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第32話

 亀が一匹、古い藤蔦のしげる白昵山(はくでいさん)に残っているはず。  星郎(せいろう)が名前をつけないままなので、韶華(しょうか)も彼、もしくは彼女を亀と呼ぶしかない。  星郎が特別な関係を結べる相手だと韶華は期待したが、どうやら彼はこの亀の世話があまり得意ではないようだ。  ほとんど餌やりは鶏明(けいめい)が担っていた。だから自然と亀は鶏明に懐いている。  それをしらず韶華はある日、亀の上をひょいと跨いだ星郎をみかけて仲良く遊んでいるように見えたのだ。 「他者を重んじるのは、いいことだ。それは自然と神性を磨くことに繋がるのだからね」  そういって韶華はにこにこ微笑んだ。星郎が五十を少し超えた頃の話である。亀と関わるだけで韶華の笑顔が見られるのだと知った星郎は、それからこっそりと鶏明から餌の与え方と世話の仕方を覚えたのだ。  その一途さと懸命さに、惹かれていたのだろうか? もしくはずっと前から、夜偏城(やへんじょう)の池で彼を見たときから、恋心は芽吹いていたのかもしれない。 「……おかしいな」  韶華は裾を絡げてざぶざぶと池の中へ入っていく。  まだ硬い蕾の蓮を避けつつ、池の底を足裏でさらっていた。  星郎の友人である亀の姿が少し前から見えなかった。 「いつもは、目の見えるところにいるはずなのに……」  どこへ行ってしまったのだろう。鶏明も星郎もいない。だからだろうか。ざわざわといやな気持ちが次第に膨れ上がっていくように思える。  日も沈みかけたこの時間、白昵山に詣でにくる物好きもいない。楼閣を空け、韶華は灯りを手に足早に裏山を登っていく。 「おーい、どこにいるんだい?」  呼びかけながら、茂みの中や木の洞を覗き込んだ。西日は黒々とした木々の向こうに消え、あたりはぽっかりと穴のような暗やみが広がっていた。  もう少し探して見つからなければ、ひとまず楼閣へ戻ろう。亀が裏山を散歩したことはないのだから、庭をもう一度探してみるか……  そうして引き返そうとした韶華は、足の裏にクシャ、と何かいやなものを踏みつけた。  卵の殻だろうか。慌てて足をどけ、何を踏んだのかと燭を近づける。 「……ふ、不届き者め」  息も絶え絶えな小さな蝸牛だ。韶華は驚いた。 「なぜ、まだこんなところに?」  踏んだのは、この蝸牛の殻らしい。そのせいで大事な家が欠けてしまっている。韶華は小さな欠片を手のひらにのせ、包みこむように蝸牛を拾い上げた。その身体には踏まれたものではない細かな傷がついていた。 「……転がり落ちたのか? 身体の傷は、葉っぱできったのかな?」 「あなたと一緒にしないでください」  韶華だって転がり落ちたことなどない。 「何があった?」 「北神からの依頼は内密なもので、気づかれたら私の命も危ないと言ったでしょう……」 「誰かに狙われたのか?」 「わかりません。顔を見たとしても、同族以外、顔の区別がつかないんです……」  しくしくと殻を見て泣いている。伝令を務めているのに、顔の区別がつかないのはさぞかし大変だろう……  韶華は優しく蝸牛の欠けた殻に触れ、ぼろぼろと流れる涙を拭ってやる。 「傷の手当てをしてあげるから、泣き止んでおくれ」  その優しさにますますしゃくりあげる蝸牛を懐に入れ、韶華は急いで山を下りていった。  蝸牛が怪我を負ったのは、北神の懸念どおりだったのだ。やはり、星郎を離しておいてよかった。  今頃鶏明が安全な所に星郎を連れて行っているはず。安堵する韶華の胸元で、蝸牛がもごもごとしゃべり出した。 「北神をあまり、邪険にしないであげてください。これを、あなたに渡すように言われていたのを、今日思い出して、引き返してきたんです。そうしたら、こんなことに……。戻らなければよかった」 「だが、戻ってきてくれなければ、君を見つけられなかった」  蝸牛が殻の中から湿った手紙をひっぱりだす。小さく折りたたまれた生あたたかな手紙を受け取った。  韶華は慌ただしく楼閣に戻ってくると寝台に蝸牛を横たわらせ、小さな匙で痛み止めを含ませて薬瓶の縁についた薬を丁寧に傷にぬりこんだ。その小さな身体を扱うのだから目は皿のようになり、やけに神経が減った。蝸牛は目を閉じて眠っている。その小さな寝息が聞こえる傍で、韶華は一仕事を終えて息をつく。  北神からの手紙にようやく触れた。  薄らと消えかけてはいるが、墨はやはり、しぐれの香りがたちのぼる。蝋梅はついていないから、頼み事ではないらしい。どうやらかなり昔にしたためられたものだ。  ――君と会ってはじめて、私は春を知った……  燭の僅かな灯りの下で、北神の文字が浮かび上がる。韶華はふと訝しんだ。 「宛先を、間違えたんじゃないか?」  これではまるで、艶文だ。すぐさま蝸牛を起こそうとしたが、文末のさらに下のほうに躊躇いがちな署名が記されていた。 「……微陽(びよう)」  ひどく個人的で、懐かしさに溢れた名前。  それだけで誰にあてられた手紙なのかわかってしまう。 「私か……」  いつ、書かれたものだろう。いつか、春先に君を連れ出した日に綴られたものだろうか。恐ろしいほど遠い昔のことだ。それなのに今更蝸牛に頼むとは、あまりにも北神らしい。韶華さえ忘れている思い出も、彼にとっては宝物のように大事なものなのだ。  その頃は金神とも連んでいたのだから、北神はやはり金神のことをずっと後悔しているに違いない。 「白昵山(はくでいさん)太守(たいしゅ)、花神韶華はおられるか!」  そう考えているうちに、激しい怒号と楼門を打ち破る音が飛び込んでくる。その荒々しさに心地良く眠っていた蝸牛がびっくりして起き上がった。韶華は咄嗟に手紙と蝸牛を懐にいれた。

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