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第1話

 早春の風が吹く日、俺は腹から叫んだ。 「命拾いした~~!」  玄関を開け、家の中に転がり込む。住み慣れた家はいつも通りだが、今日ばかりはこのいつも通りが心にしみ入る。 「ただいまあ~~! もう帰れないかと……!」  そのまま長椅子に倒れ込み、見慣れた天井を見上げて感慨深くため息をついた。 「生きてる……」  俺はその事実をゆっくりと噛み締めた。  俺――セルジュはフラヌ国シュラレ村に住む普通の農民だ。恋人はいないし、家族もいない。両親は俺が十五のときに亡くなった。  俺は両親が遺してくれた畑を耕し、豚を育てて暮らしている。茶色い目に薄い茶色の髪をしたふつうの人間だ。  そんな平凡な俺であるが、ついさっき人生ではじめて命の危機を経験してきた。  袖をまくって手首を見る。そこには赤い跡が残っている。綱が食い込んだ跡だ。熱を孕み、じくじくとした痛む。 「痛~。ついでに頭も痛い……」  頭も杖のようなもので叩かれてたんこぶになっていた。  とはいえ、死を覚悟した身からしてみれば、この程度の傷で済んだのは奇跡に近い。  俺はしみじみとつぶやいた。 「幸運だった……。……もうしばらくディヌプの森には行きたくないな」  シュラレ村の北にはディヌプの森がある。オークやパインの木を中心とした広大な森だ。  言い伝えによると、この森にはエラーブルという森の精が住んでいるらしい。このエラーブルという精は恵みをもたらす代わりに生贄を要求する。  それで、村からは二十年に一度、十八~二〇歳の青年を生贄として捧げることになっていた。  そして今年がその二十年に一度の年であり、選ばれたのはまさにこの俺であった。  俺は二十歳で親族もなく、友人も少ない。生贄に選ぶのにちょうどいい材料がそろっていた。そういうこともあって、あれよあれよという間に生贄に選ばれてしまった。  生贄は森の奥のメープルの大木に生きたまま吊るされることになっている。  そして今日がその生贄の儀式を執り行う日であった。  俺は早朝から森の奥に連れていかれてよくわからない甘い液体を飲まされたあと、杖で頭を叩かれて、おとなしくなったところをメープルの木に吊るされたのである。  吊るされる瞬間のことを俺は思い出す。  俺は体が浮いた瞬間にかっと目を見開いて全力でぎゃあぎゃあと騒いだ。 「ちょっと待とう!? 俺、まだ死にたくないんだけど!」  俺が騒ぐせいで、伝統的な儀式だというのに神聖な雰囲気など微塵もなかった。 「せ、せめてなにか名言を残させて……!」  そう言いつつ、いまこの状況で名言を吐けるほど俺は賢くない。 「死にたくなーい!」  出てきたのは、心からの叫びだった。  その言葉に呼応するように、馬の蹄の音が森に響いた。  それは農民が生贄の儀式を行っていると聞きつけた領主オルム・シャテニエとその配下たちが乗る馬であった。  彼らは風の速さで農民たちを制圧すると、俺をメープルの木からおろしてくれた。 「大丈夫か」  そう言って、オルム様は手が汚れるのも構わずに俺の肩に手を置いた。 「あ……」  俺は腰を抜かして地べたにへたり込んだ。オルム様は太陽を背にしてこちらを覗き込む。その眩しさに、目を細めた。  彼は農民の前で宣言した。 「こんな馬鹿な儀式は即刻取りやめだ。海の向こうで何が起きているか知っているか? 鉄の塊が地を走り、空を飛んでいるのだぞ。新しい時代が来たのだ。伝説だの神だの、そんな旧時代の遺物いまここに捨てていけ」  俺の体に、鼓動が戻った。冷えた体の指先にまで熱が通う。  オルム様は俺に向き直って言った。 「怖かったな。もう大丈夫だ。私の民は誰一人として死なせるものか」  俺の心臓がまた跳ねた。オルム様は長身で鈍色の髪をひとつにまとめた麗人だ。そのきれいな鼻の形、眉の形。  俺はうっとりと彼を見つめた。 「オルム様……」  俺の心は、彼にすっかり奪われてしまった。  俺はオルム様に抱えられて馬に乗せてもらい、村に戻った。夢のような時間だった。  彼の腕の間に座って、俺は彼のために働こうと何度も何度も誓った。  ――それが、ほんのついさっきまでの出来事だ。  俺は自分の身を抱いた。まだ自分の体にオルム様の残り香があるような気がした。頬がゆるんでいくのを止められない。今日は風呂に入るのをやめておこうと思った。まだこの幸せな匂いをまとっていたかった。 「うへへ」  天上のお方に声をかけてもらい、命を助けてもらった。それこそ奇跡といってもいいだろう。俺は何度も何度もオルム様の顔を思い出す。 「~~~~!! かぁっこよかったなぁ」  仰向けになって、足をばたつかせる。いますぐにでも彼のもとに行きたい。  窓のそとをちらと見る。沈みかけの太陽が残光を投げかけている。その橙色の光の中、小高い丘の上が領主様の居城である。  さっきまで村の中心には長老たちが出てきてざわついていたが、それもオルム様がしずめてしまった。きっといまごろ、オルム様は城に戻られたころだろう。  ――新しい時代。  オルム様の言葉を思い出し、また胸がときめく。 「ああ……オルム様のために働きたいなぁ」  オルム様の城に奉公に上がりたい。できるなら役に立ちたい。そんな気持ちが強くなっていく。  ふつう、農民の子どもは農民に、商人の子どもは商人に、そして貴族の使用人の子どもは使用人になる。  農民の子どもに生まれた俺が貴族の使用人になるのは不可能だ。 「でも、新しい時代はきっとそんなんじゃないよな」  オルム様は身分にかかわらず能力がある者を採用することで有名だ。きっと俺にも機会があるはずだ。  俺はぐっと体に力を入れて立ち上がる。  ――いっぱい勉強して、剣の練習もして……。 「オルム様のそばに行きたい」  そして、恩を返すのだ。いや、そこまでできなくてもいい。匂いをかぎたい。見たい。  俺がそう決意の言葉を口にしたとき、誰もいないはずの部屋から相槌があった。 「ほう……それは立派なことだ」 「……え?」  弾かれたように振り返ると、部屋の隅に影が立っていた。陽の光が遮断されているかのように、影の立つ場所だけが暗く落ちくぼんでいる。  俺は目を見開く。奇異な現象を目の前にして、俺は声が出せなかった。ただぱくぱくと無意味に口を開閉する。  影はくつくつと喉の奥で笑う。 「その願い、叶えてやってもいい」  低い声だった。男の声だ。影は瞬く間に輪郭を得て人型となった。人型は足を踏み出す。  ぺた、と素足が床の上に落ちた音がした。同時に、人型は色と細部を手に入れる。  白い足が現れ、生成りのたっぷりの布地とそれに覆われた長身のすらりとした体が現れ、最後に新緑の長髪が現れる。  あまりの出来事に、俺は瞬きも忘れてしまった。時がとまったかのように、俺は指先ひとつ動かせない。  侵入者は悠然と歩き、髪をかきあげる。  そして彼は俺を見た。その目も、まつげの一本一本も、すべて朝露に濡れた葉のような色をしている。  彼は形のいい唇で弧を描いた。 「よく見るといい」  そう言って、彼は俺の手を取る。 「――これが、貴様の主の姿だ」  男の手は、硬く、冷たかった。――人間ではないかのように。

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