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第36話

「まさか花神が殺生を――?」 「星郎だと聞いたよ」 「どうやら花神が庇ったらしい……」  声高な驚きとそれに続く勘ぐったような相づちが、煮えたぎる湯釜(ゆがま)を中心に集まった見物の騒ぎで、おおむねそのような会話が四方から飛び交っていた。  彼らの関心は韶華の罪状ではなく、四百年前、金神を庇った花神が再び凶の神を庇い、そして今度こそ神格を失って堕ちるのではないかという期待である。  善と吉祥の神の、堕ちた姿がみたいのだ。天界で最も優れ、最も美しい神が、どのように憐れで醜い姿になり果てるのか。彼らの興味はただそこにあった。 「これより、白昵山太守、花神韶華を盟神探湯にかける――!」  韶華の頭上でざわついていた声が、しんと静まり返る。その静寂の渦中に韶華は瞼を伏せて凜と立っていた。  ぐつぐつと泡をたる真っ赤な煮え湯に、一昼夜と熱され続けた釜は近づくだけで肌がひりひりと焼けるよう。開いた目さえすぐに乾くほどの熱気に、韶華の鼓動は早鐘を打っていた。 「罪状は凶神を育てたことである」  ざわりと、韶華は波立った。 「……育てたこと?」  凶の神の彼に愛情を注ぎ、慈しんだことが罪だとでもいうつもりか?  四百年前、韶華を投獄した罪は凶の神を解放しようとしたことだった。人々の心に恐怖を植え付け、平和を脅かした凶神。それを北神に断りもなく解放しようとした罪。  これをひとくくりに彼らは「悪事」と呼んだ。だから、悪事を働いたのかと問われれば、韶華はこれを悪事だとは認めなかった。  善と吉祥の神が「悪事」を否定すると見越してのこと。韶華が金神を解放しようとしたのは事実で、その両腕に邪と偽りの烙印を刻まれたのはその悪事を否定したためだったのだ。 「そなたに聞くが、以上のように罪を犯したか?」  韶華は熱気にあおられ息をとめていた。両腕に刻まれた彼岸花がじくじくと痛み出す。乱れた呼吸を整える暇もなく、震える唇をかすかに開き、(くずお)れそうになる身体を必死に奮いたたせていう。 「……星郎を育てたことは、罪ではない」  男を見つめてまっすぐに言い放った。  その身体はすぐさま陰氷たちによって押し掴まれる。袖に覆われた腕がぐつぐつと煮立つ湯の上に翳された。途端、噴き上がる上気の痛みに韶華は喉の奥から喘ぐような息を絞り出した。  恐ろしい。わなわなと震える身体に、いやだと、何度も身体が反り返り、足は一歩と進めない。それを押し歩かせる男たちの、なんて残酷なことか。  ――怖い  橙の炎が両腕を舐め這ってくるあの痛みが。腕だけでなく、神性の宿る腹や永久の神命が、絶叫を掻き立て、ひき裂かれるようなあの痛みが怖い。 「……盟神探湯が、私を悪だと裁くことは、決してない。私は彼を信じている。彼は善性を持つ神なのだから……!」  祈るような悲痛なその叫びが、まさか湯釜を揺らしたというのか。  鬼の顔を刻印した細い三つ脚がぐらぐらと大きく左右にうごき、咄嗟に韶華をそこへ突き飛ばした男が、むしろ悍ましい悲鳴をあげた。  波打った熱湯が、韶華を押さえていた男たちに浴びせかかったのだ。  その瞬間、聴衆たちはみていた。湯釜が何らかの力によって浮かび上がり、それが宙にひっくり返って韶華の背後に降りそそいだのだ。そして、韶華は美しい衣をまとった青年の腕に引き寄せられ、香るように抱きしめられていた。 「神具は偽物だ――」  裁きの場に響き渡る、鶏明の矢のような声だった。  ひっくり返った湯釜を足で押さえつつ、彼は熱湯を浴びて転げ回る陰氷たちを剣によって脅している。 「本物の神具なら、熱湯を入れられて飛び跳ねるわけがない。神具を利用し、善と吉祥なる花神を穢そうと貶めた。その者たちこそ罪人だ!」 「――直ちに、神具を用意しろ。盟神探湯だ」  火傷の痕に触れられず転げ回っていた男たちの表情がすっと消えた。鶏明の背後から仰々しく登場した、北神の姿を目にしたためだった。  なぜ、北都北帝が……  そんな疑問が、彼らの目に過る。北神は冷ややかに陰氷たちを睥睨していく。次々と縄をかけていくのは、北神の剣士。陰氷の印を持つ瀟洒な装いの青年たちであった。  観衆たちはそれを目撃して我先にと逃げ帰っていく。邪な気持ちで裁きを待ち望んでいたことを、天界の主にだけは知られたくないようだ。その混乱と無実を訴える陰氷たちの喧噪のなか、鶏明と韶華は少しの間見つめ合っていた。  韶華がことに気づいてふと、目を見開く。鶏明はその直前に視線を落とした。 「……善の神にはできない、あくどいことをすると、言ったでしょう」  どこか寂しげな声だった。鶏明の身体が眩しいほどの光りに輝いていることに、韶華は気づいていたのだ。  神具の嘘を暴いたことが、神格を得るにたりるものと判断されたらしい。 「……神に、なったのだね」  神が神を従えることはできない。 「行くと良い」  未練など、感じないほど手をかけなければよかっただろうか。見送るほど、なおのこと身にしみるものはない。そのたえがたい痛みをこらえて、韶華は微笑む。悲痛が韶華の身のうちでのたうっていることを、鶏明は見抜いていた。それでも、ああ、やはり韶華は、こういうときだけは卑怯にも我が儘を言わないのだと、鶏明はやがて諦めたようにゆっくりと息を零す。  鶏明、君は立派な神になるよ。  心の呼びかけにも、鶏明は一度も振り返らなかった。 「……それで、神具が、偽物というのは? 星郎」  腰に手を回す青年を見上げる。鶏明を振り切るような声だ。表情にはまだかすかに真新しい痛みが浮かんでいる。  けれど控えめに瞼を伏せる星郎の、その悲しげな顔に韶華はいつまでも悲嘆に暮れている場合ではなかった。 「鶏明が、湯釜を偽物に挿げ替えた。北神と協力して……」 「あの鶏明が北神と協力を?」  しかも、神具を偽物に挿げ替えたのが本当は鶏明だったなんて。それに気づかなかった愚かな陰氷たち。韶華は呆気にとられながら、「あくどいこと」の意味に苦笑った。  すると、北神の登場や神具の騒ぎで揺れていた場に、「ぎゃ――っ」と拉げた声が響く。  誰も触れていない湯釜が、まさかひとりでに動き、不運にも罪状を読み上げ、こっそり逃げだそうとしていたあの男を押しつぶしたのだ。  不吉な暦帳なら白昵山にある。けれど不運な目にあっているのは韶華をとらえた陰氷らだ。なぜ不吉な暦帳を持っている自分ではなく彼らに不運が重なるのだろう。  ひょっとして星郎の吉祥が暦帳の不吉をはね除けているのだろうか。  それならこれほど喜ばしいことはない。そう思いながら韶華は困惑した。星郎の前髪を掻き分けて吉祥の痣に触れる。  ……なぜだ?  信じ続けてきた彼の善性の気配が、まるで霧に覆われてしまったように輝き失せている。  彼の為に神性を磨いてきたはず。  韶華は失念していたとばかりにあっ、と視線を落とした。盟神探湯の場に引きずり出されたこと事態が、星郎の神性を穢したのだろうか。その一瞬の戸惑いの後だった。星郎は同時に韶華の顔を覗き込んでいた。 「星郎、君なにか……」  顔をあげて呼びかける韶華の唇に、危うく星郎の柔らかな唇が重なる。いっときの吐息がはからず絡みあった。  艶やかで蠱惑的な星郎の唇。  ……したい、  韶華は衝動におそわれて、赤らんだ顔のまま固まった。このまま押しつけてしまっても、この状況なら不自然ではない。何事もなかったように振る舞えば良い……  けれどそれは、なんて自分勝手なのだろう。星郎が嫌がるに決まっている。堪えなければ。善の神なのだから。 「韶華……」  我慢を言い聞かせる韶華に、星郎が甘い吐息を耳元にそそいだ。その切ない囁きに震えた一瞬、唇の端に、優しい口づけが落ちていた。そして美しい浅葱色の衣を翻らせて、彼はゆっくりと後退っていく。 「――ごめんなさい」  星郎の、身が千切れそうな細い声。  何の謝罪をしている? 「……唇が、触れたことか? 近かったんだ。謝ることでは……」  ゆるく頭を振る星郎に韶華はわけが分からず必死になっていた。星郎が遠ざかっていく。すぐ目の前にいるはずなのに、なぜ手が届かない?  たまらず駆け出していた。しかし星郎はますます銀色の煙りに濃く包まれて姿が見えなくなっていく。そのままどこかへ消え去るつもりなのだ。百滋楼の水瓶のときのように。 「君、まさか……あの湯釜は、君がやったのか……?」  言い終わらないうちだった。渦を巻いた突風が吹きつけ忽ち星郎をのみ込んだ。必死に伸ばす手が強風に弾かれ、すぐそこにいる星郎に一つと触れられない。 「星郎! ……どこへ行く気だ!」  風と煙を掻き分け押し入とうとする腕に(つぶて)と木枝が切り裂いていく。痛みなど少しも感じない。星郎――ただ彼をこの渦の中から引きずりださなければ!  やがて突風が空へ消えたとき、土埃はいまだ暗然とあたりに漂ったまま。はっとして星郎のもとへかけつけようとして、暗く塞がれたその場所に、韶華だけが呆然と項垂れていた。  誰一人、すでに残っていない。曾明も臣下も、侍女も鶏明も!  未練はおさえて、執着は捨てるべき。でなければ、罪を受けた穢れた善の神として、彼らの神性を穢すことは許されない。  ……けれど、それならなぜ、これほど星郎を手放しがたい。追いかけて、なぜ触れたいと思うのか。彼の温もりを、彼の言葉をもう一度感じたい。彼を、連れ戻さなければ。彼のすべてがほしい。彼の全ては、私のものなのだから……

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