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第15話
「吉祥の神ね……」
驚きつつ呆れの混ざった顔で韶華の手首をさっと取り上げる。かざした指をはなしたとき、手首に結ばれていた契約の糸は解けていた。
「帰っていいわ」
鼻を鳴らして少し、勿体ないというような目つきをする。
「花神を見世物にするつもりだったのだけれど。残念よ」
「私も、残念だよ」
韶華はにこりと微笑みながら、本当に残念だと思っている。考えていた一句が意外にも良い出来映えになったので、それを今夜披露しようと待ち構えていたのだ。
けれど、北神には後でたっぷりと礼を言っておかなければならない。おそらく、妓楼での星郎 の振る舞いを小耳にはさんだのだろう。彼らしく遠回しで、実に厄介な方法を選んだものだ。従者の印ぐらい隠せばいいものを。もし誰かがそれに気づいたら、妙な噂がたちかねない。
「ところで、最近誰かが巻き軸を持ってうろうろしているのをみかけなかっただろうか?」
吉祥を綴った暦帳を……、と韶華は付け足す。夫人は少しも覚えがないようで首を振った。
「……暦帳? さあ。どうかしら。けれど、同じように尋ねた神がいたわ。帥江 の神、灑女 と同じく、水系の……」
「硅女 です」
風神の声だった。
えっ、と驚く韶華に風神が息を吐く。疲れ切った顔で前髪を掻きあげた。日没が近い。だから彼は急いで戻ってきたのだ。
「……星郎を追っている若者は、水系の神、硅女の従者ですね」
韶華は硅女という名前には覚えがあった。
「硅女は確か、水系において権勢を誇っていた……」
「ええ。あなたが投獄されて、しばらく経たずに零落れました。今は灑女の方が上です」
その一端を担ってしまったのはおそらく、韶華なのだ。
「私のせいだな……彼女の城を、知っているか?」
彼女が零落れた原因は暦帳に他ならない。硅女のところへには、あの若者もいるはずだ。
「知ってますよ。星郎はどうするんですか?」
星郎の居場所までは知らないぞと、風神は呆れた顔をする。けれど韶華は「まさか、ちゃんと考えているよ」と妓楼を出る。
「つれて行けば、星郎が刻まれてしまう」
「では、硅女の城へは何をしに? 直談判でもするつもりで? あんな子ども、放っておけば良い。店主たちが、あなたを陰氷 に裁かせると口々にいっていました。本気ですか?」
「ああ、もちろん本気だとも。少し良いことをしたんだ。神性もおそらく少しは磨かれたから、陰氷で裁かれるくらいなら、私もまだ耐えられる」
「やめてください」
即座に風神は瞼を伏せた。盟神探湯の裁きのとき、風神は近くで韶華のことを見ていた。白昵山 を出されたのはその直後のことだった。鶏明が大地を震わせるほど必死に北神に訴え、投獄中も韶華に献身を尽くしていたことも知っている。
「あんな子どものために、神性を穢す? ……ようやく出てこられたというのに。これ以上穢せば、堕ちてしまう……」
「今堕ちるのは困るな」
せめて鶏明や星郎が立派な神となって慈悲を与える姿をみてからでないと。
神性を穢しきった神は何千何万と輪廻を繰り返す孤独な妖鬼におちる。今も白昵山の楼門に押しかける妖鬼たちは、少しでも神格を取り戻そうと韶華の吉祥をあてにしているのだ。それを、風神は恐れている口ぶりであった。
なんて暗い顔だろうか。
この身の穢れが周囲に及ぶことを気にしているのだろうか。けれど風神はすでに韶華の従者ではないのだし、縁などもってのほか。残った雀はまだ神格を得ない鶏明だけ。星郎との関係も中途半端なのだから、まだ誰にも迷惑はかからないはず。
それよりも、韶華は風神の春懐という名を思い出していた。「ふふ、」と、擽ったく笑みを零す。
「聞いたよ、春懐。君の名前の由来は、春に関するある女性への思いを秘めた名前なのだろう? 君が、一途に人を思うなんて」
「春懐だと?」
ひくりと、風神の眉が動く。穏やかな顔付きに恐ろしげな怒気がはらむ。韶華は思わず半歩下がっていた。触れてはいけない話題だったようだ。もしかすると、女性にはすでに振られた後なのかもしれない。言葉を濁して韶華は気を取り直す。
「風神、硅女の城は、ここから遠いのかな?」
「……すぐです」
風神は怒りを通り越し、呆れかえっていた。手で覆った顔を天に仰ぎ、彼は激しい感情をこらえるように素っ気なく応えた。
暗い顔をした理由も、韶華にだけは春懐と呼ばれたくない理由も、根掘り葉掘りと聞かれ、根底にある感情に気づかされるよりは、韶華の無頓着さがかえって楽なのだ。
一見すると冷たい人物というふうに風神に捉えられている韶華だが、実際は大変気を揉んでいるということを、あまり周囲の神々はしらない。
だから韶華は少なからず風神の態度には悄然としている。
距離を誤ったか。ざわざわと騒ぐ心を落ち着かせるように、解れた髪を耳にひっかけた。
「おれの後についてきてください」
風神が静かに言う。怒っているわけではないらしい。
結い上げた髪を涼しげになびかせる風神に、韶華は昔の面影が懐かしく思われて、そっと笑みを浮かべた。
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