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第31話
「花神、蝸牛がきています」
「待たせてしまったね。どんな用事だろう」
鶏明 は戸の前で腕を組み、苛立たしげに韶華を待っていた。こっそり抜け出したのを咎める心づもりだったのだ。
ところが、椿の木で睦まじい二人をつい見かけてしまってすっかりその気が失せた。しかも戻ってきた韶華は髪に花を挿しているのだから余計に。野暮なことは言うまいと目をつむったのだ。
真っ赤な顔と弾んだ吐息が、ただ走ってきただけだと、何も聞かないうちから韶華は言い訳にあくせくする。
鶏明は「ふぅん」と素っ気なく返事をして部屋の中を顎で決った。
「北神からの依頼だといっています」
「……なんだろう? 暦帳のことかな」
肩の凝る重い玉冠をおろし、韶華は部屋の中に入っていく。
ぬめった痕が縞を描く机の上だった。小さな蝸牛がうろうろと行ったり来たりを繰り返している。幼神の言伝を運んできたあの蝸牛だろうか。韶華は懐かしい思いで彼の正面に座った。
「大分待たせてしまったようだね」
「ええ、散々待ちましたとも! 北神から内密の依頼が――」
身体中に大量の汗を掻いていた。彼は大声を放ち、ハッとした顔をして口をつぐむ。頻繁に周囲の物音に聞き耳を立て、鶏明の仕草一つにも敏感に睨み付けた。
「この花祭りの時期、ここは人の出入りが激しいですからね。私の存在を怪しむ人などいないと北神は仰いましたが、帰路に命を狙われても、おかしくはない!」
「それほど危険な依頼を君が任されるとは、随分出世したんだね」
見た目も神格も、四十年前と大して変わらないように見える。けれど北神に忠実に従ったのだろう。声の大きさはやや、当時を凌ぐほどのものになっているだろうか。
「硅女 に暦帳を横流しした人物を見つけてほしいということです。それを、星郎に探させろと北神は仰っています」
「……星郎 に?」
「彼の神性を磨かせるためです。けれど本当は、北神は星郎を討つ計画を阻止したいんですよ」
韶華は何かの間違えだろうとにこやかに微笑んだ。
「星郎は吉祥の神だよ、彼を討とうとする者がいると?」
「凶神だと、周囲はしきりに噂をたてていますよ。空になった封印がその証拠だと。星郎は凶神の生まれ変わりだと言っているものもいるようです。楼閣にいては危ないですから、なるべく遠くへ連れだしなさい」
韶華はたえず微笑みかけていた。今になって四百年前の因縁が降りかかろうとは……
平然とした顔で、けれどその実、誰よりも凍り付くような恐ろしさにとらわれている。
「わかった。今すぐ、星郎を楼閣から遠ざけよう」
「花神、待ってください」
韶華が頷くのを、すかさず鶏明がとめた。
「なぜ星郎が凶神だということがばれているんです。それに、なぜ北神は花神を巻き込むんです。星郎に直接依頼すればいい。花神も今回は慎重になるべきだ。目的は星郎ではなく、花神の可能性もある」
「まさか、私をねらう神など……」
笑って誤魔化そうとしたが、鶏明がきつく韶華を睨み付けた。
「唯一金神の肩を持ったのは、あなただけだ。皆が恐れて震え上がる金神の封印を、解き放とうとしたんですよ。それで結局金神の封印は破られたのだし、あなたがやったと思われて恨みを向けられてもおかしくはない」
「恨みを抱く神なんていないよ」
善神は欠陥神だ。世界は善でできていると硬く信じ、悪意を決して疑わない。だからこそ鶏明は苛立った。
「星郎の力を嫌い、あなたから遠ざけたいのかもしれない。むしろ離した方が、あなたの身が危険になる可能性だってある」
鶏明が花神を説得するのもまたず、窓の外を覗いていた蝸牛が慌ただしく暇を告げる。
「ひとまず北神の意図は、告げましたからね」
鶏明のいつになく真剣な態度に、韶華は底冷えのするような寒さを覚えていた。
今の時期は神仙妖鬼が接触しやすい。狙いが星郎なら、楼閣から離すのが無難だろう。けれど、もしそれが自分の手の届かないところで、知らない間に星郎を封じるつもりなら……?
そんなことは起こらないと頭を振る。不安を感じる必要はない。
「北神は、星郎の討伐を阻止したいといったんだ。私は信じたい」
「あの時だって、あなたは北神に裏切られたのでしょう……」
「時流が変わってしまっただけだよ。どうしようもなかった」
微笑みながら、胸は重く沈んでいた。久しく鶏明の笑顔をみていない。無邪気な雀を一番苦しめているのは……
やはり偽善な神、盟神探湯の裁きは、正しかったというわけか。
悪い、すまないね、もう少しだけこらえてくれ――
その心の声を見透かしたように、鶏明が深く息をついた。納得していない顔である。けれど鶏明はどれほど危険がみえていようとも、主人に頷くほかない。
「星郎を、楼閣から遠ざけます。あなたと星郎を守るためなら、従います」
「……鶏明」
背を向ける鶏明が身軽に窓から飛び出ていった。張りのある若い身体を大きく逸らす。春風がふわりと襟足や前髪を浮かせ、鶏明は空高く飛躍した。たちまち両腕に羽が覆っていく。翼は上昇気流を掴み、姿はたちまち霞の向こうへ見えなくなった。
「鶏明、私の代わりに星郎を、頼むよ――!」
慌てて、韶華は姿の見えない鶏明に呼びかけた。
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