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第3話

 その夜、夢を見た。  俺は谷から抜け出そうと壁を登っていた。近頃はもはや日常茶飯事になっている俺の脱走劇の一幕である。  月がちょうど真上にあがっていた。  ワイバーンと父は谷の奥底でぐっすりと眠っている。  俺はおっかなびっくり一歩一歩崖を登る。ワイバーンの住処となっている谷の崖は、ワイバーンが起こす火や風にやられて脆くなっている箇所がある。俺は慎重に、慎重に一歩を進める。  恐怖よりも、谷の上に何があるのか見たい好奇心の方が勝った。  俺はどんどん上へ上へと登った。  半ばまで来たとき、右足を乗せていたくぼみが崩れる。慌てたせいで、今度は右手が滑る。  そこからはすべてがスローモーションのように見えた。  満天の星、明るい月、そしてせまりくる地面。  俺は出来の悪いネジ巻き人形のように、手足をばたばたさせながら落ちていく。  ――死ぬかも。  どこか呑気に、俺は最悪の未来を予想して目を閉じた。 「坊ちゃーん! 起きてください!」  ファの声で俺は覚醒した。 「う、ううん……」 「ほら、起きてください」  見慣れぬ天蓋が見えた。そして高さの合わない枕。 「ええ、ここ……どこだ。俺、脱走したんだっけ?」 「寝ぼけてる暇はありませんよ。今日はうんと着飾らないと」 「ええ??」  ファに寝巻を脱がされながら、いま自分がおかれていた状況を思い出す。  見慣れない家具に、窓のない寝室。    ――そうだ、俺はいまお見合い相手のヴァンパイアの城に来たのだった。  ファは手際よく俺を裸にすると、そのまま寝室の隣にある浴室に俺を放り投げた。  そして例の匂いのするお湯で頭からつま先まで洗われていく。  頭が現実に追いついていくと、見た夢の正体がわかった。 「二年前のこと、夢に見たよ」と俺はつぶやいた。 「二年前?」 「脱走しようとして、崖から落ちた時」  俺が言うと、ファは身をぷるぷると震わせた。 「ああ、あの時は大騒ぎでしたね」 「父さんもまだ風を操るのが下手だったよな」  あの時、俺が地面に激突する寸前、父が風を操って俺を救おうとしてくれたのだが、俺の体は数秒空中で停止したあと、再び落下した。きっと、父も平常心ではなかった。彼からしてみると、夜更けに大人しくしていた息子が崖から投身自殺をしていたのだから。  俺は眉の上に触れる。  いまでもそのときについた傷がそこに残っていた。  もっとも、俺は崖の中腹まで登っていたから、あのまま落ちていたら怪我では済まなかっただろう。 「もしかして、もう館に戻りたくなったんですか?」  ファのことばに俺は苦笑する。 「さすがに早いだろ」 「おや」とファは俺の言葉にくいつく。 「お見合いにやる気を出してくださるんですね?」 「なんでそうなるんだよ。俺はただ――」  一度言葉を切る。この表現が正しいのか、自信がなかった。 「俺は、こんな傷を作ってまで見たかった外の世界に、いまいるんだなぁって思って……あ、でも、精霊になるのが嫌なだけで、俺、別に父さんたちのことは嫌いじゃないからな」  ファは身をぷるぷると震わせた。 *  風呂を終えて身支度をしていると、部屋に控えめなノックの音が響いた。 「お届けものでございます」 「どうぞ」  ファが答える。 「失礼します」と入ってきたのはヴァンパイアに仕える下級の魔物が立っていた。彼は鶏の頭に、人間の体をしている。 「鏡をお持ちしました」 「ん?」 「ヴァンパイアの皆さまは鏡をお使いになりませんので……どの部屋にも準備がなく、いま城に届きまして……ご不便をおかけして申し訳ありません」 「あ、ああ」  俺にはこちらの世界のヴァンパイアの知識は乏しいが、日本でいうところのヴァンパイアと近縁であるなら、彼らに鏡は不要だろう。彼らはその姿を鏡に映せないのだから。  彼の後ろには大きな鏡台らしきものと、それを運ぶための使用人がいた。  俺は少しためらったあと、応えた。 「せっかくだけど、いいよ。俺、鏡は嫌いなんだ」 「……ですが」  ファが応じる。 「身支度は私がおりますから、大丈夫ですよ」 「……かしこまりました。お支度中、大変失礼を」  そういって、彼らは下がっていった。  彼らの後ろ姿を見送ってから、ファが言った。 「まだ鏡に慣れないんですか?」 「しかたないだろ」  俺は口をとがらせる。俺には前世の記憶があって、その姿は今世の姿とは異なっている。鏡を見ると、その姿が違和感となって襲ってくる。――他人の体に乗り込んで操っているような、そんな感覚だ。  それで、俺は鏡が苦手だった。なるべくなら今の姿を見たくなかったのだ。  ファはそれを十分理解してくれている。  彼は何も言わずに俺の髪をとかし、肌の手入れをして、服を選ぶ。  そもそも俺に美的センスというものはないからなにがよくて悪いのかわからないので、仕上がりを確認する必要もない。 「さあ、できましたよ」 「うん。今日は何するの?」 「さあ。それは相手にゆだねています。そろそろお迎えが来るんじゃないですかね」 「え?」  コンコン  タイミングを見計らっていたかのように、部屋にノックの音が落ちる。  ファが扉を開けると、そこには麗しい貴公子が立っていた。 「ご機嫌麗しゅう、愛しい人」  貴公子が丁寧に腰を折る。腰にくる重低音の声だ。こんな美男子に丁寧に接してもらう体験などしたことがない俺は、口を開けたり閉めたりしてよくわからない音を生み出すので精いっぱいだ。  彼はそんな俺を見て首をかしげる。 「お疲れですか」 「いっ、いいえ! 休めました! もう! ベッドがふっかふかで!」 「それはよかった。朝食をご一緒してもよろしいでしょうか。こんなかわいいひとと食事を共にできることは最上の幸せです」 「はい!? あ、はい! ぜひぜひ! ありがとうございます! わあ! ヴァンパイアって何食べるんだろう? 血かな?」 「ふふ、ご安心ください。人間の食事をご用意していますよ」  俺の応答を見て、ファがその半透明の体の色をくるくると変えている。こういう風に彼がなる時は何かものを言いたいのを我慢しているときだ。  ――何も言うな。俺だってがんばってるんだよ。  前世は恋人がいない歴=年齢で、友達もネット上にしかいないまま死を迎えた俺。  今世はワイバーンの谷とかいうまともな人間どころか魔族でさえ恐れおののいて近づかないような場所で家族以外と交流せずに育った俺。  要するに、俺という人間は他者と親密な関係を築いたことがなく、まして直球で好意を寄せられたことがないのだ。  それで、砂糖のような言葉を吐く彼に対応できるマニュアルが、俺にはないのである。 「では早速食堂に参りましょうか。エスコートしても?」  彼が手を差し出す。イケメンだが、男だ。そして親密になると結婚の可能性がある男だ。  俺は無邪気を装い彼の好意を断った。 「わあー、わぁーい。俺、お腹ぺこぺこー。食堂まで走っちゃおー」    目が泳ぎ、棒読みの俺を見て、ファがため息をついた。

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