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第25話

 春天にかかる夕霞のような天蓋に寝台は覆われ、濡れそぼった衣服を大胆に脱ぎ捨てる韶華(しょうか)の姿が、艶やかな紗から透けて見えている。彼は今、新しく用意された長衣を、まるでもやをまつわるように袖を通しているところだった。  衣服に包まれていても肌からは花気が漂う。その芳香のたゆむ先に、韶華の目から避けるようにして着替える星郎だ。 「終わったかい?」  とん、と床に下りて、机の上の紙片を大事に懐にしまい入れた。赤紫色の膏燭(こうしょく)の美しさに引き寄せられるようにして顔を上げたとき、韶華はたまらず言葉を失う。魅惑的な背中の逞しさが息に触れるほど近くにあった。背筋のくぼみから妖しい色香を放ち、毛先から滴るしずくが雄々しい肉体を艶然と流れていく。 「わっ、」  しまった、まだだったか――  慌てて身を翻そうとして、その肌につらなる美麗な文に引きとめられる。 「蝋梅の……、」と、その一節から、 「梅雨時期に……」という見慣れた一文が続く。  そして溢れるような長文の数々。白い肌を埋め尽くす黒い文字の海に、韶華は触れていた。 「これは……」  見覚えがある。す……、と肌を伝った途端、嫌悪感を剥き出しにした星郎が振り返り、韶華の細い手をまるで触るなとばかりに取りあげた。 「百滋楼(ひゃくじろう)に彫り師がいると聞いて、今日ようやく完成したんだ」 「彫り師……?」  ああ、どうりで。星郎が百滋楼に出入りしていると北神の護衛がいっていたが、それはこの彫り物のためか。  吉祥をまとう、星郎。悪くないものだなあと花も魅惑されるほどの笑みを浮かべる。 「目を通したことが、あるんだね」 「一部にすぎないけど。……千巻ほどあるらしい。その全てを、肌がうまるほど、その人の文字で俺の身体を満たしたい……」  吠えるようだった顔が熱っぽく、ぼうっと宙を見つめている。  背中の一文は脇腹の方にまで届いている。韶華はそれを目でおいながら、ふぅと息を零した。  気に入ったのか。  あの暦帳を読み込んで、それを肌に刻みたいほど…… 「私の……、」 「……あなたの?」  しまったと、韶華は口をつぐむ。毛嫌いしている人間の文字だと知って星郎はどう思うだろうか。養育者として嘘などもってのほか。「私の、」に続く言葉を考えていた韶華に、星郎は一瞬かみ砕けない顔をした。  卑劣な嘘だと冷然と態度を貫こうともしたらしいが、一文を読み上げる韶華の唇が慣れたようにさらったあげく、つらつらとその続きを述べていくのだから、星郎はまさか本当に、と息を殺し、驚いた顔が次第に恥じらいに染まっていた。  暦帳を書き上げた人物を、星郎は密かに慕っていた。恋慕にも近い感情を向けていた人物が突然目の前にあらわれて、星郎は思いがけずぶわりと逆上せ上がった。 「あなたが、これを……?」  取り上げていた韶華の右手が熱くなっていく。筆を弄したその細い指を一本ずつ丁寧に絡み取る。冷え切った指先の、そのしなやかさ、四百年ものあいだ、千巻まで膨れ上がった韶華の、吉祥を書き留め続けた手……  その慈愛と、執念とも言える、彼の善性、そして美しさ―― 「俺を、養育すると……」  星郎は身のうちに沸き起こった昂ぶりに言葉がつまり、溢れんばかりの感情に溺れていた。いじらしい桜色の頬に、韶華の指先を握りしめるその手はか細く震えきっている。 「俺が、あなたの傍に……?」  弱々しい瞳に韶華は見つめられ、ぎゅぅと心臓を掴まれるような痛みに喉を鳴らす。星郎の赤く極まった目元を優しくふれた。額に咲く吉祥の痣を、と、あわてて腕の傷痕を隠す。 「君が、吉祥の神として育つ間だけだよ」 「……韶華」  細く、長いため息を吐きだしきった星郎が、ようやく韶華の瞳を確りととらえた。縋るような目で韶華を見つめながら、両手をからめ、腕の傷を確かめるように唇を寄せる。恭しく足元に膝をつき、芳しい韶華の脚に口づけを重ね、すり寄るように囁いた。 「……ずっと、俺を傍において。必ずあなたの役に立つから。あなたに、池に引きずり込んだ償いを、させて……」  身の千切れそうなほど切ない声。快美のなものを秘めたつま先へとおりていく唇に慌てて顔を上げさせる。星郎の幸せそうな瞳が、韶華の胸を貫いた。あれほど恐ろしいと感じた狡猾さが、今では全くなりをひそめている。何か息苦しく胸の心拍を押しあげていくものがかわりに韶華の四肢を支配するようだった。 「……償いなど、しなくていい。それよりも君は善性を磨いて、立派な神になってもらわなくてはならない。それが、私の望みだ」 「……わかった。あなたの言うとおりにするよ」  韶華はおや、と首を捻る。言い方を、間違えただろうか。なぜ彼は従おうとするのだろう。韶華は困惑し、言い直そうかと考え込む。その様子を、星郎は優しく見守っている。韶華の盟神探湯の傷を、痛ましく掠めるように撫でていた。 「そういえば、鶏明はどうした? 君といるように言ってあったはずだが……」 「あの人には、出かけてくると言ってある」  今白昵山(はくでいさん)の留守を預かっているのは鶏明だけか。陰氷の男もここへ来ているのだから、鶏明は一人を十分に満喫しているのだろうな。  ところで、あの三匹の妖鬼と悪神はどうなっただろうか。それに、彼らが大事そうに抱えていたあの瓶……  星郎の艶やかな眼差しから逃げるように韶華は慌ただしく考え込んだ。 「君は先に白昵山に戻っていて。私はもう少しやることがあるから、帰りが遅くなると鶏明に伝えてほしい」 「俺も、一緒に残るよ」 「……残る?」  韶華は再び唸る。無意識に唇に指を押し当て、さてどうしたものかと部屋の中を歩き回る。星郎はやはりその姿を見つめて、どこか愉しんでいる風でもあった。窓枠に腰をかけ、長い足を優雅に組んでいる。韶華が悩む姿をつくづくと熱心に見つめた。その姿は鼻歌を交じらせるほど楽しげなのだ。  韶華はやはり頭を振り、仕方がないと星郎の手を引く。長衣を着せ、そのまま部屋をでると星郎の背を押した。 「星郎、君は一度白昵山へ」  その手をするりとかわし、韶華の真後ろへ飛ぶようにまわりこむ。 「そんな言い方では、聞けないよ。俺を従わせるつもりなら、ちゃんといわないと」 「星郎、君を従わせるつもりはないと……」  そんな押し問答を繰り広げる間に、妖鬼を捉えた陰氷の男が呆れ顔でやってきた。 「神を殺した動機を、知りたいのでしょう?」  遊んでいる暇はないぞという目つきだ。韶華はとりあえず星郎のことは後回しにして急いで男の後についていく。

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