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第37話

 部長は「は~あ」とため息をつく。 「来なくてよかったのにさぁ」  雅はキッと部長を睨む。 「泰斗さんを放してください」 「なんでここに? 藤堂の実家だよ、ここ?」 「あなたには関係ありません」  ふたりのやり取りが、まったく頭に入らない。 「み、雅……」  俺は身を縮こまらせて、部長の後ろに隠れるように座り込む。  いま、雅に会うのは、まずい。  雅が発するアルファの匂い。  それを、発情期の俺の体は鮮明に嗅ぎ分ける。  思考が乱れる。  汗が伝い、呼吸がはやくなる。  これが――。  俺は唾を飲み込む。  これが、発情期。  これが、番。  以前、雅とキスをしたときとは、比べようもないほどの熱。  油断したら、理性など吹き飛ばされてしまいそうだ。  俺は地面に膝をつき、二の腕に自身の爪を食い込ませた。 「泰斗さん?」 「いま、俺、その……」  部長は俺の背に手を添えると、雅にしっしっ、と手で追い払うようなしぐさをする。 「発情期だって。キッズはお呼びじゃないよ」 「……北小路と番だというのは嘘だったんでしょう?」 「うっそ、呼び捨て? ボクだいぶ年上だよ? これだから今時の子は」 「お前は黙ってろ!」  激高した雅を見て、俺はとっさに口を開く。 「雅!」  ふたりの視線がいっせいに俺に集まる。  俺は回らない頭で懸命に言葉を選ぶ。 「いま、その、発情期で、その、ええと、たぶん本格的にはじまるのは今夜だと思うんだけど……終わったあとでじっくり話したいというか」  雅は目をつりあげる。 「いま話しましょう。いま話すべきです」 「それは……無理だと思う」 「どうして」 「だって、匂いで……」  言葉は尻すぼみになる。  雅は一歩、俺に近づく。 「匂いで、なんですか」 「番だから、俺の匂いが、すごく、雅に効いてしまうんだよ。その、だから……俺の匂いで、雅が……雅でなくなってしまうのが……怖い」 「泰斗さん」  雅は胸に手を当てる。 「僕は、僕です」  その目が、俺を捕える。 「匂いなんて関係なく、あなたのことが好きなんです」 「……っ」  雅は続ける。 「さっき、僕のことが好きなんだと、言ってくれましたよね」 「……それは」 「寝不足の僕の幻聴でしたか?」 「……雅」  彼の目の下には、疲労のあとがくっきりと残っている。  いなくなった俺を探しまわってくれていたのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げる。  手が震える。  心臓がうるさい。  ああ、いますぐに彼に抱き着きたい。  しかし欲が募れば募るほど、俺は恐怖した。  いま雅を突き動かしているものは、何だ。  番を逃すまいとするアルファの本能か。  それとも――。  俺はもうなにがなんだかわからなかった。  ただただ、体が熱くて、苦しかった。  俺は力なく首を振る。 「雅……ほんとうに、いまは無理だ。終わってから……」  ためらう俺。  雅は迷わず俺の方に一歩また近づく。 「泰斗さん。あなたの手紙にはこう書いてありましたね」  彼は俺から目を逸らさない。 「僕とあなたは10年前に番になっていたのだと。だから、僕があなたを抱いたのは、番の匂いに惑わされたからだ、と。あなたは罪悪感を抱いているようですが、はっきり言っておきます――僕はあなたの匂いに惑わされていません。僕はあなたが好きなんです」  なぜそう言い切れる。  番の匂いの恐ろしさは、いま俺自身が身をもって体験している。  俺の心を読んだかのように、雅は胸を張る。 「――証明できます。僕についてきてください」  雅に手を差し出される。  その手は、震えていた。  視界がにじむ。 「あ……」  雅の頬も赤く染まっている。  その瞳はうるみ、呼吸も荒い。  絶対に、俺の匂いの影響を受けている。  わかっている。  なのに。  ――彼を信じてみたいと思ってしまう自分を、とめられない。  俺はゆっくりとその手をとる。  隣にいる部長が天を仰いだ気がした。  きっと、傍目には馬鹿な行動なのかもしれない。  でも、一度雅の肌に触れてしまうと、もうとめられない。  全身の血管が脈打ち、彼を欲する。  気が付いたら、俺は雅にしがみつくように抱き着いていた。  雅は俺をあやすように背をぽんぽんと優しく叩いてくれる。 「泰斗さん……僕を信じてください」 「……うん」  雅の体温を感じる。  息がうまくできない。  もう何も考えられない。  ただただ、雅がほしい。  雅は俺をきつく抱きしめると、俺越しに部長に言う。 「泰斗さんはこんな状態なので。タクシー、もらっていきます」  部長が息を飲む気配。 「え。ボクにどうやって帰れっていうのさ」 「歩けばいいでしょう」 「えー……まぁ、いいケド」  部長が俺を呼ぶ。 「藤堂」 「……はい」 「年明け、ちゃんと仕事来るんだよ。待ってる。お前はうちの大事な戦力なんだから」 「……ありが、とう……ございます」 「ご家族にはボクがうまいこと言っとくよー」  返事をする前に、俺はタクシーに押し込められた。

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