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第40話

 寂しい薄暮(はくぼ)のゆうやみに桜はあでやかにゆれている。  小高い丘の上から地につくほど長い枝を垂らし、花枝は木の傍の小さな玉房閣(ぎょくぼうかく)に垂れかかって簾のようだった。丘はよく見ると壊れた石碑が長い年月を経て草と苔に埋もれてできたもの。かれはじめの花片がしきりと降りしく、幽玄な場所だった。  ――ここのおじいさんは少し、苦手だな。  韶華(しょうか)は気が進まないながらも立ち上がり、開け放たれた門の中へ入っていく。  春の庭に夕方の月は朧とかすんでいる。赤々と火の灯った吊り灯籠が軒先を照らしていた。庭のいたるところにも鉄の灯籠が無造作に放置され、火花の散る小さな音があちこちから聞こえてやたらと騒がしい。 「……おや、違う、これはすべて、妖鬼かな」  韶華は灯籠の中を覗き込み、その赤い正体に驚いた。  赤肌の小さな小鬼が灯籠の中に閉じ込められている。それらが口々にチッ、だとか、クッだとか、唾を吐く勢いで何か罵っている。火花の散る音ならまだしも、鬼たちの舌打ちの大合唱が庭中に聞こえるせいでひどくやかましかったのだ。 「あなたは神格を失い、妖鬼に堕ちたと世間では言われています」  その不気味な灯籠を嫌そうにしつつ槐葉(かいよう)がいう。 「……私のことか?」  韶華は誰が神格を失ったのだろうと真剣に考えた。まさか、弱いなりにもまだ神格を有している。それなのに堕ちた存在だと影で言われているとは思わない。どうりで皆、韶華に気づいても疑わしい目を向けるわけだ。最近は吉祥を求めにくる妖鬼もいないのだから、随分と過ごしやすいと思っていたがそんな風聞が広がっているとは…… 「ところで、ここには玉房閣の主がいるはずなんだ。どこへ行ってしまったかな」  灯籠を一つ手に取って小鬼にたずねるが、ぶつぶつと文句を呟くだけでじっと一つところを睨み付けている。その鬼の目が突然、韶華の背後に鋭く向いた。フンッと鼻息を荒げ、玉房閣の主の登場を忌々しく知らせる。 「私を、お探しかな? 花神」  気づいて韶華はくるりと振り返った。 「おや、そこにいましたか」  薄くなった髪を背に垂らし、白い眉を整えた玉房閣の主、矍鑠(かくしゃく)とした老人がそこに立っていた。韶華は軽く会釈をかわして目元をやわらげる。 「百虫(ひゃくちゅう)どの」  凶神や悪神の類いではない。ましてや妖鬼や悪鬼なはずがない。韶華より長命な老人で、分かっているのは彼が神としての役割に飽き、輝く名前さえ捨てこの川の下で余生を謳歌しているということだけ。庭中の妖鬼は彼の収集癖の一つであり、その数がまた一段と増えていることに、韶華はやはり、苦手だなあとの思いを深めていくのだ。 「瓶を返してもらいにきました。ついでに巻き軸の一本でも持ち帰ることを許してくださったら、嬉しいんですが……」  韶華は悩みながら切り出す。その迷いのある顔つきに百虫翁がにやりと笑った。 「ついでとな? あの巻き軸はお前さんが書いたもののようだが、それよりもあんな瓶が欲しいというのか?」  百虫翁の意味ありげな笑みであった。韶華はゆるく首をかしげ、ちらりと槐葉を振り返る。わけが分からないと言わんばかりの困惑顔をする彼に韶華はそっと唇に笑みを浮かべる。 「おそらく、彼ではたえられない」 「私の目には、お前さんの方が危うく見えるぞ。神性も神格も随分弱い。凶神と関わったせいだろう。川の下まで噂が聞こえてくるよ。――殺生をしたと」  韶華は笑みを口元にはりつけながら、ざわざわと騒ぎ立つ気持ちを押しとどめる。百虫翁は韶華の嫌悪感や焦りを見抜いているのだ。どれほど韶華が星郎を大事に思っているのかも。  じりじりと腰を引きつつ、韶華は曖昧に笑った。 「星郎ではない」  否定してしまえばもう後戻りはできない。百虫翁との取引が始まってしまう。弱々しく瞳の光りを揺らす韶華に百虫翁は顎の髭を整えながら鋭い視線を投げた。 「凶神は、災禍を招く神だ。彼が自ら殺さずとも、彼の周囲には常に死がつきまとう。それでも、信じるというのかね?」  老人は無邪気に微笑んでいた。首を振れない韶華の性格を、彼はよく知っていた。 「……彼は、吉祥の神。善性を持っています」 「気づいていないのか。星郎は凶神の生まれ変わりだ。お前さんが封印を解こうとしていたあの金神だよ」  やれやれと言いたげな老人に、韶華はどこまで知っているのだろうと血の気が引く。 「だから、なんだというんです。それならむしろ、彼の善性は疑いもない」 「善の神よ、その名にふさわしい受け答えだな。この暇な老人に、それを証明してみせてくれないか。そうすれば瓶を持ち帰ることを許そう。もし証明できなければ、瓶もお前も、それから後ろの若造も、私の収集品の一つになるぞ」  カカッと大口をあけて笑う。百虫翁はさっそく門の外を指さした。 「門の前の水路にごみが詰まってしまってね。水が流れていかないんだ。お前さんはあの巻き軸が大事ではないらしいから、一つ残らず燃やしてしまってくれ。間違っても私に隠し事はしないことだ。後ろの若者が、妖鬼になってしまうぞ」  韶華はまさかと慌てて門の外へ飛び出した。さっきまではなかったはず。見ると、そこには韶華が苦心して引いてきた荷車が、百虫翁の言葉通り水の流れをせき止めていた。巻き軸もそこに、荷車にひっかかるようにしてこんもりと山のように積み上がっていた。  韶華は胸の痛みに気づいてしまう前にすっと踵を返す。 「いいだろう。お焚き上げというやつだね」  庭の篝火(かがりび)から火を移し、少しと考える暇もなく荷車に火を放つ。  ――と、それを直前で槐葉がとめた。韶華の迷いのない行動がむしろ槐葉の不安を煽り、ただならない感情を呼び起こしていた。 「花神、あの巻き軸は、必要なもののはず。燃やしてしまっていいわけが……」  水路に降り立っていた韶華は槐葉に引っ張られて力なく蹌踉めいた。足元に視線を落として、粗末な巻き軸を目にかすめてしまう。  金神の逸話とは大きく言ったが、実際は星郎との思い出をただ書き綴っただけの、日記のようなもの。誰もそれに見向きもせず、価値など見いださないことを知っている。それでも韶華は、硅女(かくじょ)のために奔走する槐葉の優しさを見捨てることなどできない。 「君が取り戻したいものと違って、貴重なものではない。私がまた、書けばいいだけだ」  にこりと微笑んで、韶華は火を放った。

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