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第24話

 紙片は水の中へゆらゆらと沈んでいく。それを追っていく韶華(しょうか)は、いつまでたっても水の中に落ちていかないことに気がついた。後ろから抱き寄せる腕に、身体は空中にぶらぶらと揺れていた。彼の手がすんでのところで瓶の口を掴んだのだ。 「……よかった」  こらえていた言葉を唇にすべらせ、続く静かな声に韶華は目を見開く。 「あの魚が、あなたを食べるには贅沢過ぎるよ」  柔らかな笑みを浮かべた、星郎(せいろう)だ。 「やはり、君か……」 「こんな汚いところでは、あなたはとても目立つから……」  首筋に唇を埋めるような星郎の近さに、韶華は思わず息を詰めていた。心臓を高鳴らせた疼痛は、不思議なことに恐怖からくる痛みではないらしい。妓楼で見た星郎の愛らしさのために痛んだのかとも思われたが、それとも明確に違う種類の、胸の痛み。  韶華はどうしたものかと顔を押さえつつも、水瓶の底へ沈んでいく紙片を指さした。 「不吉の暦帳の一部が瓶の底にあるんだ。回収してくるから、手を離してくれ」 「あの魚は、雑食だよ。食べられてしまう」  美しく瞼を伏せていた星郎がそっと瞳を向けた。  韶華はその暖かな眼差しにどきりとして慌てて目を逸らす。 「私は少し運がいいから、指一本ですむはずだよ」  ややすると長いこと考えていたらしい。星郎は好奇心を刺激する韶華の微笑を覗き込む。 「……俺の事を、吉祥の神だと、まだ、信じてくれる……?」 「もちろんだよ、どうしてだい?」  韶華は突然何をいいだすのだろうと首をかしげた。今更、信じるも何も、君は吉祥の神だ。無憂樹の花の痣をもちながら、自信がないのだろうか。 「それなら、俺といれば、あなたはすべてうまくいく」  いうやいなや、韶華を抱きかかえていた星郎が瓶の口から手を離す。  餌を投げ込まれたのだと勘違いした金魚が優雅に這い上がってきていた。  二人で落ちたら、助かるものも助からない。しかし星郎に力強く手を引かれて叱る暇もない。  彼は水神ではないはずが、まるで水の中を空でも走って行くようだ。  あっという間に鉢の底にたどり着くと、韶華は優しく紙片を拾う。悪神が言っていたように、水に濡れただけでは少しも破れてはいない。忽ち星郎は韶華を連れて水面に浮上した。その手や足が魚のひれのように見えるほど勢いよく泳いでいく。  金魚の気配を背に感じながら水面に顔をだした星郎は、急いで韶華を上に押しあげた。瓶口にとびあがって掴まる韶華もすかさず星郎に手を伸ばす。 「そのまま、私をよじ登ってこられるか?」  真っ赤な金魚の影が淀んだ星郎の足元に迫っている。  韶華は慌てて星郎に言うが、彼は薄らと口元に笑みを浮かべて動こうとしない。 「お前たち、何をしているんだ、早く上がってこい!」  陰氷の男が血の気の失せた顔で韶華を引き上げようと手を伸ばす。金魚がすぐ足元にいるのだと慌てふためいていた。韶華はその騒ぎなどまるで聞こえず、星郎の顔が少し寂しげに見えたことに嫌なものが走る。 「――星郎!」 「本当に、信じてくれる?」  そう、小さな唇が言ったのだ。  直後、星郎の姿が水底に消えた。  男の手を払いのけ、韶華は再び水の中に飛び込む。目の前の泡を掻き分けた先に、星郎の姿があった。長衣の裾が金魚のえらに引っかかっている。彼の息もほとんど限界のはず。韶華は急いで泳いでいくとその裾を引きちぎり、星郎の身体をとらえた。  丁度そのとき、低くくぐもった雷のような音が、ドン――と水中に響き渡る。  パリパリ……と何か剥がれるような甲高い音が続き、浮上していた韶華の身体は突然、強い力に掴まって下へ下へと吸い込まれていく。  激流と渦の中に勢いよく押し流され、離すまいと、韶華は星郎を強く抱き込んだ。その次の瞬間だった。身体に張り付いていた重みから一気に解放されて、はっとして韶華は目を押し開けた。  なんと、そこは金魚鉢の外である。  大騒動に目を丸くした神仙や妖鬼たちが回廊から身を乗り出し豪雨のように騒ぐ声がいつまでもやかましく響いていた。  一体何が?  戸惑いながら振り返る。罅割れた水瓶に大きな穴があいていた。そこから勢いよく水が流れ出たらしい。巨漢の男が目を回して近くで倒れているのを、駆けつけた男たちが呼びかけている。どうやらこの男が躓いて勢いよく頭をぶつけたようだ。  韶華は水浸しになった床に座りこんだまま、ふっと肩の力が抜けた。腕の中の星郎を確かめるように強く抱きしめる。しかしその安堵の最中に、 「何の騒ぎだ――?」  場に緊張を走らせる、厳めしい靴音。少し低めの女性の声が届く。 「灑女(さいじょ)……!」  立ち上がろうとした韶華の目の前に、百滋楼(しゃくじろう)の主、帥江(すいこう)の神女、灑女が麗々しくおりたった。彼女はうねる金魚を軽々と飛び越えて韶華の目の前までやってきた。 「これは……、花神さま、でしょうかね?」  癖のある黒髪を胸元に流し、冷たい銀縁の眼鏡をかけている。 「……いかにも、私が花神だが……」  ずぶ濡れの身体を抱きしめながら答える韶華の唇は青ざめていた。 「……事情は後で伺います」  震える韶華に彼女は息を吐きつつ、豊かな身体を抱きしめるように腕を組む。見ていられないとばかりに自らの上衣をかけた。 「部屋と、衣服をもってこさせます。ついてきてください。風邪を引いてしまう」  灑女は身振り一つで付き添いの男たちを走らせた。倒れ込んでいた星郎がゆっくりと身体を持ち上げて、一難去ったとばかりに濡れた髪を掻きあげる。 「……ほら、うまくいった」  韶華は悪戯っぽい彼の言葉に、「うぅん」と短く唸った。  これは、うまくいったことになるのだろうか。妓楼の夫人を通して見る限り、灑女という人物はかなりうるさそうだ。それに、割れた金魚鉢と、放り出されてしまった金魚。これもきっちり弁償させられることになるのだろうな……  韶華のその不吉な読みはあたり、百滋楼で灑女に従う韶華の姿を見かけたと、後に何人もの人々の話題になっていた。

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