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第2話 独りのヒートとニアミス

あれから一月。 電源を落としたままスマフォは解約した。新しいネックガードも買った。 在宅でしていた仕事はそのまま続けた。僕の場合、エージェントを通して仕事を受けていたので問題なく続けられた。人の生活に合わせなくても良い生活は計画が立てやすく。以前よりも積極的に仕事を受けるようにした。 シェルターでの生活はとても穏やかだった。 シェルターの職員さんが教えてくれた通り、この町の魚介類は本当においしい。魚介だけ じゃない。野菜もお米もおいしかった。ご飯がおいしいなんて、幸せだ。彼のいない生活が平穏に過ぎていく。 海も何度となく行ってみた。 遠くから見ていた海は美しいだけだったのに、近くで見ると波は高く凶暴で驚いた。 初めての一人暮らしのなか初めてをひとつずつこなす1ヶ月だった。 そしてもうすぐ、初めて彼のいないヒートがくる。怖い。彼と付き合う前は一人で対処していたのに。怖くてたまらない。 ただ、彼無しで一人で生きていくための証明にはなる。 乗り越えなきゃいけない。 担当さんのおすすめのお総菜屋で魚料理を買うために街に来ていた。街に出るときは必ず担当さんが同伴するが、買い物は自由行動で決めた時間に集合する。 以前は彼に合わせて肉料理が多かったが、魚のおいしいこの町では魚料理を覚えようと奮闘中だ。なので、おいしい魚料理の味を見て勉強しようと思っている。 今日は鯖みそに決めた。メニューには今日の味噌汁というのもある。これも確か担当さんのおすすめだった。お金を払って品物の入ったレジ袋を受け取る。 今から夕食が楽しみだ。こまごました生活用品の買い物も終わり担当さんとの待ち合わせまであと30分ほどある。休憩をとろうと本通りの喫茶店に入る。ここの喫茶店は珈琲よりも紅茶がおいしい。僕はカウンターにいるマスターに直接、おススメの紅茶を頼んで窓側の奥の席に座った。 カバンからクロッキー帳を出して席の横にある出窓の花を書いてみることにした。すぐにマスターが紅茶を運んできてくれた。クロッキー帳を覗き込んで天才だねと言って去っていく。あらかた描けると、温かいうちに紅茶を飲もうとクロッキー帳を置いた。 その時だ、彼が歩いていた…なんで。窓を隔てた向こうに彼がいた。あの背格好や髪型は彼だった。 紅茶を持っていなくて良かった。たぶん持っていたら派手にぶちまけていたと思う。 窓に置かれた花の匂いが急に強くなった。そのとたん血がぐんっと音を立てて頭に上った。心臓がうるさい音を立て締め付ける。それに反して指や末端がキューッと冷えてくる。 マスターに具合が悪いことを伝え、担当さんを呼んでもらうように声をかけた。僕はふらふらとトイレに行った。そのままカギをかけて閉じこもる。 そして、そのまま彼のいない初めてのヒートになった。 シェルターのヒート用の部屋に案内される。 処方してもらった抑制剤をかみ砕いて飲み込んだ。息が荒くなる。 軽食や水分については定期的に補給があるそうだ。 ベッドのサイドボードにはシェルターが用意してくれたヒート用の玩具やローションがあった。 涙がにじむ。 こんなものには頼らない。こんなものに暴かれるなんて御免だ。 マウスピースを咥えた。 どんどん熱くなる体と。触らなくても滾る陰茎。尻はヒクヒクと勝手に蠢く。 絶対抗ってやる。僕は絶対に自分を慰めることはしない。 目をつむってひたすら自分の体の変化を受け止めようとした。 シーツをつかむ指が白くなる。 意識がもうろうとするたび、現れる彼の幻影が僕の弱点を触っていく。 彼にはルーティンがあった。頬を撫で肩を撫でやさしく唇に舌を這わす。 直哉、はじめるよ?ってわざわざ宣言してぎゅっと抱きしめる。 いつもヒートはそうやって始まった。 ヒートで熱くなった僕の肌に、汗で冷たくなった彼の肌が心地よくて擦り寄るのを、かわいいと言ってくれた。優しい手は分厚くて、でも細やかに僕の全身を撫でた。 彼の匂いを思い出す。彼のアルファの匂いは甘い花の香りがした。彼の匂いに似たものを探そうとフレグランスの店に行ったこともある。一番近かったのはチューベローズだ。僕の一番好きな匂いになった。 恥ずかしくて控えめな反応しか返せなかった僕をじっくりと観察して。 ゆっくりと体を揺らす彼の獣じみた目は僕を高ぶらせた。 誰もいないベッドで幻影の彼に惑わされ…むなしくて悲しくて辛い。 彼が僕だけのものだった時期も、彼に愛されていた時期もあったのだ。 僕のヒートは5日かかった。マウスピースは3個ダメにした。 僕から彼が消えない。 涙が止まらない。 ヒートが明けた時は全身がしんどくて、痛くて、けだるかった。 担当さんに連絡を入れてふらふらとシャワーを浴びに行った。 シャワーに溶けていく涙を他人事のように思った。 彼がいないヒートがこんなに辛いなんて、こんなに苦しいなら記憶を消してほしい。 簡単に忘れる事などできないのだと思い知った。 ヒートの部屋を出て自分の部屋に戻ると、すぐ控えめなノックのあと担当さんが来てくれた。手にはヒート前に食べそびれた鯖みそとお味噌汁を持っていた。わざわざ買ってきてくれたみたいだ。 空腹を刺激する食べ物の匂いに食欲のスイッチが入った。 一気に食べ終わると体に温かさが満ちた。 今度は睡眠欲だ。少しうとうととしてしまう。 担当さんは笑いながら、手早く血圧やバイタルをとって端末に登録していた。 「ヒートの前の日。街で彼を見ました」 僕は寝てしまう前に報告する。 「まぁ…ほんとに?」 担当さんは機械をしまいつつ答える。 「窓越しに見たので本当に見ただけなんです」  「その彼の写真はお持ちですか?」 僕は電源を入れていなかったスマフォをクローゼットの棚から出した。 案の定電源は入らず、他には写真を持ってなかった。全部捨てたんだった。 僕は鉛筆を持ってクロッキー帳を出したが、担当さんに止められた。 「ごめんなさい、今すぐじゃなくて良いです、この続きは明日しましょう。ヒート明けで疲れてるでしょう、ひとまず寝ましょう。判断力が下がってますよ」 そう言って僕をベッドに促すと、担当さんは僕のスマフォを持って「充電しておきます」と言って部屋を出て行った。 そうだ、眠かった。そこからはぱたりと記憶がない。 次の日の朝。10時になると担当さんが来た。 担当さんは赤木さんという名前だった。大学生と高校生のお母さんで、現在50歳の番持ちのアルファというのも知った。僕が23歳なので倍以上だ。1か月も一緒にいて初めて名前を認識したことに驚く。いまさら失礼が無かったかと思い返した。赤木さんは僕をナオ君と呼びますねと宣言した。 この一月のこと。僕は自分が思っている以上に僕自身のことでいっぱいいっぱいだった。 赤木さんは手早く僕の血圧とバイタルとフェロモン値を計測すると。昨日預けたスマフォを差し出した。 「どうしますか、私たちは絶対的にナオ君の味方です。もし、その相手の彼をシャットアウトしていいのなら全力でナオ君を守ります」 僕は何も言えず無言で赤木さんからスマフォを受け取ると電源を入れた。 何も変わりのない画面だった。以前もスマフォは彼や友達との連絡にしか使っていなくて。中身は通話アプリを入れたくらいで初期設定のままゲームも入ってない。ホーム画面もスマフォを買ってすぐのころに彼と行った動物園のキリンの写真だった。 彼の写真を見ようとフォトアプリを開く。 彼とふたりで最後に撮った写真は去年の8月で一緒に花火を見た時の写真だった。僕はこまめに写真を残すタイプではなかったし。彼も写真に写りたがらなかった。二人の思い出はこれが最後だった。半年以上の間彼とは思い出を残すことをしていなかった。 また、あの寒い部屋を思い出す。 そして、何度も送られてきていた彼女と彼の写真。 僕はいつまで泣き続けたらいいんだろう。 赤木さんは申し訳なさそうに脱脂綿を渡してくる。これ。血を抜くときに使うやつだ。でも、ありがたく受け取って涙を拭いた。 「この彼がナオ君の彼ですか。なるほど」 そう言って赤木さんは忌々し気に写真にデコピンした。 赤木さんは一言断わってネットにつなげて、写真を何枚か赤木さんのパソコンに転送した。 そうすると眠っていたスマフォは突然息を吹き返した。 アプリとメールが反応した。すごい勢いで数字が増えている。 「ナオ君。アプリの着歴が500件以上あります。うひゃーーっ」 赤木さんが大慌てで漫画みたいなリアクションをとるから。笑えて深刻ぶってしまわずにすんだ。回線を切ってもアプリは消えないんだ。知らなかった。 彼のアイコンの横には大きな数字が表示されていた。彼に離婚の連絡した後からずっと何度も言葉と電話を僕に送ってきていたみたいだ。 「赤木さん、一緒に見てくれますか?」 赤木さんはうなずいて「私はあなたの担当ですから」と言ってくれた。 彼の名前をタップするとまず見えたのは電話のマークだった。あの後ずっと電話をかけてきていたみたいだ。 そのあとの2週間は“心配しています”と“電話ください”が並んでいた。 2週間目からは彼の日記のような内容になっていた。今日は何を食べたとか。何を見たとか。僕の料理のあれが食べたいとか。 僕は止まらなくなった涙で目を潤ませながら文字を追った。付き合い始めたころ。一緒に住み始めたころ。彼は確かにこんな風に僕に報告してきた。 そして、画面には僕の知らないアニメキャラクターのスタンプが並んでいることに気づく。このキャラクターは子供に人気のキャラクターだ。 僕はスタンプは使わないそれは彼もだった。 子供のいる赤木さんは気づいている。このスタンプの意味を。 彼は構わず 電話とスタンプ 日記めいた文字をひたすら送ってきていた。 スタンプが気になって目が滑る。僕はひたすらスライドしていった。 もう閉じようかと思ったが、写真に目が留まった。 それはこの港町のシンボルになっている灯篭の写真だった。日付は僕がヒートに入る前日。僕が喫茶店の窓から彼を見た日だった。 息が止まる。 そして、すぐにアプリの電話機能が鳴りだした。ネットにつないでアプリを開いたために既読が付いてしまったみたいだ。そしてそれに気づいた彼が電話をかけてきている。 赤木さんとふたりスマフォをじっと見つめていた。 何度か鳴っては鳴りやむを繰り返すと。アプリが次々と文字を表示させる。 “直哉 話がしたい”  “直哉 見てるんだろ” “直哉 何か言ってくれ” 耐えきれずスマフォの電源を落とした。そしてそのまま赤木さんに押し付けた。 見ると赤木さんまで泣いていた。 「私はこの1ヶ月ナオ君を見てきました。ナオ君、私たちに守らせてください」 僕はなんて弱いんだろう、世間からしたらたった一度の浮気だ、それでここまで打ちのめされた。子供向けのスタンプに驚くほど傷ついている。人から見たらどれだけ滑稽だろう。完全にうつむいた僕の後頭部を赤木さんが優しくなでる。 「ナオ君、悲しんでいる気持ちは誰かと比べるものではありません。心が痛くて泣いてるのは事実です。バカな比べっこはしないで痛いって泣いて叫んでください。そこではじめて私たちは傷に触れることができるんです」 僕の止まらない涙はいろんな感情の入り混じるものになった。赤木さんは洗面からタオルを持って来てくれた。僕はそのままタオルを被って止まるまで泣き続けた。赤木さんはずっと手を握ってくれていた。 僕は優しい母親のような彼女に救われている。 彼女は手をパンと叩くと話題を変える 「ナオ君は食べることが好きなんですね、私はナオ君の幸せのためにもっとおいしいものを見つけておきます」 そう言って赤木さんは立ちあがるとスマフォをポケットにしまって部屋を出て行った。 それからはまた、仕事をしてご飯を食べて部屋を片付けるを繰り返す日々だった。だけど、彼を街中で見てから街には行っていない。 赤木さんは早速動いてくれて彼の家に行ってカウンセリングをしてくれている。彼はまだあの家に住んでいて。離婚届はまだ出されていないことが分かった。 また気づけばカレンダーが2枚破られた。7月になった。そろそろ髪を切りたい。 そう言えば女の子は失恋をすると髪を切る。僕の場合は失恋なんだろうか。 髪を切りたいと言うと赤木さんは善は急げと日取りを決めてくれた、護衛兼運転手の小橋君と言う人を紹介してくれるそうだ。都会はアルファがいる確率が上がる。番のいないオメガは無防備だ。なのでシェルターでは護衛に番のいる男性アルファが付くことになっている。 久しぶりの遠出にワクワクする。赤木さんがニコニコ見ていた、この人は根っからのお母さんだ。あれから、赤木さんたちは彼に会いに行っているそうだ、もう3度話をしたらしい。 ただ、彼女が教えてくれるのは会ったという報告だけだ。 僕に新しいスマフォをくれた。契約者はシェルターだ。前のスマフォはバックアップは取ったもののすべてアプリは解約した。 ほどなく部屋に小橋君が来た。護衛と聞いていたのだが、見た目は普通のお兄さんといった感じだった。 「ナオ君。普通だなこいつって思ってるでしょ。顔に出てますよ」 「あーうん。護衛を兼ねてるって聞いてたからごっついの思い浮かべてた」 「守るのはナオ君一人なんですから、ごついの連れて変に目立つよりいいでしょ」 小橋君は話しやすいお兄さんだった。赤木さん曰く。コミュ力NO.1 だそうだ。 「安心しなさい、抑制剤飲みますし、番以外には勃たないんで!」 ピシッと親指を立てる小橋君を赤木さんが撫でている。ここも親子かと笑った。 当日小橋君とは駐車場で待ち合わせた。 美容院は小橋君のお友達のお店なので安心してくださいと言われた。 ついでに欲しいものがあれば買って帰りましょうね!と元気いっぱいだった。 小橋君のお友達だからどんな人が出てくるのかと思ったが美容院は落ち着いた外観と内装で。オシャレな場所には緊張する僕も落ち着く店だった。 小橋君のお友達も落ち着いた人だった。それもそうか。小橋君と同級生なら28歳だ。元気いっぱいな小橋君のが変わってるんだ。 お友達はベータの人で小橋君とは高校が一緒だったそうだ。 人生で初めてツーブロックという髪型にしてもらった。「メガネがかけやすいですね」ってお礼を言ったら笑われてしまった。 仕上げにとワックスで毛先を遊ばされた。人生で初めて僕の毛先が遊んでるのを見た。 小橋君も小橋君のお友達もかっこいいと褒めてくれた。小橋君は早速写真をバシバシッと撮って赤木さんに送ったみたいだ。すぐ、赤木さんからはかっこいいねと返事が来ていた。写真を撮られたのは面食らったが褒められるのはうれしかった。 気分が上がった。小橋君はショッピングモールに連れて行ってくれた。 服を買った。ファストフードでお昼を食べた。 久しぶりにたくさんの人を見た。平日でもショッピングモールはいろいろな人たちが行きかう。 フードコートで休憩していると知らないアルファの匂いがした。 僕は人生でもアルファには嫌な目にしか会ってない、ひやっとした。 そう言えば学生時代。オメガもアルファも学校に1人いるかいないかくらい珍しかった。僕はオメガというのは隠してなかったから良く他のクラスや他の学校からも見にくる子がいた。僕も隣の学校にアルファがいるらしいと聞いて好奇心で見に行った。彼は同級生と並んで歩いていた。彼だけ頭一つ大きくてかっこよかった、さすがアルファだなと思った。そしてそこで、初めてアルファの匂いというものを知った。 フードコートで感じた知らないアルファの匂いは追ってきていたが、小橋君がうまい事人波を避けてかわしていきエレベーターの戸が閉まるのと同時に乗り込んでまくことができた。そのまま各階のボタンを押して適当なところで降りて車に戻った。人をまくと言うの初めてした、なんだかスパイの逃亡劇めいて笑ってしまった。 僕は興奮していた。車の中で小橋君に軽口をたたいた後、うとうとして寝た。楽しい時間はあっという間だった。また、街に遊びに行ってもいいかなと思った。 気が付けばシェルターの門の前まで帰ってきていた。門が開くのを待っていると窓を叩く音がする。驚いて外を見るとガラス1枚隔てた向こうに彼がいた。僕は目をそらせずに見つめるしかできない。 「直哉…!」 「うわぁ!まじか」小橋君が驚いて同じく窓を見ていた。 門衛さんがやってきて彼を羽交い絞めにして車から剥す。 …彼は何度も僕の名前を呼びながら身を捩っている。 小橋君は構わず車を進めて門の中に入って行く。 門が閉まる…格子の門は彼を閉じ込める檻のように見えた。 ひゅっ。自分の呼吸する音が聞こえた。いつの間にか息を止めていたみたいだ。 シートベルトを指が白くなるほど握っていた。 息を吐くと同時に涙があふれた。 赤木さんが車まで迎えに来てくれた。 赤木さんに手を引かれながら自分の部屋に行く。 「今日は午前中彼の面談をここでしたの。面談のあとは駅まで送ったわ。ちゃんと家まで送るべきだったこちらの不手際です、ごめんなさい」 ベッドに座る僕の向いに机の椅子を置いて赤木さんが話している。 「彼はこのシェルターにナオ君がいる事を知っていて、あなたがこのシェルターに入るところも何度か確認したそうよ。会いたいと言って申請が来ていたけどそれは無理だと断った。まだ早い時期だったから、ナオ君はいなくてもいいから今回はこのシェルターで面談がしたいと言って来た。一度はちゃんとあなたが暮らせていることを見せた方が良いと判断して了承したの。でも万が一があってもだめだからナオ君にはシェルターから離れてもらっていたのに」 「大丈夫です、もう大丈夫、僕は何もされてません」 「大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言わないで」赤木さんが泣いてしまった。僕はどうやら言葉選びを間違えたみたいだ。 「あんな感情的な彼を見たのは初めてです、いつも穏やかで優しい人だった。あんな風に大きな声を出して窓を叩いて暴れてた」 …聞いてもらえますか。 赤木さんはぎゅっと手を握ってくれた。 「僕たちは結婚するとき駆け落ち同然だった。だから、お金もたよる人もいなくて。生活が落ち着くまではと、彼が社会に出て2年経ったら番になろうと約束をしていました。今年の4月がその2年目だったんです。僕にはすごく大事な約束だった。でも浮気に気づいてからはやるせなかった。普段通りに過ごして知らないふりして大丈夫と言い聞かせて。僕自身が傷つかないように事実から逃げた。でも、そのまま番になったらどうなるんだろうって怖かった。このまま信用できない彼と一生を共にすることが怖かった。僕は彼と一生添い遂げるものだと思っていたのに」 声が震える、僕の浅ましさに赤木さんはひかないだろうか。 「浮気の報告があってから家の中で少しでもあのオメガの匂いがする物は捨ててやりました。捨てつくしたら部屋が空っぽで彼の匂いもしなくなった。僕は一人になった、僕は空っぽだ。彼に全身で寄りかかっていた。彼がいなくなれば何もない。僕は僕を保つため縋りつくのが楽だったんだ。でもそれじゃダメだと思ったんです。このシェルターに登録しました。アルファがいなくても生きていける場所です」 言って涙を拭く。 「僕は最後に彼に話がしたいって言った。彼は月末に出張に行くことになっていて、予定は4日間。彼の出張が嘘であることは知っていました、たぶん今度も彼女の家に行くだろうと、だから。わざと早く帰ってきて話がしたいって言いました。普段ならそんなこと言わない。それに気づいてくれるのを願った。彼が出てすぐ僕は僕のものを捨てていった。ゆっくりと捨てて行った。途中で彼が帰ってきたらなんて言うだろうって。でも、何もかも捨てきっても彼は帰ってこなかった。僕に残ったのはむなしさと誰の匂いもしない家だけでした。そして4日目にここに来ました、僕はあの部屋にはいらない僕自身を消すためにここへ来ました。覚悟してきたつもりです」 「ありがとう」赤木さんがそう言って僕の頭を撫でる。 「ナオ君の口から大事なことが聞けてうれしいです。でも私は悔しいです、ナオ君、自分を守ることは悪いことじゃない。ナオ君は必要以上に自分を責めすぎです。それに………気づいてますか?ナオ君は自分を捨てても彼を捨ててないです」 僕は目をさまよわせた、赤木さんはまたぎゅっと手を握ってくれた。 「こんなに早急にナオ君に結論を出すよう押し付けるのは良くないことだと分かっています。でもこのままにしておいたらナオ君はどんどん自分を責めてナオ君の良さを消していく。そんな姿見てられないです」 赤木さんが真剣な目をした。 「彼を捨てることはできますか?離婚を直接彼に切り出すことはできますか?」 僕はここにきてまだ彼を好きな気持ちが残っていることを思い知らされた。 ……でも、僕はオメガで彼はアルファだ。 僕は少し待ってもらうことにした。今は到底無理だ。会ってしまえば決心が揺らぐ。僕は間違いなく恋焦がれてしまう。

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