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第38話

 先ほど巻き軸を勘違いした男が肥だめに真っ逆さまに埋まっている。 「……何をしているんだい?」  どうやら泥濘(でいねい)に足をとられ、拳ほどの石に躓いて蹌踉めいた挙げ句、肥だめに突っ込んだらしい。  韶華は見覚えのある男の足を掴み、肥だめから引きずり出した。と、涙ながらにいやな顔をして、男は恨み言をつらつらと吐き捨てる。 「お前に関わったから、こんなことに……」  運の悪い男だと韶華は苦笑いを零す。 「私の巻き軸をあげるよ。その(くそ)まみれの身体を綺麗にするといい。何せ沢山あるのだから、惜しくはない」  韶華はせっせと男の足元に巻き軸を積み上げた。そして礼など必要ないのだと、かわりに彼の臭う手を握りしめていう。 「星郎を信じれば、そのうち雨が降ってお前の身体を綺麗にするだろう」  そうして韶華は晴れ晴れとした心で村を離れた。  その日のうちに雨雲が立ちこめて本当に雨が降り出したのだ。あの男が星郎を信じたのだろうか。まるで慈愛にあふれたあたたかな雨だった。韶華は濡れないように巻き軸に領巾をかぶせ、足早に次の街へと向かう。  ところで、同じように次の街へ急いでいる集団がある。  彼らは隊商ではない。粗末な木箱だけを積み、長旅に必要な装いもなく護衛もつけていない。先頭を行く行者は山賊のような身なりをして、腰に錆びた抜き身の刀をぶら下げている。後に続く五人はそれぞれ頭にかぶり物をしているから、どうやら妖鬼のようだ。彼らはみな言葉少なに黙々と、まるで何かから逃げるようだった。  韶華はいつしか牛に荷を引かせたこの一行と合流し、集団の一員のごとく紛れこんでいた。くっついて歩く韶華を彼らは最初怪訝な顔をしたが、行き先が同じなだけと特に追い払うでもなかった。  道は険しい山道で、やがて目の前を細い吊り橋が現れた。はるか下では岩を噛む急流が唸りをあげている。  自然と殿(しんがり)を務めてしまった韶華が、もたもたと橋の上で荷車を押す。車輪が、橋の入り口で引っかかってしまったのだ。押しても引いてもびくともしない。さて、どうしたものか。  悪戦苦闘しているその最中だった。  突如と前方から怒号が上がる。 「どこの手のものだ!」 「なんの騒ぎだ――?」  と、激しく橋が揺れだした。二匹の妖鬼が牛を引いて駆け戻ってくるところである。ところが韶華の荷車が橋の入り口を塞いでいるのだから、彼らは冷静さを欠いた態度で韶華に怒鳴り散らした。 「捨てちまえよそんなボロい荷車も巻き軸も!」  黒衣に身を包んだ人物が橋のもう一方を塞いでいるらしい。しかも剣を手にして行者を脅しているようだ。妖鬼らは命からがら黒衣の人物から逃げてきたというのに、そこに韶華が立ち往生しているのだから烈火のごとく怒りまくった。  黒衣の人物はあっというまにこの橋を支配下に置いた。吊り橋の綱に飛び乗り、向かってくる行者を身軽にかわすと逆に衣服を掴み、橋の際ぎりぎりにおして立たせ、切っ先を橋の上の全員に突きつけたのだ。 「剣を捨てろ! 命が惜しいなら荷物を置いて川に飛び込むか、ここを離れるんだ!」  鋭い若者の声だった。  それに覚えがあるようだと首を捻った韶華は、あっ! と、危うく落としかけた巻き軸を空中でつかみ取る。その屈み込んだ拍子に、若者の背をどうやらおしたらしい。  蹌踉めいた若者がぎろりと韶華を睨み付け、押されて形勢を崩した隙に行者が逃げだす。妖鬼たちがその後に続いた。若者が舌を打ち、高々と跳躍を一つだけすると橋の出口にすっと降り立ち、さらに猛々しく迫った。 「逃がしはしない! 硅女(かくじょ)の名誉にかけても!」  硅女、その名前に韶華はようやく青年の名前を思い出す。  槐葉(かいよう)だ。  しかし、喉のつかえが取れたすっきりさとは裏腹に、韶華は気を揉んでいた。激しく揺れる橋に掴まりながら、少しずつ傾きかけている事に韶華だけが気づいていた。 「槐葉……、それ以上暴れたら、橋が……」  言うのも聞かず、槐葉が再び飛び上がって男たちに剣を振りかざす。  橋の綱が切れたのは、彼がダン――ッと勢いよくおりたったときだった。  巻き軸も、男たちの荷物もみなそのまま川の濁流へ真っ逆さまに落ちていく。  どうしてこんなことになるのだろう? まさか鶏明がいつかいった貧乏神とやらになってしまったのだろうか。額を抱える韶華は短くうなり、激しく流れ下っていく川の中にのみ込まれた。  水の神ではないのだから、残念ながら泳げない。それに流れが速く何かに掴まる余裕もなかった。なんとかして顔だけでもあげたいが、激流に揉まれてどちらが上かもわからない。息ができず溺れていた韶華を引っさらうように助け上げたのは、槐葉だ。 「……なぜ、私の邪魔をなさるんですか」  落胆と苛立ちの含んだ大きなため息が水浸しの頭上に落ちた。韶華は岸へ這いよじりながら、どうやら水難の相もでているようだと冷静に分析していた。水の中に落ちたのは、これで三度目だ。 「……邪魔をしたわけではないけれど、結果的にそうなってしまったね」  槐葉は黒衣をむしり取る。硅女の城はあのとき焼け落ちて滝に落ちてしまった。そのときの裂傷と火傷痕の生々しい傷痕が露わになった。 「硅女は、どうした?」 「神性を穢し、私より酷い火傷を負いました。あなたに、手を出したからだ。長いこと意識が戻りません」 「星郎については、諦めるのかな」  そろそろ先へ進もうかなと韶華は腰を上げた。それを冷ややかに見る槐葉だ。 「あの嘘つきめ……まんまとあなたに取り入って庇護を受けるとは、いけ好かない。おかげで私たちがこんな目に……」  歯ぎしりを深くする槐葉にそれは誤解だと韶華は苦笑いを零した。 「君は城から星郎が出て行ったのを見たのかい?」 「いいえ。ですが星郎以外にいない」  暗い水底の潭を見るような険しい顔付きだ。どうやら槐葉には星郎に押しつけてしまいたい何かがあるようだ。 「ところで、あの行者をおそったのは、どうしてかな?」  行者と妖鬼らは黒々と翻る波の中へきえてしまった。牛に荷をひかせていたが、その荷物も水の底だろう。これだけ流れが速いのだから、ひょっとすると押し流されて、運が良ければどこかに引っかかっているかもしれない。

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