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第8話

 祈願成就を帥江(すいこう)に求め、商売の神として川の神が神格を得たのは、韶華(しょうか)の投獄中のことである。  彼女は水系の神に名を連ねながら実に俗物的な神だった。名だたる偉功を打ち立て、神々しい神女を象る石像は小祠の屋根をも貫き、次第に華美に壮大な大霊廟へと変貌を遂げた。そのため天界でも影響力は甚だしく、帥江の神女、灑女(さいじょ)といえば、北都において花柳街を手中におさめた神女であるとは、誰もが口を揃える。  すっかり乾いた髪をゆるく括って、韶華は赤提灯の続く小径をのんびりと歩いていた。  その更に奥には狭斜……つまり花柳街が続く。遊郭は昼間のうちは大体が亀売りに扮していた。時々知らずに足を踏み入れたものが亀を求めようものなら、金品を吸い尽くされるまで一歩と外にはでられないのだ。  夜は開けたばかり。星郎(せいろう)がいるとしたら小料理屋のはずで、韶華はすぐに見つかるだろうと楽観視していた。早朝から開いている店など少ないのだから。  しかし、一軒一軒店を覗き回っていくうちに、とうとう花柳街の入り口までさしかかっていた。  火の灯っている店にはほとんどが赤ら顔の、わけありの若者たちが酔い潰れている。彼らが剣呑な目つきで少し目を上げると、戸のあたりに花気をただよわせる細腰の青年が立っているのだから、一見、上衣を開けさせた妖艶な美女とでも見間違う。  放っておけないというように、酒の匂いをまとった男が一人、徐に韶華の行く手を塞いだ。 「……おじょうさん、誰か、探しているように見える。このおれが、誰を探しているのかあててみせよう……」  風流に着こなしたそこそこの神格を持つ神のようだが、ふらふらと身体を揺らし、目はほとんど閉じている。直立しているのもやっとのようだった。韶華は顔も見ずに鬱陶しく手を払った。 「おじょ……? いや、私はお嬢さんではないよ」  道を塞ぐ腕を払ってひょいと脇へよける。 「待ちなって。今の時間、おじょうさん一人では危ない。このおれが、しっかりあなたを、……あなたを……?」  守ると言いたいのだろうか。酔いの回った頭では呂律だけでなく思考も鈍るらしい。韶華は仕方なく息を吐いた。 「君のような酔っ払いに、絡まれるから危ないと?」 「そうとも。とくに花柳街は、足元を見られて、ぶんどられるのさ」 「その鬱憤を、まさか見ず知らずの私にぶつけようというのではないだろうね」  ふと、大柄な男が真っ赤な顔で悩ましげに首をかしげた。定まらない焦点で韶華の顔を覗き込んだまま、その顔をじっと見つめている。何かその声や仕草に覚えがあるとでも言いたいようだった。 「……おじょうさんは、随分とお声が低いんだな」  目の前でしゃっくりをする顔を平手で強く押しのけて、韶華も気づく。真っ赤な顔と垂れ下がった頬や目つきで少しも気づかなかった。  曾明(そめい)だ――  元々従者として仕えていたけれど、それも昔のこと。男は少しも韶華に気づいていない様子で今にも眠りに落ちそうだった。  声をかけようか迷って、しかし縁の切れた相手。韶華はすぐさま背を向けた。 「……お嬢さんでは、ないからね。悪いが先を急いでいるんだ」 「まあまてまて、待ちたまえよ、親切心だ……」  男が韶華の腕を掴んだ。肌に残る刑罰の痕に男の視線が落ちる。さすがに酩酊していても、この痣の意味が分からないはずがない。そして刑罰を受けた神が誰かも、知っているはずだ。しかし男は腕の傷よりも、肌を包む薄絹の透かしから韶華の胸や腰をしげしげと見つめ、少しと顔色を変えずに言い放った。 「……ああ、やっとわかったぞ。この白いからだと細い腰、花神(かしん)か」 「いやな覚え方だな」  変なところで気を遣うのだから、韶華はたまらず苦笑う。 「こんなところで再会するとは、思わなかった。まさか、あの厄介者を探しに来たのか?」  男は言いながらも、声をかけたのは失敗だったと思っている。  酔いの醒めていく顔を大雑把に拭う仕草に、韶華はそんな彼の気持ちを薄々と感じ取っていた。 「厄介者? 誰のことをいっている?」 「件の少年だよ。あなたが引き取ったんでしょ?」  曾明は風の神である。四百年前までは韶華が与えた名を用いていたが、どうやら今は違う名前があるようだ。  風神はすっかり興ざめしていた。煩わしげに息をして前髪を掻きあげる。韶華(しょうか)の顔をまじまじと見つめるその目つきが、「鶏明を選んで、おれを捨てた薄情もの」と恨むようでもあった。韶華はその眼差しの意味を知りながらも逸らすことなく真っ直ぐと彼の目を見上げる。  穢したくはなかったのだ。  追い出したとき、風神はそれが理解できないというように何度も頭を振って尋ねた。だから韶華も、何度でも同じことをいうつもりだった。  しかしそれよりも、相変わらずだらしがなくて、なんて体たらくな生活を続けているのだろうかという呆れかえっていた。 「君は何年経っても、変わらないな。ほどほどにしろといつも言っていたのに。素質があるのだから真面目に神性を磨けば、今頃立派な神になっていたはずだよ」  ああ、やれやれと、風神は項垂れた。 「そうだったこの鬱陶しい小言。忘れていました」  いつの間にか風神の言葉遣いが戻っていた。どれほど年月が経とうと、韶華を前にすると自然と昔の癖がでてしまうらしい。風神は今更それをただす必要もないだろうという顔だ。 「あなたから離れたのは、正解だったようです」  小言も役に立つことはあるのだと、韶華は笑みを返す。 「そうか。それはよかった。けれど、私のした最善の選択が、君を正しい方へ導くと思ったのだがね。まだこんなところで転がっているとは」 「性分は変えられませんよ。私は飲んべえとスケベの神に育てられたんですから」 「……飲んべえとスケベ? 一体、誰のことを……」  風神を養育した神はすでに亡いが、確か厳格な老人の神だった覚えがある。  韶華の「ううん」と唸る仕草に風神があっと息を呑み、この古狸はまさか忘れてしまったのか、それとも冗談かと見破るように目を眇めた。 「あなたですよ。七百年前のことを、もう忘れてしまいましたか?」  七百年前? 一体何があっただろうか。ぴんとこない韶華に風神はさらにいう。 「夜通し北神と宴会を組んでは飲み騒ぎ、身体中の水分が酒になるほど何十年と飲みかわして、さらには小便さえ香り酒だといって愉しむような――」  思い出した。あの年はどういうわけか気分が良かったのだ。 「曾明――!」  韶華は割れんばかりの悲鳴を上げていた。真っ赤になった顔を抱え、もう止せと空を仰ぐ。  あれは鶏明(けいめい)を拾う前のことだった。羽目をはずしすぎたのだ。北神もまだ北都北帝として君臨する前で、二人とも若かった。  風神がにやりと笑う。なんだ、まだ覚えていたか。したりというような顔だった。  実はその頃風神もすでに百才を超え、従者として韶華に仕えていただけで韶華に育てられたわけではない。けれど韶華にはその事実よりも、若い頃の失態を思い出してしまったことの方が重大であった。  風神は素知らぬ顔で続けた。 「やつを探しているんなら、居場所を知っています。案内しましょうか?」 「ぜひ……頼む」  韶華は覆った手を下ろすことができずもごもごと喋る。あの狂乱を演じていた記憶が、風神の顔を通して蘇ってきそうでどうしても顔を見られなかった。  その後、二年、三年と、年をまたいで続いた酷い二日酔いに、二度とあんな真似はしまいと誓って今日に及ぶのであった。

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