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第11話

 韶華(しょうか)はさっそく中庭へ下りていく。たっぷりと水を湛えた水盤の縁から、裾を絡げた白い足をひたした。睡蓮の葉の影で優雅に泳いでいた亀の気泡が、深く潜った水の底から浮かび上がる。  亀の多くは樹木の下の太い根や、花壇の石に甲羅を干しをしてじっと、痛みに耐えるように手足を縮めて動かない。  楼閣に入って真っ先に鼻先をついたにおいの元は、どうやらこの亀たちが放っているらしい。しかも妓女の少女らからも漂うそのにおいに、夫人の口走った「不吉――」なるものの正体を、韶華はすでに目星をつけていた。  韶華は古い記憶を掘り出す。晩鐘が鳴り響けば妓楼に立たされるのだから、ついでに詩吟を練習しておこうと思ったのだ。  誰の吟か忘れたが、その一節を思い出しながら唄いだす。お世辞にも巧いわけではない。たどたどしく記憶をなぞっているだけなのだから。  ああだったかな、こうだったかな……、と頭を揺らしながら唄っていると、僅かな春気が韶華の肌からふわりとたちのぼり、水盤の水面をかすかに揺らした。かろやかな風が睡蓮をさらって吹き流れていく。  たちまち、じっと痛みに耐えていた亀が一結びの春風に抱かれた。  と、次の瞬間には強い腐臭を放っていた身体はかぐわしい香りに包まれて、目つきの鋭さも穏やかになっていく。同時に韶華の腕の傷痕にも柔らかな光りが吸い込まれた。  韶華はそれを見て、不満な顔をした。 「うぅん……、この程度では……」  これでは干上がった大地に一滴の水を垂らしたようなもの。  全盛期から大部分の力を失っているから、多少の吉祥が亀に僅かな生命力を与えたにすぎない。 「随分、非力になってしまって……」  落ち込む韶華に、一匹の亀が足元にすり寄った。僅かに瞼を伏せたようにみえ、韶華は微笑を返す。水の綾を絡めた指先で、さっと甲羅を撫でた。 「君も、あとでうちに来るかい?」  囁きつつ、濡れた足を引き上げる。つま先から滴る雫をゆっくりと拭いとりながら、水底へ泳いでいく亀を愛しく見送った。  あの穏やかな性格の亀なら、星郎のよき相談相手、もしかしたら唯一無二の友人になれるのではないだろうか。  私では、おそらく、彼の信頼を勝ち得ることはできないのだろうから。  韶華はさっと立ち上がり、楼閣の中右往左往とうろついた。  翡翠の紗の少女を探し出して、夫人の目から逃れるように水盤へ誘い出す。 「さ、ここに座って」  韶華は少女を縁に座らせ、白魚のような足を水に浸すようにいう。太陽の光を浴びてキラキラと輝く水盤の水に、少女は躊躇いがちに、そして疑い深い目を容赦なく韶華に注いだ。

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