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第22話

 整えられた松の枝は白雲にやわらかくおされ、夜の庭園に、松葉の囁きが美しく渡っていく夜偏城(やへんじょう)。  北神は政務を終えた直後で、禁衛が遠くで見張りに立っているほかは、彼が気を利かせて侍女さえも寄せ付けなかった。上衣を肩にひっかけながらも、必要以上に近づこうとする護衛には鋭い眼差しで制止させるのだ。その直後の俯いた横顔からは、濃い疲労のかげがさす。それでも垂れた眉の柔らかさが彼の表情を優しく縁取っていた。  どうやら韶華(しょうか)が訪ねに来て、刺々しい政務の後の一時の憩いにでもなったらしい。  北神は暦帳の経緯を静かに聞き終えてから、やはり意図が掴めないというように問い返した。 「硅女(かくじょ)と同様に、零落れた神を探していると?」  韶華は頷く。 「誰か、思い当たる人物はいるだろうか?」  北神はいないわけではないと前置きし、難しい顔をした。 「零落れた神は何人かいて、その全ての神は命を落としている」 「命を?」  零落れただけではなく、神が命を落とすほどのことが? と韶華は声をひそめた。  一人なら陰氷(いんぴょう)の剣に倒れたと考えても差し支えはなさそうだが、何人もいるとなると、そういうわけでもなさそうだ。それもすべて、不吉な暦帳のせいだろうか。 「その命を落とした神々には、一体何があったんだ?」  北神は言いにくそうに瞼を伏せた。 「暦帳をしっかり管理していなかった、僕のせいだね……」  韶華は驚いて北神のまずそうな顔を見上げた。 「まさか、君、暦帳を取り出したのか?」  北神は肯定しかねるように顔を傾けた。 「管理は、していたんだ。けれどその……、度々手にとって、少しの間ながめていただけで。人が簡単に目に触れるところに置いていたわけではなかったけれど……」  ごにょごにょと言い訳をする北神に韶華は呆れた。なんて奇妙な趣味をしているのだろう。韶華はまさかあんなみっともないものを北神が、しかも度々持ち出していたとは思いもよらず、呆れた顔で北神の気まずそうな顔をまじまじとみつめた。 「あの不吉な暦帳をわざわざ引っ張り出すなんて、君も大変な趣味をしているんだね」  あの暦帳は韶華の汚点をぎっしりと書きつめたもので、読んでも面白いことなど一つもない。苛立ちと焦り、混乱にあふれた感情を綴った不吉な代物。  それを北神は度々眺めていたなんて。 「僕が預かったんだ、どう扱おうと勝手だろう……」  北神はまるで拗ねたように言う。 「けれど、持ち出されてしまっては君に預けた甲斐がないというものだ」 「わかっているよ。だから僕も探していたんだ。……本当は言いたくはなかったんだけれど」  北神は本当に言いたくないらしい。言葉を切って息を詰まらせた。少し歩き出すと、ひどく悩ましげな顔をする。  韶華は彼が話し出すまでのんびり待つことにした。  月光をあびたまっ白な雲が幾重にも夜空にかかっている。夜偏城は空が近く、手を伸ばすと星や雲がつかめた。その一欠片の雲を掬い取って吹き散らす。松葉にからまる白雲が、まるで銀梅花の花のようだ。そうして遊んでいると、北神がかすかな笑みを浮かべた。  韶華の頭上に手を伸ばし、松葉に帯びた水滴を払う。と、光りの粒が眩しく降りそそぐ。真下にいた韶華の髪や領巾、肌に散るその小さな光りが、まるで水晶の宝飾具のようで、かつての栄光を思い起こさせる。北神はその姿に胸を痛めた顔で眺めている。 「……君もよく知っている場所だ。そこにあるのはわかっているのだけれど、どれほど手を尽くしてもみつけられない。風も尽きる、枯槁(ここう)の谷に……」 「枯槁の谷」  韶華は息を吐く。その場所のことなら誰よりも詳しく知っている。なぜなら、北神が立ち去り、ただ一人、韶華だけがそこに残った場所なのだから。 「君はまだほかにも、私に言えないことがありそうだ……」  韶華の言葉に北神は悲しそうな顔をした。そっと韶華の耳元に唇を近づけて、北神は静かに言う。周囲には誰もいないというのに、より一層声をひそませたのは、よほど重要なことらしい。 「星郎(せいろう)が生まれたのは、君の不吉の巻物のおかげだということも、内緒にするつもりだったよ……」 「星郎と、あれにどんな関係が?」 「行けば、きっとわかる」  北神はさらりと言って去って行く。  行けば分かるだって? 「……見つけているじゃないか」  護衛が駆け寄ってきたとき、韶華はやや憤然と腰に手をあてた。  枯槁の谷に暦帳があると知っていて、星郎の誕生にも関係があるという。どれほど手を尽くしても見つけられないと言いながら、北神は暦帳がどこにあるのかも知っているのだ。それなのに回収しなかった理由は、なんだろう。  韶華がたったたったと歩く傍で、護衛は何か言いたいことがありそうだった。庭園をゆっくりと横切っていたとき、ついに抑えきれずにまくし立てた。 「花神さま、北神から伝わっていませんか? あの子どもが百滋楼(ひゃくじろう)に出入りしているということを……」 「百滋楼?」  韶華はいまいちぴんとこなかった。 「それはどこだ?」 「灑女(さいじょ)の城です。城といっても、怪しげな場所で、陰氷(いんぴょう)が目を光らせている楼閣ですが」 「そこに出入りするのは、いけないことなのか?」  あやしいところと聞いて、よりにもよってこたえる言葉がいけないことなのか、だと? 護衛はこの暢気な韶華に逆に驚いた顔で目を剥いた。しかし畏まって根気強く説くことにしたらしい。 「妖鬼の連中が集まる場所です。放っておいて、いいのですか?」 「妖鬼が集まるのと、星郎がそこに出入りするのは、苦言を呈するほどのことか?」 「神を殺めた犯人や、下界でも悪名高い妖鬼たちもまぎれているんですよ……星郎が悪の道へすすめば、あなたの神性に影響が……、北神だって、少なからず被害を……」  なんだ、私の神性を気にしてくれるのか。韶華は振り向いて、戸惑う護衛に微笑んだ。 「私が善である限り、星郎は大丈夫だよ。それに星郎も、自らの神性を穢すような真似はしないだろう」 「妓楼の夫人やかわいい妓女が相手ではない。一度関わったら骨身までしゃぶられるかもしれません」 「君は中々悲観的だね。中には親切な妖鬼もいるだろう。それに灑女の城なら、問題なさそうだけれどね」  韶華はそれ以上の問答をするつもりはなかった。  流れ込む雲にさっと身を紛れさせ、護衛の目から逃れる。 「花神さま、どちらに?」  韶華を探す男を背に、足早に庭園を立ち去った。  百滋楼――  神殺しの犯人も紛れていると男はいっていた。もしかして、神々の死は暦帳が原因ではないのだろうか?  それに……、と城を後にする韶華は少しずつ焦っていく。そこに出入りしているという星郎を思うと、なぜか足取りは自然と百滋楼にむかっていた。

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