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第8話

 とはいっても、知らなかった日々に戻るなんて現実には難しいことだった。目に見えないほどの小さな綻びでも、傷というものは一度ついたが最後、必ず広がってしまうものらしい。  あれから二度ヒートが来た。しかし、ケイシーはノートに書かれてあった成分について持ち出してくることもなく、結果は失敗ばかりで、疑念は募ってしまう一方だった。   「昨夜はどうだった?」    四六時中俺のそばに付きっきりのケイシーも、珍しいことに昨夜は違っていた。二つ隣の小国ティナ国の王子と王女が外交訪問しており、二日目にしてエインズワース家を名指しで食事に招いたと聞いていた。   「……二時間も取られてしまって、申し訳ありませんでした」 「いや、そういうことじゃなくて、アリシア王女のことだ」    晩餐の席に出席していた貴族が吹聴したようで、ケイシーが王女に見初められたとの話で朝から王都中が持ちきりだった。   「アリシア殿下のほうはなんの問題もありません。問題があるのはフレデリク殿下です」 「……なぜだ? 人の良い方だったではないか」    フレデリク殿下は柔和な雰囲気の優しげな青年で、政治から文学まで多様な知識を持っており、さすが先鋭的なティナ国の次期国王だと目を見張るような方だった。   「一応わたしからもあなた様がアルファであることを重ねてご承知おきいただきましたが、非常に芳しくないご様子でした」    アリシア王女はオメガで、フレデリク王子はアルファである。だからといって、アルファで通っている俺と何の関係があるというのか。   「アリシア王女が目を留められたのは俺じゃない。おまえだろう? 申し出があったというのは事実なのか?」 「……はい」 「よかったじゃないか。フレデリク王子が反対するような方とは思えないし、なによりオメガなんだからアルファに嫁ぐのは当然だろう?」    アリシア王女はケイシーの結婚相手として申し分のない相手である。むしろ伯爵令息の立場で王女に見初められるとは、これ以上ない良縁といっていい。強い軍隊と発達した技術を持つティナ国は、小国ながらに近隣諸国から一目を置かれている存在だ。だからと気後れする気持ちもわからないではないが、ケイシーなら危惧する必要はないだろう。   「……わたしはお断りするつもりであります。あなた様のおそばから離れるつもりはありませんので」    絶句するとはこのことだ。俺に対する忠義心のあまり、この良縁を自ら手放すつもりらしい。  抑制剤が完成できない現状、ケイシーを解放してやれる最良の方法だと安堵していたのに。  どうしたものかと頭を捻っていた俺は、不愉快極まりないルーティンであるピエールとの昼食の席で、思ってもみなかった光明を見出すこととなった。   「フレデリク王子と話したんだが、おまえをたいそう気に入ったようでな、アルファでも婚姻させてもらえるのか、正式に申し出があったぞ」 「婚姻……でありますか?」 「そうだ。俺にはすでにアルファの息子が二人もいて、父上も健在だ。おまえが他国へ嫁いでくれたら国としても大いに助かる話なんだがな」    ゲームの強制力なのか、と頭によぎったが、おそらくはゼンダントの抱える問題にそもそもの理由がある。  俺がオメガであることを隠さずにいた場合、ゲームの展開と同様にキリアン国へ嫁がされていた。目的は武力的庇護を受けるためだ。この世界は魔物と呼ばれる猛獣が国をまたいであちこちにはびこっている。そのことから、国の軍事力が他国への影響力を主にしており、ゼンダントは資源的に豊富で生産力も高いというのに、その点で劣るがゆえにどうしても立場を弱くしていた。   「アルファとアルファの結婚なんて可能なのでしょうか」 「別に構わぬだろう。ベータとベータはするんだ」 「ですが……」 「王子妃として申し出てくれているのはおまえの立場を考慮してのことだ。実態は愛人だろうが、こんな願ってもない話は二度とないぞ? いや、エマニュエルもおまえを気に入っているから、この話をしたら自分もと名乗り出てくるかもしれん。……選ばせてやるよ、ルイ」    にやにやと口の端を吊り上げているピエールは、まるであてこすっているかのようだった。  俺がオメガであるとわかっていて、だから表向きには無茶な申し出にも反発しなかったのではないか。いや、どちらにせよピエールにとっては同じだ。俺を利用できればアルファだろうと関係ないのだろう。  アルファとして生き抜こうと決めたとき、政略結婚によって得られる分の利をどうにか埋められないものかと駆けずり回ってきた。しかし、騎士団の長や幹部はピエールとの繋がりのほうが深い。やる気がないとは言いたくないが、俺だけの力では大海の一滴ほどの影響力しか与られていないのが現状だった。   「承知いたしました」 「……おや、簡単に腹をくくったな?」 「ゼンダントのためになることでしたら」 「ふん。おまえにしては最上の答えだな。となれば、俺のほうで話を進めておく。おまえはアルファに抱かれる準備でも済ませておけばいい……慣れてるのかもしれないがな」    一言どころか二言も多い野郎だ。ピエールの思惑に乗ったようで面白くはないが、これ以上のベストな選択はないはずだ。  オメガであることがバレてしまっても、フレデリク王子は喜びこそすれ不服と断じたりはしないだろう。ゼンダントのためにもなり、ケイシーにも幸福を与えてやれる。おそらく陵辱死させられることはないと思うし、俺も含め誰のことも不幸にしない話なのだから。

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