10 / 43

第10話

 韶華(しょうか)の無防備な受け答えに冷や汗をかき、憂鬱な顔をして息を吐くのは、風神であった。 「花神(かしん)、今のは、まずい。なぜ、鶏明(けいめい)を連れてこなかったんです……」 「まずい? 何か、間違えたかな?」 「どんな化け物が出てきても、知りませんよ」  化け物だと? 韶華はごくりと唾をのんだ。二階の奥の部屋から果たしてどんな恐ろしい妖鬼が出てくるのかと、成り行きを見守っていた韶華は、案外容易く部屋の戸が開かれたことに肩透かしを食らった。  ばんと荒々しく開いた戸から、星郎(せいろう)がごく自然にあらわれたのだ。  手ひどく痛め付けられていることも覚悟したが、そんな様子はない。ではなぜ夫人はあんな言い方をしたのだろうか。韶華は彼の怪我の数からその位置まで引き継ぐのだとてっきり思っていたのだ。 「星郎……」  目元にかかる前髪の下に、吉祥の象徴がのぞく。やはり、その痣の美しさに韶華は手が震えた。  星郎は階段の下の騒ぎに目も向けず、軽やかに上ってくる韶華にさえ興味がない。どこか苛立ったように腕を組んでいる。  視線が交わらないまま、韶華は踊り場に立つ星郎の頬へ手を伸ばそうとして、慌てて下ろす。いけ好かないとばかりに言い放たれた「罪人」という言葉に、どうやら臆病になっているようだ。高い神格を持つ神が罪人を毛嫌いするのは、当然のことだ。  少し咳払いをし、威厳をしめすように両手を背中で組む。顎を引いて上目に星郎を見あげた。 「ある神の従者が、君を探しているようだよ。何をしたのか教えてくれ」  星郎は静かに韶華を見おろした。ややすると、ふっと物思いに息をこぼす。しばらく頭の中で思案を重ねたらしい。やがてゆっくりと腰を屈め、そしてあろうことか、韶華の裳裾(もすそ)に弱々しく指を引っかけたのだ!  丁度韶華が人目を遮り、身体をだきしめて震える星郎の姿は他の誰にも見えていない。この怯えきった姿を、韶華だけが見ていた。ハッとして、思わず身を引いた途端、星郎の美しい顔だちが崩れ、狡猾な瞳が涙で潤む。縋るような愛くるしい顔でじっと韶華を見上げた。 「……俺を、あそこに突き出すつもり……?」  韶華はまるで熱いものに触れたときのような痛みに息を弾ませる。  消え入るようなか細い声。その、なんて愛らしさ……  これが、あの夜、狡猾さを露わにし、牙をかけようとした少年だろうか? 思いもしなかった。まさかこの細い腕に縋られて、これほどの愛しさとしおらしさに激しく胸を揺さぶられるとは。  ……なんてこと、  不安げに眉を寄せる彼に、韶華はひとはたの優しい感情が込み上げる。  私にだけ、この姿を見せるというのだろうか?   きゅっと、胸が苦しく逸るのをなんとかこらえ、善性の神としての立場を思い出す。ふらふらと倒れそうになる身体を支えた。危うく心をとらわれかけたが、まずは星郎を落ち着かせることが先決だ。 「安心してほしい」  すぐさま微笑を浮かべた。星郎の口元に、冷ややかな笑みが浮かんでいる事など気付きもせずに、韶華は優しく肩に触れる。 「何をしたのか、教えてくれ。君を守れる」  ひくりと、星郎が口をむずがらせた。 「……この俺を、守る? あんたが?」  堪えようとしたらしい。けれど勢いよく噴き出した星郎は低く喉の奥をならし、肩が揺れるほどひとしきり笑った。顔を上げたその眼差しにはあの憐れさはなく、驚くほど冷酷だった。 「ありがたいね……俺の代わりに、飯屋の借金と、踏み倒した妓楼代までだしてくれるってわけだ」  同情心を利用されて不快に思わない神はいない。星郎は韶華の醜く変貌してく様を階段の上から満喫するつもりだった。今に嫌悪と屈辱で美しい顔にひびが入り、取り乱すのを待ちわびていた。  けれど韶華は、思いもしない負債を抱え込まされても、そんな程度では星郎の思惑もほとんど意に介さないのである。  本性をさらけ出し、凶悪さを滲ませる星郎の姿など微塵もみえていなかった。巣からこぼれ落ちた雛がいくら強気に囀ったところで少しも恐ろしくないのと同じこと。韶華にとって今や星郎はひな鳥である。星郎の手を優しく取り上げて、韶華は少し照れくさかった。 「寝る場所が、ないんだ。私は力が弱いから、燃え落ちた家を建て直すのに時間がかかる。けれど、夜偏城に居づらいなら、うちにおいで。まだ、落ち着いて君を迎えられる状況ではないのだけれど」 「……夜偏、城?」  星郎はのんびりとした韶華に唖然とした。北神すら唇を戦慄かせ、制御できない悪童とばかりに見限ったというのに。この善と吉祥の間抜けな神はどこに目と耳がついているのだろう。それとも本当にただの間抜けなのだろうか。そんな風に思われていることなど、韶華には全く予想もしなかった。  すると夫人が痺れを切らした。 「……花神(かしん)さま、少年には引き合わせましたよ。約束は守ってもらいますから」  言うやいなや、夫人は乱暴に韶華の腕を掴み上げた。手首に指をかざすと、肌の上にちょうちょう結びの糸が浮かび上がる。 「……これは?」  戸惑いつつも、韶華は笑みを絶やさずぼんやりと手首をみつめた。  それを大げさな顔で夫人は驚いてみせる。 「マッ、妓女をみたことはない? 彼女たちは籠の鳥と同じよ。確り働いて返してもらうまで、ここから出られることはないんですから」 「働くとは? 私は、女ではないのだが……」 「詩吟くらい、できるでしょう?」  韶華はやはりにこにこと笑みを浮かべながら首をかしげる。 「詩吟を?」 「あなたの少年は開放してあげるわ」  いうと、夫人はさっと袖を翻して奥へ消えてしまった。  引き継げというのは、少年の負債のことだったのだ。  そうだ、星郎(せいろう)はどこへ。  思い出して、韶華は部屋の中に視線を走らせる。しかし彼の姿もすでにどこにもない。困った顔の風神が憐れに韶華を見つめているだけだ。 「さっき、あなたと夫人が話しているあいだに、窓から出て行きましたよ」  韶華は慌てて窓に飛びついた。すでに見渡せる範囲に星郎の姿はなかった。しまったと韶華は項垂れた。 「……曾明、頼みがある」  風神はもう従者ではないのだから、関わりたくないと拒否しても構わない。しかし、韶華の困惑をあらわにする眉目を目の前にして、風神は簡単にはこの神を切り捨てられないことを、悟ってしまったようだ。 「……星郎のことですか」  風神は投げやりにため息を吐いた。韶華はそっと頷く。 「水系の、どの神が星郎を探しているか、探ってほしい。夕方までに分かると、ありがたいんだが……」 「詩吟の方は、大丈夫なんですか? 一度も、詩なんて雅に吟じたこともないでしょう」 「問題ない」  韶華は胸を反らし、ちらりと翡翠の紗の少女に目を向けた。 「自分ではつくれなくとも、もらった数は人より多いのだから。全て頭に入っているんだ」  肩をすくめて、風神は苦く笑う。 「物覚えが悪いんじゃ……? まあ、さっさと調べて、なるべく早く戻ります」 「頼んだよ」  身軽に楼閣を出て行く風神を見送り、「さて」と韶華は部屋の中を見回す。門を潜ったときから感じていた陰気な気配は、ただ蔦が壁に這って閑古鳥が巣くっているだけではない。不運と不吉の気配である。その存在に、韶華は若干心を躍らせていたのだ。

ともだちにシェアしよう!