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第38話

「すみません、港区の……」  雅が運転手に告げたのは、俺たちが住んでいるマンションの住所だった。 「雅……」  俺がぽつりと言うと、雅は俺の手をぎゅっと握ってくれた。 「大丈夫です。すぐ着きますよ」 「……うん」  肩を抱き寄せられて、雅の肩に頭を預ける。  しかし、俺はすぐに体を離す。 「匂いますか」 「……うん」  オメガは発情期にアルファの匂いを強く感じるようになる。  俺は胸の上に左手を置いた。  ずっと心臓がばくばくと鳴っている。  雅は俺の手をまた握る。 「もう少し、耐えられますか」 「俺は……オメガだから。雅のほうが……」 「……僕は平気です」 「……」  発情期のオメガは誘惑する匂いを放ち、アルファはそれに惑わされる。  いま、雅は俺よりつらいはずだ。  しかし、彼はただ窓を開けただけだった。  八王子から港区まで高速道路を使って1時間半。  妙な気配を察して、運転手は黙ったままラジオをつける。  リスナーからのリクエストで曲をかけるという番組が流れた。  車内には軽快な音楽で満たされる。  俺たちは互いに黙ったままだった。  でも、雅の手はずっと俺の手の甲をあやすように撫でていた。  彼の手は、俺より熱かった。 *  マンションに着いたとき、俺はもう自力では立っていられなかった。 「はぁ……っ」  雅に抱えられるようにしてソファまでたどり着くと、そのまま倒れ込む。  頭のなかはアルファを求めるオメガの本能の叫びでいっぱいだ。  俺はそれを必死に噛み殺す。  雅はコートを床に脱ぎ捨てて、ソファの横に膝をつく。 「泰斗さん、お帰りなさい」 「うん……」  乱雑に置かれたコートが気になった。  彼はこんな脱ぎ方をするタイプの人間ではない。 「雅」 「大丈夫か……?」  なにが、とは俺は問えなかった。  しかし、俺の心の揺れを、雅は正確に理解した。 「泰斗さん」  頬を撫でられる。 「僕はあなたの匂いに惑わされていません」 「……うん」 「証明します」  雅は力強くそう言う。 「泰斗さん、発情期は何日続きますか」 「み、3日くらい……」 「わかりました」  雅は立ち上がると、いつだったか使っていたマスキングテープをとりだした。  彼は慣れた手つきで床にそれを張ると、こう宣言した。   「なら、僕、これから3日後の0時まで、こっちからこっちで暮らします」 「……は?」  これはいっしょに暮らしはじめたときに、雅が俺の生活に耐えかねたときと同じ床の状況だ。  ただ、そのときとは理由は違うが。  雅の顔は真剣そのものだ。 「僕の理性を舐めないでください」 「ええと」 「オメガの匂いなんかに惑わされていないことを証明します。僕は、抗おうと思えば抗えます。まえホテルにあなたを連れていったのは、僕の決断です。これで、証明できますよね?」 「……なるほど」  ここのところ、少し雰囲気も柔らかくなって忘れていたが、やっぱり雅は――。 「律義すぎるだろ……」  俺は天を仰ぐ。  ああ、この堅物。  いや、だから俺も惚れたのだ。  彼は胸を張る。 「なにか問題でも?」 「……いや、ないよ」 「……あんまり寄って来るなよ。俺もアルファの匂いを嗅ぐとしんどい」  そう言うと、雅は悲しそうな顔をした。 「……」 「なんでそんな顔をするんだよ」  お前が言い出したことだろうが。  それからはじまった3日間。  最初はなんというか、緊張感がなかった。  雅は、絶対に耐える。  不思議とその確信が、俺にはあった。  それでも、俺は「やめよう」とは言えなかった。  わけもわからず番になった俺たちにとって、なんとなくこれは必要なことに思えた。  今度ずっと、彼といっしょにいるために――。  しかし、一つ屋根の下にいるわけだから、この3日間、俺は何度も雅と目があった。  そのたびに、俺は腹の奥がうずくのを感じた。  オメガの本能は、ずっとアルファを欲している。  なのに、雅は涼しい顔をしている。  雅はどこまでも理性的だった。  彼が自ら引いた線を、しっかりと守った。  しかし、俺の発情がしんどくて立てないときは、「臨機応変が大事です」と言って俺を抱きあげてベッドまで運ぶこともあった。  触れたり、触れなかったり、近くて、遠くて。  ――俺の方が、じれてくる。  俺は何度もカレンダーを見た。 「あと、1日……」  はやくそのときが来てほしかった。  時間は遅遅として進まない。  人生で、一番長い3日間だった。  期限は3日後の夜0時。  そのときを、俺はじっと待っていた。  その夜は、シャワーを浴びたあと、どちらともなく寝室に入ることなく、リビングにいた。  俺はソファに横になって、雅はダイニングに座っている。  ふたりとも、視線はテレビの横にある壁時計にくぎ付けだ。  時計の針は、23時55分を指している。  ――あと5分。  俺はぽつりと言う。 「……もう、いいだろ」  背後で、雅が首を振る気配。 「まだだめです」 「……」  予想通りの返答に、俺は苦笑する。  そう。  雅はそうでないと。  秒針はゆっくりと、分針はさらにゆっくりと動く。  通常ならもう発情期は終えていてもいいころだ。  その証拠に、あんなに俺を苛めた雅のアルファの匂いは、この距離にいたらもう知覚できない。  それでも、胸はまだ高鳴っていた。  はやく、はやく。  俺は時計をじっと見つめる。  分針が動くたびに、心臓が跳ねる。  0時になったら、雅に「よくやった」とほめてやらないといけないな。  それから――。  やっと針が0時を指した。  俺がソファから身を起そうとすると、視界がふさがれた。 「んっ……!?」  唇にやわらかいものが押し当てられる。  雅の綺麗な茶色い髪が目の前にあって、やっと、キスされていると悟る。  俺は力強くソファに押し倒され、口内を深くまさぐられる。 「み……っ」  やっと離れたと思ったら、ぎらぎらとした目が、俺を見下ろしていた。 「泰斗さん……!」  ああ。  俺はよろこびを噛み締める。 「あなたがほしいです……」  ――じれていたのは、俺ひとりではなかったようだ。 「ベッドに行くか?」  俺が誘うと、雅は俺を抱きあげた。  ベッドにゆっくりと下ろされる。  雅の額が、俺の肩に落ちる。  荒い息が、首筋にかかる。 「……3日間、ずっと我慢してたんです」 「……俺もだよ」 「もう離しません」  俺は笑う。  雅の髪に触れる。 「頑張ったな」  そうして抱きしめてやると、雅はすねたように言う。 「子ども扱いしないでください……」 「ごめん。つい……」  雅はゆっくりと俺と目を合わせる。 「もう一度言ってくれませんか」 「なにを?」 「僕を、好きだと……」  雅の頬は赤くて、瞳は少し不安げに揺れる。  視線が絡まる。  そういえば、面と向かって言うのは、はじめてだ。  俺はゆっくりと息を吸いこむ。  そして、雅の頬を両手で挟んだ。 「好きだよ」  雅の喉が上下に動く。 「俺、お前が好きなんだ」 「僕も……愛しています」 「そんなの、もうわかってる」  雅は俺の手を取って、キスを落とす。 「もう逃げないでくださいよ」 「……悪かったよ」 「僕を信じてください」 「もちろん」  俺たちは、再びキスを交わした。  

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