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第29話

「――どうでした?」 「どうでした、とは?」  手の放せない用事があると、北神には会えずじまいで、結局不吉な巻物は韶華の手に残ってしまった。  続いて訪ねた陰氷の礎石の地へ向かえば、もはや顔なじみになってしまった男が忙しそうに出迎えた。  「どうでした?」とは、不吉な暦帳を紙片だけではなく本体も回収したのだから、さぞ不運が降りそそいだのではないかという期待の問いかけであったらしい。  それにこたえようとして、韶華(しょうか)は大真面目な顔をつくった。 「それが、恐ろしいことに、何も起こらないんだ……」  じっと固唾を呑んでいた男がごくりと喉をならし、聞き間違えたかと、慎重に聞き直す。 「……なにも?」 「なにも。不運を招き寄せるというのに、何も起こらないなんて、恐ろしいだろう?」  なんだ、不吉な暦帳とはいうが、所詮その程度か。男は落胆の色をしのばせる。韶華はにこにことしながら、何も起こらない、それがどれほど恐ろしいか話し始めようとした。  すると男は出口へ向かって雑に手を振った。 「では、星郎(せいろう)の件は、約束通りなかったことにしますから、もう戻って構いませんよ」 「そうか。悪いね」  韶華はそれならさっさと帰ってしまおうと、腰を上げた。  北神の微陽(びよう)が天界を治めるようになってから多くの妖鬼が行き交うようになっていた。神々もその自由を謳歌して妖鬼と親交を結んでいる。その分堕ちる神も増えたようだが。それでも妖鬼の万劫の孤独は、多少は癒されそうだ。  私が神格を失う頃には、もっと妖鬼との交友も盛んになるだろう。  ぼんやりと通りを歩いていた韶華は遠来に少年の姿をみつけていた。 「……韶華、」  すらりとたつ星郎の、銀灰色の輝きを帯びた声。その物思わしい瞳と滲むような笑みに自然と歩み寄っていく。 「帰り道が、分からなくなったのか?」  韶華は彼の頬に手を伸ばす。迷子になったのだと、その悲しそうな顔を見てそう思った。星郎は彼岸花の絡まる韶華の腕を危うげに抱きしめ、不慣れにすりよった。 「あなたを、まっていただけ……」  腕をとらえるあたたかな指先の熱。溶けてしまいそうなほどあつい言葉。韶華の香る指先にたえかねた星郎が、繊細な口づけを落とす。  その物欲しそうな彼の唇を、衝動にかられたままそっとなぞっていた。瞼を伏せ、されるがままに身を任せる星郎に、少しずつ近づいていく。  美しい、無憂樹の痣……、長い睫に散る、涙の雫……、愛らしいその、縋る様な瞳……  その全てが――  心を揺さぶられてはいけない。養育者で、善の神が、情を催すなんて―― 「……退屈させたか?」 「あなたに会えるというのなら、どれほど長い時間も甘美なものに等しい……」  韶華は星郎の手を引いてゆっくりと歩き出す。星郎は甘い嘆息を噛みしめていた。韶華の指先をとり、誰よりもその柔らかな声や吐息に触れているのだから。 「このままあなたを、連れ出してしまいたい」 「……そうか」  ゆらぐ星郎の瞳に心をかき乱されながら、韶華は淡々といった。  星郎が連れ出すとしたら、彼はどこを選ぶだろうか。 「そんな素敵なところが、あるのか?」  行ってみたいとも、思っている。切なげな笑みと、困ったような星郎に韶華は「ふふ」と零す。 「私は白昵山が好きでね。かつては曾明がいて、鶏明と、そして、今はおまえが、私の帰りを待つ場所だからね」 「あなたの好きな場所に、俺が……?」  星郎の控えめな笑みが優しくふりそそいでいだ。その微笑みが彼の口元にたえず見られるというのなら、どれほどの禍が押し寄せようとも、彼を信じて守っていける。  綿のようにやわらかい、生まれたばかりの、純粋な幼神。善は彼を養い、吉祥は彼を導くだろう。  もう二度と、この手を離してはならない……

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