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第23話

 天井に迫るほど大きな金魚鉢が、楼閣の吹き抜け部分にきわ高く占めていた。中には龍と見紛う巨大な金魚が跳ね、花片のようなつぼんだ鉢の口は人が一人やっと通れるほどの狭さで内側は風船のように膨らんでしがみ付く突起もないのだから、落ちれば這い上がるのも難しい。  壁沿いに円を描く廊下を歩きながら、韶華(しょうか)は分厚い布張りの灯籠の傍で何か気になって覗き込むように下の階を眺めていた。  (ひさし)を何重にも高く重ねた百滋楼(ひゃくじろう)である。  内部は蜂の巣のように入り組んで小部屋がいくつもわかれ、その一室は賭け事や密談の場となっているらしい。次々と人が入っていっては長いこと(たむろ)して、時々怒号がざわめきを縫って聞こえてくるが、その騒ぎも日常茶飯事で気に留めるひとはいなかった。  ふと、思い出したように韶華は口を開く。 「ところで、神を殺した妖鬼がいるんだってね。君たちはそれを、追っているのかな」  韶華はにこやかに、たった今、後ろから忍び寄ろうとしていた人物に尋ねていた。  その人物とは、暦帳の回収を依頼した陰氷の男であった。 「まさか、気づいていらっしゃるとは……」 「どんな妖鬼だ?」  焦って躓きかけた男を振り返る。  金魚鉢は最上階の手すりをこすほどの大きさで、その硝子が目の前に迫っているのだから、器の反射に映った男の姿ほど滑稽なものはない。男はどうやら、こっそり近づく姿が硝子に映っていたとは少しも気づいていないようだ。 「神を殺めたのは、年若い妖鬼だという話しです」 「ほう……」  韶華はそれを聞きながら、愛想のない返事をかえす。簡易な簾を下ろしただけの部屋を一つ一つ覗いていく。何をしているのだと、疑問を目に浮かべる男が後ろをつけていた。 「神を殺めた理由はわかるのか?」 「捕まえなければ、わかりようもありません」 「そうか。だが、私なら捕まえられるよ」  韶華はちらりと男を振り返っていった。  一体どうやって? と、剣も持たない韶華に何を捕まえる気なのだといいたげな男である。  韶華はゆっくりとした足取りで細い通路をいくつも折れていく。概ね全ての室内を確認した後、金魚鉢の前の廊下に出て、とある一室の前で立ち止まった。妖鬼や悪神の気配は力の弱い韶華では区別もつかない。けれど、吉祥の名は伊達ではないのだ。 「この部屋だ」 「なにがだ?」  男の反発を前に笑みを浮かべて中に入ろうとしたそのとき、強い視線を、やはり下の階から感じて韶華は振り返った。  水槽ごしに階下をみる。視線を送っているのは、一つ下の階かららしい。辿っていくと、薄暗い灯りの下、欄干によりかかり、天を仰いでこちらを見つめる少年の姿があった。  星郎(せいろう)だ。  韶華は優しく微笑んだ。 「あの子ども、また厄介事か?」  韶華の肩越しから星郎を睨む男が不機嫌に言い放つ。それを、韶華はさっと踵を返した。 「さあ。あちらも、同じことを思っているかもしれないね」  簾をくぐった先には板の戸だ。窓には薄絹が重ねられ、中の様子は少しも分からない。人の話声のようなものも聞こえず、男はますます韶華の言うことが信じられないらしい。  戸を押すとあっさりと開く。手に汗を握っていた男は、韶華を盾に後から入ってきた。  部屋の中は何もない。板張りの床には、煌々とともる蝋燭が一本あるだけ。けれど韶華は部屋の中に入ってすぐ、横の壁に細い隙間があるのを見つけた。指を引っかけると、冷気がもれてくる。そして僅かな人の気配。男が剣を手に身構えた。  韶華が目配せをし、男が固唾を呑んで頷く。一息に壁を押し開ける。と、ゴトッ、という鈍い音と同時に何かの割れる音が続いた。  陰氷の男が素早く燭台を引き掴んで中を照らし出す。床から、壁、柱、そして天井へ向けたとき、韶華は一瞬怯んだ。そこには三匹の妖鬼が、咄嗟の出来事に瓶を慌てて抱え込み、逃げだそうと天井に張り付いていたのだ。  その一匹と韶華は目が合った。恐怖心をあらわにさせる妖鬼を憐れんで、陰氷に殺さないでやってくれ、そう声をかけるより早く、機を狙って潜んでいた別の気配が突然牙を剥いた。韶華の身体を押し倒すように飛びつく勢いに避ける間もなく、韶華は床に引き倒される。危うく振り下ろされた拳を避け、揉みあいながら部屋の外まで転がり出ていた。 「ね、私なら、捕まえられると言ったんだ……!」  強烈な腕力に押されながら韶華は息苦しく叫んだ。 「……まさか、どうしてわかったんです!」  陰氷の男が慌てて妖鬼を拘束していた。その後で韶華に助太刀しようとしたらしいのだが、韶華はほとんど欄干の外へ大きく押し出されていた。 「吉祥のおかげかな……、それより、私を助けてほしいのだけれど!」  長い爪で腕を捉え、首筋に剣を押しつける男は妖鬼ではない。神格をもっている。けれど、これは悪神だ。韶華はその男の懐に何があるのか知っていた。逃げられたのにそうしなかったのは、その正体を確かめるためでもあった。 「……暦帳、一枚……いや、半分かな。君、持っているんだね」  すると男が顔の傷痕を引き攣らせてわらった。 「目の前に落ちてきたそれを、拾おうとしたんだが、咄嗟のことで一部しか手に出来なかった。まさか、欲しいのか?」 「私のものなので、できれば返してほしい」  にやりと男が笑う。剣を捨て、懐から紙片を取り出した。薄い紙きれ一枚から放たれる禍々しい気配に、やはり不吉な暦帳の一部だと知る。 「返してやるとも。これをもってからというもの、ろくなことがない。誰も持ちたがらず、捨てても焼いても、なぜか必ず俺の手元に戻ってくる。気色悪いと思っていたんだ」  韶華はそれをそこに置いてと告げようとして、男はあろうことか、握り締めていた紙片を背後の水瓶へ投げ入れた。  はっとして躊躇わず紙片を追う。飛び込んだ先は、金魚鉢の中である。そのほとんど時を同じくして韶華の後を追う影があった。

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