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第5話
「夜、偏 に長し」とその名を冠する北神の城は、夜の気配がしみとおる城である。
凍り付いた夜空に透きとおった月がぽつりと浮かぶ。その真下に大理石の冷たい城があった。
韶華 は少年を引き取るのは少しだけ待ってほしいと必ず伝えようと決意していた。そのつもりで城内に入ったのだが、城はどこか慌ただしい。仙女も侍女もそわそわとして落ち着かず、そこかしこからひそひそと声がもれてくる。しかし韶華も慌てて言い訳を考えていたために城内の騒ぎに少しも気づかなかった。
「ここでしばらくお待ちを」
考え事をしながら歩いていたために、呼び止める男の声もどこ吹く風である。よく知った城内だからこそ韶華の足はうろうろと歩き回ってしまうらしい。
このまま素直に北神には会えないぞ。まだ適当な言い訳も思いつかないのだから。なるべく時間を稼ぎたい。しかし昏々と思案する韶華の耳に、北神の素っ頓狂な声が届く。
「韶華……!」
あたふたと裾を蹴りつつ腕を大きく振り乱した青年が駆け寄ってくる。
大きな口ではあはあと息を吐き、汗まみれの顔に困惑を浮かべていた。あの回りくどい手紙を寄越した北神である。彼は目の前まで来ると、身体をぶつける勢いで韶華の背を押した。
「北神、久しいね」
毎回お決まりの言葉をかけるが、「やあ……」と北神は返事もそぞろにどこか浮ついた様子だ。
「……っすまない。……少し、城の中が騒がしくて、気づかなかった?」
言われて初めて、韶華はようやく城内を駆け回る足音や、韶華の投獄を噂する騒々しさに驚いた。
「ちっとも気づかなかった。それより、どうしてそんなに焦っている?」
「君を待たせていると聞いたから、すっ飛んできたんだ! 例の少年を迎えに来たんだろ? 何か、噂とか、耳に入っていないかな?」
「噂とは?」
ごくりと、北神が喉を鳴らした。周囲に素早く視線を走らせ、声を落とす。
「ここでは、ちょっと……」
きょろきょろと辺りを見回すと、北神は韶華の腕をひき、さっと近くの部屋へ忍び込んだ。
眉尻の下がった優しい顔つきの青年で、北都北帝の威厳をひけらかすような支配者像とはかけ離れていた。韶華は昔からこの青年を前にすると、なぜだか無性に苦笑いが込み上げてくる。
哀願する北神の顔が、文面越しに瞼の裏にちらついてたまらない。目元の涼しさを台無しにする下がり眉のせいだ。一度親切に剃り落としてあげようとしたのだけれど、北神は照れたような笑みを浮かべ、剃刀を持って戻ってきたときには逃げられていた。やはり、少し凜々しく整えたほうがいいだろう。
などと考えていると、北神は気がかりな様子で韶華の目を覗き込む。
「彼、幼神は、君が牢獄にいる間にうまれた神なんだ。ほら……、君が牢に入るきっかけになった事件があっただろう? それと因果のある少年で、それで、君に養育を頼んだわけだけれど」
そこまで一息に話し終えると、北神はふぅと息を吐いた。
「来てしまったから隠し事もできない。いずれ君の耳に入るんだ。素直に言うしかない……」
自分に言って聞かせるようだった。
歯切れの悪い一句ごとに韶華は北神に顔を寄せていく。
何をいうつもりだろうか? 食い入るように見つめていたとき、北神はいよいよ観念した様子で悍 ましい顔色をした。
「……今、その少年が、城に見えないんだ……!」
「なんだって?」
韶華も同じように顔を真っ青にさせると思ったのだ。けれど北神の困惑とは別に、韶華は思いがけず喜びに目を見開いていた。
「それってつまり」
「姿を、くらまされてしまって……」
「逃げられたってことだね」
真っ直ぐな韶華の言葉に北神がうっと息を詰めて苦々しく頷く。
「近くにいるのはわかるんだが、中々掴まらない」
「三十才といえば、難しい年頃だろうからね」
項垂れる北神をなだめながら、なんて幸運だろうか! 韶華は手を組んで喜んでいる。吉祥も幸福もすでに力は失われたと思っていたが、まだ見放されていなかったらしい。
北神には申し訳ないが、満面の笑みをこらえきれなかった。下手な言い訳をせずにすんだ。韶華は真っ先にそう思った。そして落ち込む北神に「実は……」とここまで来た理由を打ち明ける。
「そういうわけで、もう少し待ってもらおうと君にお願いに来たんだ。屋根も落ちてしまってね――」
「それならそうと早くいってくれれば……呼びつけておいて、彼の姿が見えなくなってしまったからどうしようかと焦っていたのが、馬鹿らしい……」
取り越し苦労だったのかと、お互いに目を見て安堵の笑みをかわしたところ、北神がハッとした顔で韶華の口を塞ぐ。耳を戸に押し当てて、しっ、と短く唇をすぼめた。
「……今、そこに誰かいたな」
韶華は戸の向こうを透かし見る。
鶏明 が探しに来たのかと思ったが、どうやら違うようだ。その人物を特定することは、刑罰によって力をほとんど失った韶華では難しい。夜闇に紛れて逃げていく気配に、ついにはまかれてしまった。北神の細い眉がすこし歪む。彼は聞き耳を立てていた人物に心当たりがあるようだ。だがそれを口にはださず、そっと戸を開け、近くにいた剣士に短く指示を出した。
北神が韶華に向き直ったとき、彼は好奇心の強い眼差しを投げかけた。
「……それで、家が燃えたって?」
「そうなんだ、どうして燃えてしまったのか……」
と韶華もまんざらではなく腕を組み、一緒にううんと唸る。
「鶏明が放火魔を探すといっているんだがね」
「放火なのか?」
北神のじれったい声に、韶華は困った顔で首をひねった。
「さあ? 放火ではないと思うんだけれどね……」
「はっきりしないな。鶏明が張り切っているだけ?」
北神はしまったと、思わず口を閉ざす。「鶏明」、と名前を出したことに後悔したらしい。
韶華の投獄について誰よりも、そして一際苛烈に抗議したのは彼だった。その彼に合わせる顔がないのだから、名前を呼ぶのもどこか気まずい思いがある。
北神はますます青い顔をして慌てて話題から距離をとる。
「……そういえば、蝋梅は、受け取ってくれた?」
しかし逃げた話題もまた、北神にとっては苦いものだった。言ってしまってから再びいやな顔をした。不届き者を追えと剣士に命令した目つきの鋭さは皆無であった。会話を準備してくればよかったとばかりに複雑な顔をして、北神はけれど蝋梅のこたえが気になるらしい。
青い顔で忙しなく視線を動かす北神が、おかしい。韶華はそっと唇に笑みを浮かべた。
「ああ、受け取ったよ」
「私だと、分かった?」
北神の瞳に寂しげな色が浮かんでいた。
「もちろんだとも。蝋梅と、冬の気配、それに墨のかおり。それだけで十分、君だと」
北神はため息ばかり吐いていたものだから、安堵する息も吐ききってしまった様子だ。かわりに大きく息を吸い込んだ。
韶華の両腕には赤くただれた火傷の痕がのこっている。四百年経とうと癒えないその傷に痛ましく顔をゆがめ、北神はおそるおそると触れた。
真偽正邪を裁く、盟神探湯の傷跡だった。
ぐらぐらと煮える熱湯を神具に満たし、そこに偽と邪な心を持つものの手をいれると焼け爛れるといわれる。
韶華の両腕はいわれと少しも違わず、その通りに爛れていた。
「……私を、許してくれるだろうか」
韶華は罪人の証が刻まれた手を北神からそっと取り上げ、背中に隠す。
「どうして君を、責められようか」
「また厄介なことを押しつけたと思っているのだろう。韶華を解放する手立てが、他に思いつかなかった」
「恩赦には、感謝しているよ。北神。今日は少年を引き取れないことを伝えに来ただけだから。そろそろ私は帰るよ」
微陽 という名が北神にはある。それを、以前は親しげに、微陽、韶華と呼び習わしていた記憶が、北神にはどうやら懐かしいらしい。
胸を痛めた顔でその背を見送っていることなど、韶華には知りようもなかった。
韶華といえば、ますます北神の湿っぽさに磨きがかかっているな、などと暢気に思っている。微陽という名があったことさえすっかり忘れていた。
城の外に出た韶華はのんびりと夜偏城 の池あたりをめぐった。
月明かりに輝く夜の池が、まるで露草をびっしりと敷き詰めたように鮮やかに照っていて、つい心が惹かれて歩いてきていた。
清らかな冷たい月の光が降りそそいでいる。そのほとりに、身を投げだした人影があることに歩き出してから気がついた。
暗やみで顔ははっきりとしない。けれど、気配は若者のようだ。包み隠す術もまだ持たないほどの、純粋でまっ白な気配。水陰を縫い取ったような浅葱色の美しい衣服から、いかにも荒々しい獰猛さが滲んでいた。
もう少し近づくと、その身体が池の中に半分ほど浸かっている。月明かりに照らされて、浮きのように身体を浮かす彼を、韶華は欄干ごしにちらりとみて足をとめた。
溺れているようにも、救助が必要そうにも見えない。片腕を眩しそうに掲げているせいだろう。
すっきりとした輪郭をもつ少年。
濡れた前髪の下にふと目をやって、韶華は息を呑む。
日射を象った美しい花の痣。無憂樹の花が、刻印を打ったように額に花開いていた。その美しい痣を韶華は吸い込まれるように見つめていた。吉祥の神を示す象徴に違いない。でなければ、これほど胸を打つはずがない。
なんて美しい象徴を……
彼は韶華のことなど少しと気づかず目を閉じている。
城内は例の少年の行方を追って慌ただしいというのに、彼はその騒がしさに全く興味がないようだった。自分には関係のないこととまるで他人事の態度だ。だから自然と韶華は、この少年が姿を消した、件の生まれたばかりの幼神なのだとわかった。
これほど目立つところにいて、なぜ護衛は駆けつけないのだろうか? それにいつのまにかあたりは不自然なほど静まり返って、夜偏城の騒ぎもぼんやりと遠い。
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