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第36話
結局、俺が眠りについたのは朝方、窓の向こうが白くなってからだった。
そうして一度寝て起きたら、もう朝9時半を過ぎていた。
「寝すぎ……」
声がかすれる。
ベッドから起き上がろうとすると、体が重かった。
この感覚を、俺は知っている。
妙に暑くて、冷たくて、腹がずんと重い――発情期だ。
俺は小さく舌打ちをした。
「こんなときに……」
日付を見る。
12月25日。予定より、10日以上早い。
「はぁ……」
頭を抱える。
ここのところ、雅との身体接触が続いて、体が期待してしまったのだろうか。
うなじの歯型がじくじくと痛む。
この感じだと、今夜あたりから本格的に発情がはじまりそうだ。
「どうするか……」
俺はぼんやりしたまま寝返りを打つ。
比較したことがあるわけではないが、番がいるオメガの発情期は、いないオメガと比べて楽らしい。
実際、俺の場合は3日も寝ていれば終わる。
俺の実家は古い二階建ての戸建てで、俺の部屋は2階にある。
自分の部屋に籠ってやりすごせばいい。
しかし、大卒で家を出てから早8年。
いまさら親に発情期の世話をしてもらうのには、抵抗がある。
「いや、でも今回ばかりはしかたないな……」
どちらにせよ、この状態では雅には会えない。
実家でやりすごすしかない。
手を伸ばして、スマートフォンを手に取る。
俺はゆっくりとそれに充電ケーブルを挿そうとして――やめた。
「だめだ」
俺は首を振る。
「発情期に雅に連絡とると……自分が何を言うかわからないぞ」
スマートフォンをしまったとき、階下から母さんが俺を呼んだ。
「泰斗、お客さんよー」
「……客?」
俺が返事をしないでいると、母さんはぱたぱたと軽い足音を響かせて部屋にやってきた。
「なに、あんた、まだ寝てたの?」
「んー……」
「顔赤いわよ。熱でもあるんじゃない?」
「……まだ、へーき。それより、客って?」
「なんだかとってもいい男の人よ。玄関で待ってもらってるけど、どうする?」
「いい男ぉ?」
まさか――。
俺はあわてて着替えて部屋を飛び出す。
玄関をあけると、そこには鮮やかな赤と黄色の縞模様のマフラーを巻いた着た人物がいた。
俺は目を丸くした。
「ぶ、部長……!?」
「やっほー」
彼は片手を挙げて当然のように挨拶をしているが、俺は動揺しまくりだ。
「な、なんで俺の実家を……?」
「発掘したんだよ」
「発掘?」
「年賀状。お前が新卒のときの」
そう言って、彼が示したのは、俺の古い年賀状だった。
裏面には、俺の実家の住所が書かれている。
当時、親がつくった年賀状をそのまま流用したものだ。
彼は笑う。
「いやぁ。古き悪しき文化だったけど、いまとなっては恋しいねぇ」
「はぁ……」
ふざけて年賀状にキスを落としてみせる部長を見て、俺はひそかに肩を落とした。
雅が来たのではないかと、ちょっと、ほんのちょっぴり期待してしまっていた自分がいたのだ。
俺は呼吸を整えてから「なんの用ですか?」と尋ねる。
彼は頭をがしがしと掻く。
「焦ったよぉ。月曜日から年末まで休みますって言うから、何事かと思って連絡したのに電話もチャットも返事がなくてさぁ」
「……すみません」
「もしかして、解消したの? 雅くんとの番」
「いや……」
「あれ、そうなんだ。てっきり、番を解消したから外を歩けないし、おまけに仕事も辞めるって話かと思って飛んできたのに」
「それは……。一応、まだ……」
言葉を濁したつもりだが、部長はにごした部分を的確に突く。
「まだ、ってことは、解消する予定が立った、ってこと?」
「ええと……注射は、一応、作ってもらう予定で……」
部長は笑った。
「そういうことだと思った」
そして胸を叩く。
「助けに来たよん」
「助け……?」
「番がいないと、困るでしょ? いいアルファを紹介しようか。北小路先達っていうんだけど?」
俺は目を瞬かせた。
「……へ」
「えー……せっかく格好つけたんだからさ、もっといい反応してよ」
「いや、ええと……?」
彼は混乱する俺に、堂々と言う。
「だからぁ、番ごっこだよ。ね、嘘から出た誠って言葉もあるって言ったじゃん。ボクと番ごっこ、どう?」
俺はさらに混乱する。
「いや、でもそれはさすがに」
「なにを悩むことがあるのさ。番がいたらなにかと便利なのはもう知ってるでしょ? 仕事も続けていいし、おまけにボク、紳士だよ? お買い得」
「ええっと……?」
ずいっと顔を近づけてくる部長を、両手で押し留める。
しかし、その手を強く捕まれる。
「藤堂さ」
彼はまじまじと俺を見る。
火照って、呼吸が速い俺。
「もしかして、発情期来てる?」
ひゅ、と喉が鳴った。
腕を強く引かれて、均衡を崩して彼の胸に倒れ込む。
「あれ、図星? なら、話が早くて助かるよ。……このままうちに来なよ」
部長は意外と鍛えているらしく、倒れ込んだ俺を支えてくれる。
「注射がいつできるのか知らないけど、間に合うなら、そのまま噛んであげるからさ」
部長が俺に彼のマフラーを巻く――首輪をつけるみたいに。
彼は笑う。
「ね、全部解決じゃん」
彼に肩を抱かれ、引きずられるようにして歩き出す。
彼の手が、俺の肩に食い込む。
「部長!」
「先達って呼んでいいよん」
部長は相変わらず飄々としていて、その真意は読み取れない。
しかし、逃がさないとでも言うように、俺をぐいぐいと引っ張っていく。
彼は「タクシー待たせてるから」と言う。
見ると、たしかに角にタクシーが待っている。
冗談なのか、いや、こんなたちの悪い冗談を言う人ではない。
では、本気なのか。
俺は唾を飲み込む。
もし、もし、彼と番になったとしたら、それはまちがいなく、楽だ。
オメガとしての制限をかけられることもなく、仕事も続けられて……なにもかも、いままで通り。
きっと、一番楽な選択肢だ。
それを、彼の方から提示してくれている。
俺はこのままついていくだけでいい。
しかし。
脳裏に、明るい茶色の髪がよぎる。
律義で、面倒くさいところもいっぱいあって、でもかわいいところもある。
料理が上手で、卵かけご飯を出したら嫌な顔をしながらも毎回食べきって、手をつないでやると嬉しそうに笑って。
――雅。
口の中でその名前を転がす。
自分が傷つくのを恐れて、ここまで逃げて来た。
また、逃げていいのか。
だめだ。
俺は、いま、変わらないといけない。
雅のために――俺のために。
「すみません、部長」
振り絞った声は、不思議なくらいに力強く響いた。
一度、息を吸う。
「部長とは――番にもなれないし、番ごっこもできないです」
「……えー」
「俺」
もう迷いはなかった。
「雅のことが、好きなんです」
声に出してしまえば、なんて単純なことだろう。
言葉が次々とあふれ出る。
「俺たち、嘘をつきまくってるんです。だから、1回ちゃんと話したくて。話さないといけないです。俺、発情期終わったら雅と……」
「でもさぁ」
部長は相変わらずの笑顔だが、その目は、どこか冷たい。
「雅くんが嫌だって言ったら?」
「そうなったら――」
言葉を続けようとした、そのとき。
「嫌だなんて、言うわけないじゃないですか」
聞き覚えのある声がした。
ここにいるはずのない人物の声だ。
ゆっくりと振り返ると――。
「雅……」
アルファの匂いが、俺の脳髄を揺らした。
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