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第6話

 北神はおそらく彼の気配を感じとっているのだろうから、わざわざ伝えに戻るつもりはなかった。それに今は、彼を白昵山(はくでいさん)に連れて帰ることができない。それがなによりも悔やまれる。  韶華(しょうか)はつい、欄干を飛び越えて岸辺へ下りていた。 「水が、好きか?」  少年の傍に膝をつく。  精悍な顔立ちの、獣のように美しい少年だった。  お前は、私のものになったのだよ、そう伝えようと思ったのだ。  けれど、「なぜ、こたえなければならないのか」と、荒んだ目色に睨まれた。  吉祥の象徴を持ちながら、しかしなぜ。韶華は少年を目にしたときから、胸の辺りに激しい疼痛(とうつう)に苦しんでいた。  不安――  神が持つ凶悪、もしくは善良の神性は生まれによって決まる。けれど養育者がその神性を穢し得ることを、韶華は十分にしっている。罪人の分際で、彼の神性を穢してしまうことを、今更恐れているのだろうか?  彼岸花の巻き付く醜い腕を、韶華は領巾の内側にそっと隠した。 「君を連れて帰ることができないと、北神に伝えてある。また、会いに来るよ」  少年はにこりと遠慮がちに口角を上げた。花の影に隠れようとするような、ひかえめな笑みだ。年頃らしい内気さに韶華は微笑む。池から引き上げようと差し出した手を不思議そうな顔で見ていた少年が、ふと、その腕ごと引き掴んだ。  衣服の張り付く肉体の美しさに目を奪われていた韶華は、ぎゅっと握り締める少年の手の力に、ぞわりと肌が粟立った。 「あんたの名前、教えてよ……」  水音に紛れた親しげな声。韶華に与えた恐怖心を、まるで塗りつぶそうとする甘い声だ。  韶華の身体は震えていた。なぜ、これほど恐ろしいのだろう。戸惑いを胸に押し込み、同じようににこりと微笑む。 「韶華だ。なにかあれば、これからは私の名前をだすように。私は君を、なんて呼べば良いだろうか」 「俺の名前が、きになる?」  爛々と鋭い光りを宿す瞳に、韶華は思わず身体を仰け反らせていく。  唾をのみ、まるでこれでは食い破られてしまいそうだ。けれど韶華は、どうしてか彼の名前が知りたくて仕方がなかった。 「……教えてほしい」  狡猾さを秘めた精悍な容貌が、喉を上下する韶華の首元に、息のかかるほど近くにじり寄った。 「あててみなよ」  耳元で、まるで悪戯をそそのかすように少年が言う。 「……あてたら、あんたの言うこと全部、聞いてあげる」  身を乗り出し、首筋に呟く少年の、緩やかに躍動する肌がほとんど韶華の身体と重なりあっていた。肌を温めるぬくもりと、鳥肌の立つような嘲笑に韶華はぼうっとのぼせていく。 「罪人……?」  その刺し貫くような冷たい声が、ハッと韶華に水をかぶせた。  少年の指が腕の火傷痕をなぞっていた。 「罪人が俺を……養育するって?」  噴き出した低い笑い声を喉の奥で鳴らしていう。  何が面白いのかと、そうたずねる間もなかった。ぐ、と力を込めた手が突然、韶華の身体を池の中に引きずり込んだのだ。  水面を破る激しい水音に驚いて息を呑んだのが、いけなかった。  領巾や裾が身体を重くからめとり、藻掻けば藻掻くほど深く沈んでいく。韶華は混乱と息苦しさに必死に水を掻いた。  空気を喘いでがはっと水面から這い上がる。その様子を頭上の木から、少年が冷たく見おろしていた。這い上がった韶華を一瞥し、ふっと夜空に消えてしまう。  その下で韶華は咳き込むように水を吐き出していた。闇の中に消えていった少年の影を呆然と見つめて立ち尽くす。  簡単に引っ張られてしまったことに、驚いていた。もう少し踏ん張れたはず。突然池の中に落ちたものだから、きっと驚かせてしまったに違いない。  鶏明(けいめい)がこのことをしったら、「ほら見たことか」とあの少年に難色を示すだろう。  ともあれ、あれがなんとしてでも北神が手放そうとした少年。ならば、なるべく早く引き取ってあげなければならない。  乱れた呼吸を整えつつ、恐ろしいほどの寒さに身体が震えだした。  とりあえず今は、燃え残った灰の下のうずみ火で、暖を取ることにしよう。それから家に力を注いで、少年のためにも早急に建て直さなければ。  ようやく池から這い上がり、韶華は濡れた服のまま帰宅を急いだ。  その帰宅中、草陰に倒れた衛兵にけつまずいた。騒ぎを知らせる隙も与えず、あの少年が一撃で気絶させたようだ。だからあれほど静かだったのかと腑に落ちる。  まるで韶華を誘い込むための、束の間の静寂の夜のようであった。

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