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第37話

 泥濘(ぬかる)んだ悪路に場違いにのんびりと進む荷車があった。  牛の放つ生あたたかなにおいと、稲のいきれに蒸された独特なにおいが漂っている。  簡素な巻物を山のようにつんだ荷車はごみ捨て場から拾ってきたために軸はゆるみ、二本あるうちの引手は一つ抜けていた。縄をくくりつけて引いているが、片輪が常にういているような代物で、なにより荷台には穴があいていたのだ。  荷主はそれに気づいていないのか、(わだち)を外れて激しく揺れると、山の様に積み上げた巻物はなだれのようにくずれ落ちた。  荷主はそのたびに立ち止まって拾い集め、泥を丁寧に落として再び積みあげる。  ひょっとしてあの吉祥を綴った暦帳だろうか。  通りがかりに足を止め、男はしげしげと美しい荷主を見つめた。  仙女や神女の他に美しい神がいるとすれば、それは花の神だけだ。それほど心かき乱すような体つきと、柔らかな笑みを唇に浮かべた青年である。けれどもし彼が花の神なら、こんなところで荷車を引いているわけがない。なぜなら、花神は二度の盟神探湯によって神性を濁し、神格を失ったからだ。白昵山(はくでいさん)はすでに荒廃したという。楼閣の主もそのまま姿を消した。吉祥を求めた妖鬼らが輝き失せた楼閣を目にしたというのだから、事実だろう。  中は酷い荒らされようで、留守を預かるものさえいなかったというではないか。  それにしても、あれが吉祥の暦帳だというのなら、原本でなくても手に取る価値はある。 「その巻き軸、少し拝見してもよろしいか?」  男はそれにくわえて少なからず打算があった。人並外れた美貌と高潔な神性をまとうこの神に。  すると、ゆるく括った髪を美しくなびかせながら、彼、韶華(しょうか)は嬉々と目を輝かせた。 「勿論だとも! 凶神の華々しい逸話をたっぷり読み聞かせてあげよう。さあ、そこへ座って」  民家から拝借した瓦礫をまるで躍るように荷車の前に用意して、特別にできの良い一巻を、と荷台を漁りだす。 「逸話? 吉祥の暦帳ではないのか?」  男の肝を抜くような声に韶華も驚いた。 「なぜ、暦帳だと思うんだい? そんな物を持っているわけがないだろう」  韶華は巻き軸をさっと空に広げた。ごほんと咳払いを一つ。帰ろうとする男の肩を掴んで座らせて、声を高らかに読み上げた。 「今から千二百年ほど前のこと。(もっと)(いと)うべき凶の神、金神がどのように誕生し、そして生まれ変わった彼の心がどれほど優しさに満ちているか……おや?」  見ると男はすでに立ち去った後であった。目当ての巻き軸ではなかったのだから、聞くだけ時間の無駄とばかりに、去り際、腹いせに荷車を蹴っていったのだ。そのせいで巻き軸は虚しい音を立てて崩れ、片輪の浮いている荷車なのだから、韶華が慌てて押さえる間もなく倒れてしまった。 「暦帳よりよほど、意味のあるものだが……」  泥水の底に巻き軸が沈んでいる。濡れてしまった。息を飲み込んでそれを素早く拾い、裾や袖で丁寧に拭った。中身を広げ、韶華は優しく泥を取りのぞく。早く乾くようにふぅと息をふきかけた。  この巻き軸にびっしりと記されているのは、星郎のことだけだった。  妓楼の少女に瑞祥の言葉をささげ、亀と親しく交流した彼の優しさ。三日もかけて楼閣を再建させ、崇拝と畏敬の念を養育者に深めた忠義、その記憶を追いながら韶華は息を吹きかけ続ける。  この逸話が広まれば世に蔓延る星郎の悪評も翻るはず。そのために韶華は各地を転々として聞かせ歩いていたのだ。  あるときはおしめの代わりにもなり、屋根の穴の修理にも使われた。星郎がこの巻き軸の存在をしって、今に欲しいと戻ってくるのではないだろうか。不吉な暦帳さえ欲しいと強請った子なのだから―― 「……善であり続ければ、道は開く」  荷車をおこし、韶華は再びゆっくりと歩き出す。  だが、その少しもたたないうちに再び韶華は立ち止まっていた。

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