力をお願いします」  そう言って、冊子を差し出される。 「あ、はい」  それを受け取る。  意外と分厚い。 「抑制剤さえあれば、オメガの社会進出なんて、あっという間に広まりますよ。藤堂さんも、希望をもってくださいね」  どうやら、俺はずいぶんと落ち込んでいるように見えるらしい。 「……ありがとうございます」  俺は苦笑した。  自由を失うことよりも、雅との番が解消されることのほうが寂しいなど、誰にも言えるはずがない。  診察室を出て、スマートフォンで時間を確認する。  もう13時だ。  ミュートにしているそれには、雅からの着信が99+と表示されていた。  俺はそれをまた見なかったことにした。

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