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第31話

 ぐんぐん近づく大地を見ながら、俺の頭はどこか呑気だった。  ――たぶん大丈夫。  それは、経験に基づいた、確信に似た予想。  ここしばらくの間、何度も何度も落ちて、そのたびに救われた。   落下しながら、俺の中にひとつの記憶がよみがえった。  それは、俺がこちらの世界に来てはじめて落下を経験した日の記憶だ。そのとき、俺は16歳だった。俺は父に隠れて谷を出ようとしていた。  真夜中だった。まんまるい月が満天の星空の真ん中にぽっかりと穴のように浮いていた。  俺は谷の崖を登った。人間の里へ行くつもりだった。  崖の中ほどまで来たとき、右足を乗せていたくぼみが崩れた。慌てたせいで、今度は右手が滑った。そして足を踏み外す。視界一杯に夜空が広がって、そのまま重力に従って下へ――。  悲鳴すら出なかった。ただ喉の奥がひゅ、と鳴っただけだった。  俺は目を固く閉じた。  世の理に従って地面に激突するはずの俺だったが、来るべき衝撃はいつまで待っても来なかった。  恐る恐る目を開けると、俺の体は宙に浮いていた。  否、正確には風で絨毯のようなものが現れて、その上に乗っかっていたのだ。 「わあ……」  俺が感嘆の声を上げた瞬間、その透明の絨毯は霧散した。 「わああああ!」  二度目の落下で、ようやく悲鳴が出た。  静まり返った谷に、俺の絶叫がこだまする。  幸いなことに落下距離はそれほどなかった。木の枝にひっかかって硬い地面への激突もまぬがれることもできた。 「う……」  痛みにうめく。目を開けると、目の中にどろりとした液体が入った。――血だ。 「やばっ……」  額に手を当てる。右眉のあたりが切れているようだった。堰を切ったように鮮血が流れていた。  血は頬を伝い、顎からしずくとなって地面に落ちる。その粒を目線で追って、ようやく自分が枝の上にいることに気が付く。 「た、高い……」  崖を登っているときは高揚していて恐怖を感じなかった。しかし、怪我を負って枝に力なくひっかかっているこの場合においては、高さは凄まじい恐怖を感じさせた。 「どうしよう……」  どうするもこうするもない。降りなくてはいけない。しかし、どうやって――。  考えはまとまらないまま、ただ時間だけが過ぎた。  真上にあった月が少し傾いたとき、異変に気が付いた精霊の父が建物の外に出て俺の名を呼んだ。 「ハルー!? どこだー!」 「と、父さん……父さん! ここだよ!」  父は枝にひっかかっている俺を見つけると、血相を変えて駆け寄って来た。彼があんなにも焦った顔をするのを見たのは、後にも先にもあの時だけだ。  ――そこまで回想したあと、俺は現実に引き戻された。  風の音は遠くなり、内臓が飛び出すような落下の浮遊感が消えたのだ。  目を開けると、俺は風の絨毯の上に乗って空の真ん中を飛んでいた。  そしてその絨毯を操るのは――。 「ボリス」  俺のつぶやきを合図にしたかのように、夜空の真ん中に貴公子が羽を広げて現れた。 「ハル様。ご無事ですか」  俺はまじまじと彼を見た。右眉の傷が少し傷んだ気がした。  ずっと、あのときは父が俺のことを助けたのだと思っていた。だって、あの谷において風を操れるのは彼しかいないはずなのだから。  しかし、かつて、ボリスの弟はこう言っていた。  ――「兄があなたを一目お見かけして心を奪われ、今回の見合いを申し込んだと聞きました」  俺は口を開く。 「ボリス、お前が、助けてくれたんだな。あの時も」 「あの時?」 「2年前」  俺が言うと、ボリスははっと目を見開いた。  そして彼は少しの間俺を見つめたあと、肩を落とした。まるで風船がしぼんでいくかのように、彼から力が抜けていく。  彼は弱弱しく言った。 「……黙っていて、申し訳ありません」 「なんで言ってくれなかったんだよ」 「……あなたに怪我を負わせてしまいました」  彼の手が、ゆっくりと俺の右眉の傷をなぞる。彼のきれいな顔がゆがむ。まるで彼自身が痛めつけられたかのようだ。  俺は笑った。 「そんなこと、気にしなくていいよ。むしろ、助けてくれてありがとう。……あのまま落ちてたら死んでたよ。今もだけど……」  ボリスは顔を伏せた。そして、絞り出すように言う。 「……愛しているのです。あなたを一目見たそのときから。外の世界に興味を持ち、冒険に出ようと輝く瞳をしたあなたのことが」 「うん」 「私と結婚してくださいませんか」  俺は思わずつっこむ。 「この状況でそういうことを言うか……!」  ボリスは少しだけ首をかしげて、それから心外だとでも言いたげに肩をすくめた。 「……断わられても落としたりしませんが」 「そ、そういうことではなくてだな!」  俺は視線を動かす。俺たちはもう地上の近くまできていた。  上にはカリマと父が、そして下には飛行しているダーダリオン、さらに下には走ってきたらしいダットと彼に背負われた母の姿があった。  彼らの目は風の絨毯の上にいる俺たちに注がれている。  ボリスはそれらを一瞥して「ああ」とうなずいたあと「何か問題でも? 何千人の目があろうとも、愛し合う者たちには関係ないと思いませんか」と言った。  俺はかっと顔がほてるのが分かった。  そうなのだ。  これがボリスなのだ。  自信家で、キザで、甘い言葉を平然と口に出して……俺にこの世界を最初に見せてくれた人。  そしてたぶん、俺がずっと抱いている冒険心を理解してくれる人だ。  俺は小さくうなずいた。たぶん、いまは耳まで真っ赤になっているはずだ。 「だめじゃ、ない」  それは、俺の精いっぱいの愛の言葉だ。  その言葉を俺が絞り出すと、ボリスが俺を抱き上げた。 「うわっ!」  俺は小さく悲鳴をあげるが、ボリスはそれには構わず、俺の胸に頬を寄せた。  彼のやわらかい金色の髪が俺の頬をくすぐる。 「ぼ、ボリス」  彼は赤い瞳をうごかして俺を見上げ、「もう一度」とねだった。  さっきまで、みんなの視線を感じて居心地が悪かったが、彼の腕の中に入った途端、その感覚は消え去り、代わりにいままで経験したことがない感覚に包まれていた。  それは、世界には二人しかいないという感覚だ。  俺は口を開いた。 「結婚しよう、ボリス」  夜空の真ん中で、俺とボリスはキスを交わした。

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