9 / 43

第9話

 一棟の市楼(しろう)が花柳街を見おろす。黄色の屋根瓦を葺く、三階建ての楼である。上層階には北都北帝(ほくとほくてい)の祖が祀られていたが、しかし最近そこには灑女(さいじょ)の肖像画が上から貼られているという。  通りを跨がる市楼の下を抜けるとすぐ、派手な棟飾りを施した高殿がずらりと通りに沿って連なっていた。柱と瓦を華やかに染め、飾り花をあしらった驕奢(きょうしゃ)な建物が、今は灯りもひっそりとして、どこか宵の残り香を妖しくまとう。 「今は、なんて名乗っているんだ?」  清々しいというより、独特なざらつきを感じさせる、花柳街の朝である。陰鬱で気怠い雰囲気が通りを歩く人の身体さえ重くさせるが、韶華(しょうか)はそんな気配など微塵も感じていない。風神は明るい韶華の顔をちらりとみて襟足を掻いた。 「……まあ、そのうち、知るでしょうから」  言いたくないらしい。  韶華はとくに言及もせず「そうか」と短く頷いた。 「ところで、彼の噂のことだが、全て事実かな?」  韶華が気にするのは、花柳街のけったいな陰鬱さではなく、常に星郎のことにあった。 「どんなことを聞きました?」 「狭斜に流連していると」  ふっと風神が含んだ笑みを片頬に浮かべる。 「ええ、事実ですよ。代金も支払わず、文字通り身包み剥がされています」 「水系の神の従者が来て、少年を渡せというんだ」 「そりゃ、今の花柳街は帥江の神女、灑女が取り仕切っていますから。おそらく踏み倒した代金や喧嘩の始末をつけたいのでしょう」  韶華はその矛盾を風神が見逃したことに息をついた。 「少年が花柳街にいるのなら、神女は彼の居場所を知っているはずだろう。わざわざ私のところへ来て、連れてこいなどというのだろうか」 「……たしかに、それはおかしいですね」  言われて風神は短く逡巡した。 「その従者の印は、どこの神のものでした?」 「それが、あまり見覚えがない。君も知っている通り、私は物覚えがよくないんだ……」  黙って見守る風神の傍で、韶華は悩ましく首を捻る。 「それに、家が焼け落ちたことをどこからか聞きつけて、再建の力を貸すと言うんだ。ますます、おかしいと思わないか?」  神々はひとの不幸は見て愉しむのを好むのであって、自ら労力をさしだしてまで手を貸そうとはしない。あの若者が力を貸すといったのは、やはりどうしても星郎(せいろう)を連れてきて欲しいからだ。星郎の居場所を、彼らは掴めていない。しかも灑女を通せば早いものを、そうしないということはどうやら灑女には知られたくないようだ。  歩く速度が落ちると、風神もあわせてゆっくりになった。  自然と韶華の少し後ろからついていく。韶華はその慣れ親しんだ位置に、思わず、「曾明(そめい)」と手を伸ばしていた。  その韶華の無意識の呼びかけに、風神は驚いたように足をとめる。 「……花神、おそらく彼はここにいますよ」  まるで、彼も失念していたと言わんばかりの顔で、たまたま立ち止まった楼閣を振り返る。そこが目的地だと知って、口からでまかせにならなかったことを安堵していた。  今はもう新しい名前がある。それなのに、韶華に曾明と呼ばれて応じかけてしまったことに、彼自身驚いていた。  韶華は全く気づかず、朝の気持ちのよい空気の中で門を見上げた。  丹塗りの塗装が剥げた門の奥に、香木をふんだんに使った贅沢な建物がみえる。  高殿には陰気な蔦が這い上り、その影が窓際や壁に濃く落ちている。吹き抜けの中庭の床を一部くり抜いて盤をはめ込んでそこに雨水をためているが、かえってその鮮やかな青が悪い方に目立つ。  水盤を目にした韶華は、引っ張られるように歩み寄っていた。水の上を、淡い風のように揺れる睡蓮が咲いている。韶華はその花をそっとすくいあげるように包み込んだ。 「良い感性の持ち主だ……」  目が眩むほどの真っ青な空が水盤に映り、その青さと睡蓮の繊細な花の景色が心を捕らえた。星郎がここにいるということは、彼も毎日この美しい花を目にしているのだろうか。そして星郎も同じようにこの景色を美しいとおもうのだろうか。  うっとりと目を上げたとき、蔦の伝う二階からこちらを伺う人影があった。かげっていて男かもわからない。けれどその口元にはひそむような笑みが浮かんでいた。少し小馬鹿にしたような嘲笑に、ああ、星郎だと、韶華はほほえみ返す。  その背後を、風神が足早に通り過ぎる。何やら騒がしい家屋の中を覗き込んだ。 「――不吉なことを!」  突然聞こえてきた金切り声に風神は思わず後退る。 「……物騒な声が、聞こえたてきたが」  風神が声をかけると、それまで部屋の中にいた女たちが青ざめた顔で一斉に振りむいた。戸に一番近いところに立っていた夫人が真っ先に甲高い声で叫んでいた。 「まあ――! 誰か、陰氷(いんぴょう)を呼んで!」 「ま、まてまて、誤解だ!」  風神が慌てふためいて夫人の口を塞ぐ。風神の背中からそっと中を覗き込んでいた韶華(しょうか)も、夫人の叫び声に驚いて咄嗟に部屋の中に入るなり、後ろ手に戸を閉めてしまった。 「なぜ戸を閉めるのだ、これではむしろ、押し入り強盗では」 と風神に睨まれる。けれど陰氷を呼ばれるのは、韶華でさえとにかく避けたい。  大体はのらりくらりとかわす韶華も恐れる陰氷とは、秩序を司る神のことである。至宝とよばれる剣の腕前を持つ神々の組織のことをいい、もっぱら、今では組織の名前として使われることの方が多い。  その陰氷をよばれて悪事だと判断されればまた神性が穢れてしまうのだから、韶華は気が気でなかった。  騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってくる前に、さっさと用事を済ませてしまおうと口早に婦人に迫った。 「少年にあわせなければ……」  口走った韶華のせりふに、風神が慌ててその脇腹をどついた。 「花神(かしん)、このばか」  咄嗟に飛び出た暴言にしまったと風神は青ざめた。 「状況、……状況が悪いです。それじゃ脅しているようなものだ、他に言い方はないんですか」 「今、主に向かってばかと……」  お前は昔から口が悪いのだからと韶華は眉を寄せる。 「春懐(しゅんかい)……?」  一応は立場があるのだから……と韶華が詰め寄ろうとしたとき、小さく震える声が階段の上から聞こえてきた。その声にようやく風神は自分の立場を思い出す。そうだった、もう従者ではない。青ざめる必要はなかったのだ、と。  韶華は逆に風神を従者扱いしてしまったことにやや迂闊に思った。今や対等な神格を有し、もしくは韶華以上の神性を持つ神なのだから。 「すまない、忘れていた……今は春懐と、そう名乗っているんだね?」  そして少女の唇からこぼれた名前が、今の風神の名前であるらしいことを知った。 「……そこにいらっしゃるのは、まあ、もしかして、花神さま?」  小鳥のように愛らしい声で少女は静かに尋ねる。青い紗を翡翠(かわせみ)の羽のようにまとう少女だった。しかしその唇はすっかり冷めきって、顔色も優れない。韶華はゆっくりと彼女の足元に歩み寄る。 「いかにも、私が花神だが」 「では、とうとう謎が解かれるのだわ……」  少女はそういって青ざめた顔で風神の方を向いたが、風神に口を塞がれた夫人が鋭い目つきで睨み付けたために、彼女は再び震え上がった。 「謎、とは?」  戸惑う韶華の言葉に少女は慌てて頭を振った。 「その話しは後よ」 韶華の袖に隠れて、そっと風神に目配せをする。 「おばさま、彼は風神よ。最近おばさまったらまた目を悪くして、暗いところだと何も見えないと仰るからわかりにくいでしょうけれど。それにこちらは花神さまよ。悪い人たちではないわ」  風神はおそるおそると夫人から手を離す。  ゆっくりと息を整えていた夫人は怒りに顔を真っ赤にさせたまま、少女のおっとりとした口調にじろりと目を向けた。 「ぺちゃくちゃと、お前はいつもおしゃべりが過ぎる! 先に、私を助けるのが筋でしょう!」 「だって、私だって怖かったんですもの……」  今にもひっ捕まえてやろうとする夫人と、うさぎのように小さく怯える少女の間に割って入り、韶華はおずおずと二人のやり取りを遮った。 「星郎(せいろう)を……」  と、目をそらし、例の少年とつけ加える。 「彼がここにいると聞いて会いに来たんだ。私が花神だとわかるのなら、噂も耳にしているはずだ。あわせてほしい」  すると夫人がふんと腕を組んだ。少女を痛めそこねた鬱憤のはき場所を見つけたようだ。 「どうしても、会うと仰るの?」 「彼の養育者だから、当然だろう。注意の一つや二つするのが親の務めだ」  夫人の顔が意地の悪い笑みを浮かべ、韶華の全身をじっくりと見つめる。 「いいわ。会わせてあげる。けれどあなたが彼に会うというのなら、あなたが責任をもって彼のすべてを引き継ぐのよ」 「勿論、彼の保護者だからね。そうするつもりだよ」 「言い切ったわね。逃さないわよ。彼をここに呼んできて」  少女は目を輝かせて少しふらふらと身体を揺らしながら二階の奥へ消えた。

ともだちにシェアしよう!