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第35話
星郎は今すぐ韶華の身体を抱きしめてその無事を確かめなくては気が済まなかった。
彼らが白昵山におりたったのは月の出始めた夜の浅みである。もどかしくなった鶏明が星郎を抱えて空を疾駆したのだ。
二人は日没からそれほど経たずして楼閣に駆け込んだ。
破られた楼門を目にしたときから覚悟はしていたが、楼閣の中はそれ以上に目も当てられず、思い出も、大切なもの全てが一つ残らずひきちぎられて荒らされていた。
「……ひどいな」
鶏明はガラスの破片を危うく避けて苦々しく眉をひそめる。長い廊下や部屋の中は砕けた茶器と薬瓶が散乱し、切り捨てられた机や寝台が行く手を阻んでいた。その木くず同然の椅子の影に、泥だらけの暦帳が落ちていた。
見つけたときの言いようもない寒気に襲われて鶏明は立ち尽くす。家の中は静まり返っている。
部屋中をくまなく調べていた鶏明はどこにも韶華の姿がないことにきがついていた。
まだ、探していない部屋が……
どこかに隠れているはず。そのうちひょっこり顔をだして微笑むに違いない。
――花神、どこだ。
慌てて引き返す鶏明の耳に、ひぃひぃと息を弾ませた蝸牛の声が届く。
「陰氷です……!」
「まだいたのか?」
北神の使いに構っている暇はない。鶏明は返事をしながらもほとんど上の空だった。のろい足では楼閣を出て行くにも時間がかかるらしいと、その呆れた口調に蝸牛が怒号を飛ばす。
「翼がありながら、なんて愚図な雀だ! とっとと花神を追いなさい! それから私を、北神のところへつれて行くんだ! 止めなければ! 陰氷を!」
ぴたりと、鶏明は立ち止まる。やたらと陰氷を連呼する蝸牛にようやく目を向けた。
「陰氷が、どうしたって……?」
不吉な暦帳は回収して、やつらもここには用もないはずだ。
「星郎が殺生をしたといって、代わりに花神が盟神探湯に――!」
蝸牛は真っ青な顔で必死に叫んだ。その絶叫に鶏明は鳥肌が立つ。
「盟神探湯だと……」
二度目。それも、星郎がいなくなった途端にこのざまだ。留守の隙をついたわけでないのなら、随分絶妙な間ではないか。相当前から用意周到に押し入りの準備をしていたかのようだ。
北神が裏切った。そうとしか考えられない――
韶華を神の座から引きずり下ろす魂胆なのだ。鶏明はやはり韶華の言うことなど押し切れば良かったと怫然と湧き立つ怒りに戦慄いた。
「汚い真似を!」
友人として金神の行く末を案じながら、結局韶華にだけ嫌な役目を押しつけたあの男。そんな怒りの炎が吹き上がっていた。
「星郎、俺はこいつと北神のところに行く。お前は……」
カツカツと靴音を響かせて足早に星郎の元へ戻り、今すぐ儀式を止めてこいと矢継ぎ早にいう。星郎の肩を引き掴んだとき、蹲るように項垂れていた星郎の気配にその瞬間、身の毛がよだった。ぶるぶると震える星郎がしおれた花を手にしている。その凄まじい怒りに鶏明はハッとして後退る。
真っ赤な花を片手に取りながら、星郎の耳には鶏明の声など届いてはいなかった。激しい潮鳴りの轟音とそのうねりに揉まれている。
亀の無残にも息絶えた姿。その傍に散る凋 んだ赤い花。狂おしい韶華の髪に挿した、恋情の一輪の椿。泥だらけの靴が暦帳と床を踏み荒らし、その全てが星郎の神経を逆なでした。あまりにも激しい感情を猛らせたのだ。
亀など言葉は通じない。そもそも友人になれるわけがない。そう思いながらも韶華が褒めてくれるから世話をした。それを嬉しそうに見つめる韶華の姿を、たった亀越しでしか眺められなかった。
優しいあの瞳を向ける韶華に、たった一度でも見つめ返すことができたのなら……
その韶華が盟神探湯に――
なぜ、善神である彼が報われない? 韶華のために善を重ねてきたというのに、なぜ善行が彼を救わない?
善であり続ける限り、韶華を守りきれない。善でいる必要など――
「星郎――!」
「何をする気です――!」
鶏明の悲鳴と、蝸牛の憤りが楼閣に響き渡る。
すぐさま、鶏明は星郎の胸ぐらを掴んでいた。
「馬鹿な真似をするな! 花神はお前の善性を信じているんだ、あいつが善でいる限り、お前も善であり続けられる。その努力を、裏切るつもりか! また、あいつを一人に、させるのか……!」
星郎は打ち捨てられた瓶に触れていた。銀色の煙り、凶神の神性が満ちる瓶。百滋楼からこっそり持ち帰ったもの。
それを、少しも躊躇うことなく開けていた。
たちまち煙りに包み込まれる星郎。胸ぐらを掴んでいた鶏明の手は衣を逃し、慌てて伸ばす指先は虚空を引っ掻くだけで星郎の痕跡は何一つ残ってはいなかった。
その直前、跡形もなく消えてしまった星郎の目の色に、鶏明は静かな痛みに喉を掻きむしった。あれが狡猾な凶神の、顔付きだとでもいうのだろうか。穏やかで、やわらかく、悲しげな瞳をしていながら。
韶華だけが彼の全てを信じていた。それを星郎が知らないはずがない。善神であり続けると、韶華と戯れに結んだ約束を彼は解いてしまったのだ。もう二度と、韶華の前に姿を見せることなどできやしない。
「……だから言ったんだ! あいつは禍を運んでくると!」
鶏明は怒りにまかせて床を打ち叩く。痛いほどの静寂が苦しく喉をふさいだ。荒く息を吸い込み、フッと短く息を吐きだす。怒りと悲哀に引きずられる重い身体に鞭を打ち、すぐさま立ち上がった。
蝸牛を夜偏城まで届けたあと、鶏明の姿は闇の中に消えていった。
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